東北大学附属図書館 夏目漱石ライブラリ

小説執筆時代Ⅰ

 漱石は明治36年(1903)1月に帰国した。同年4月、第一高等学校英語嘱託、東京帝国大学文科大学講師に就任する。

 一高では明治36年5月22日に、漱石の教え子であった藤村操が「華厳の滝」に入水するという事件が起こった。漱石は、宿題をして来ない藤村を厳しく叱ったことがあったため、自分の叱責が原因で藤村が自殺したのではないかと考えたようである。

 東京帝国大学では、漱石は、「英文学概説」などを講義する。語学に厳しく理論的で緻密な漱石の授業は、前任者であったラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の情熱的な授業に親しんでいた生徒たちに違和感を与えた。漱石の教え子の一人であった金子健二は次のように回想している。

 特に漱石先生の講義は、その研究のシステムが文学それ自身を鑑賞する時に必要と考えられる批評学の一端を分析的に取扱おうとする所に重点が措いてあった為に、ヘルン先生の如く立派な芸術は理くつぬきにして直覚的に鑑賞すべきものであるという立場とは既に根本的に異なっていたのである。
(金子健二『人間漱石』)

 しかし一般講義の『マクベス』の授業は、当時、シェイクスピアの劇が上演され人気を博していたこともあり、「大入繁昌」(同)だったという。

 帰国後の漱石は精神的に不安定な状態が続く。このような不安な日々は妻の鏡子によれば明治36年(1903)6月頃から明治37年(1904)5月頃まで続いたようである。妻の鏡子は次のように回想している。

 梅雨期頃からぐん/\頭が悪くなつて、七月に入つては益々悪くなる一方です。夜中に何が癪に障るのか、無暗と癇癪をおこして、枕と言わず何といはず、手当り次第のものを放り出します。子供が泣いたといつては怒り出しますし、時には何が何やらさつぱりわけがわからないのに、自分一人怒り出しては当り散らして居ります。どうにも手がつけられません。
(『漱石の思ひ出』)

 『吾輩は猫である』は、このような漱石の不安な日々の中で執筆された。『吾輩は猫である』の第一回は、明治38年(1905)1月発行の雑誌『ホ トトギス』第8巻第4号に掲載された。漱石は、一回限りのつもりで書いたが、大きな反響を呼び第十回まで同誌に断続的に掲載された。明治38年には『吾輩 ハ猫デアル』上篇が刊行された。上篇の挿絵を担当したのは、フランス留学から帰国したばかりの画家・中村不折であった。
 漱石は、『吾輩は猫である』について、次のように述べている。

 さて正岡子規君とは元からの友人であつたので、私が倫敦に居る時正岡に下宿で閉口した模様を手紙に書いて送ると、正岡はそれを『ホトヽギス』に載せた。 『ホトヽギス』とは元から関係があつたが、それが近因で私が日本へ帰つた時(正岡はもう死んで居た)編輯者の虚子から何か書いて呉れないかと嘱まれたので始めて『吾輩は猫である』といふのを書いた。所が虚子がそれを読んで、これは不可ませんと云ふ。訳を聞いて見ると段々ある。今は丸で忘れて仕舞つたが、兎に角尤もだと思つて書き直した。  今度は虚子が大いに賞めてそれを『ホトヽギス』に載せたが、実はそれは一回きりのつもりだつたのだ。ところが虚子が面白いから続きを書けといふので、だん/\書いて居るうちにあんなに長くなつて了つた。といふやうな訳だから、私はたゞ偶然そんなものを書いたといふだけで、別に当時の文壇に対してどうかうといふ考も何もなかつた。たゞ書きたいから書き、作りたいから作つたまゝで、つまり言へば私があゝいふ時機に達して居たのである。 (「時機が来てゐたんだ―処女作追懐談」)

 東風君苦沙弥君皆勝手な事を申候夫故に太平の逸民に候現実世界にあの主義では如何と存候御反対御尤に候。漱石先生も反対に候。
 彼らの云ふ所は皆真理に候然し只一面の真理に候。決して作者の人生観の全部に無之故其辺は御了知被下候。あれは総体が諷刺に候。現代にあんな諷刺は尤も適切と存じ猫中に収め候もし小生の個性論を論文としてかけば反対の方面と双方の働きかける所を議論致し度と存候。
(明治39年8月7日畔柳芥舟宛書簡)

 『猫』ですか、あれは最初は何もあのように長く続けて書こうといふ考えもなし、腹案などもありませんでしたから無論一回だけで仕舞ふ積り。また斯くまで 世間の評判を受けうやうとは少しも思つて居りませんでした。最初虚子君から「何か書いて呉れ」と頼まれまして、あれを一回書いてやりました。丁度その頃文章研究会といふものがあつて、『猫』の原稿をその会へ出しますと、それを其席で寒川鼠骨君が朗読したさうですが、多分朗読の仕方でも旨かつたのでせう、甚く其席で喝采を博したさうです。(中略)
 妙なもので、書いて仕舞つた当座は、全然胸中の文字を吐き出して仕舞つて、もう此次には何も書くやうなことは無いと思う程ですが、扨十日経ち廿日経つて見ると日々の出来事を観察して、又新たに書きたいやうな感想も湧いて来る。材料も蒐められる。斯んな風ですから『猫』などは書かうと思へば幾らでも長く続けられます。
(「文学談」)

 一方、漱石に『ホトヽギス』への執筆をすすめた高浜虚子は次のように回想している。

 此頃われ等仲間の文章熱は非常に盛んであつた。殆ど毎月のやうに集会して文章会を開いてゐた。それは子規居士生前からあつた会で、「文章には山がなくては駄目だ。」といふ子規居士の主張に基いて、われ等はその文章会を山会と呼んでゐた。(中略)遂に来る一二月の何日に根岸の子規庵で山会をやることになつてゐるのだから、それまでに何か書いてみてはどうか、その行きがけにあなたの宅へ立寄るからといふことを約束した。(中略)
 この「我輩は猫である」―漱石氏は私が行つた時には原稿紙の書き出し三四行明けたまゝにして置いて、まだ名はつけてゐなかつた。名前は「猫伝」にしようか、それとも書き出しの第一句である「吾輩は猫である」に其儘用ひようかと思つて決しかねてゐるとの事であつた。私は「吾輩は猫である」の方に賛成した。―これは文章会員一同に、「兎に角変つてゐる。」といふ点に於て賛辞を呈せしめた。さうして明治三十八年一月発行のホトトギスの巻頭に載せた。此の一篇が忽ち漱石氏の名を文壇に嘖々たらしめた事は世人の記憶に新たなる所である。
(高浜虚子『漱石氏と私』)

 明治38年(1905)から明治39年(1906)にかけて漱石は、「倫敦塔」、「カーライル博物館」、「幻影の盾」、「琴のそら音」、「一夜」、「薤露行」、「坊っちやん」、「草枕」などを相次いで発表している。

 『坊つちやん』の中の坊つちやんという人物は或点までは愛すべく、同情を表すべき価値のある人物であるが、単純過ぎて経験が乏し過ぎて現今のように複雑な社会には円満に生存しにくい人だなと読者が感じて合点しさえすれば、それで作者の人生観が読者に徹したというてよいのです。
(「文学談」)

 ただきれいにうつくしく暮らす、即ち詩人的にくらすという事は生活の意義の何分一か知らぬがやはり極めて僅少な部分かと思う。で『草枕』のような主人公ではいけない。あれもいいがやはり今の世界に生存して自分のよい所を通そうとするにはどうしてもイブセン流に出なくてはいけない。
(明治39年10月26日鈴木三重吉宛書簡)

 私の『草枕』は、この世間普通にいう小説とは全く反対の意味で書いたのである。唯だ一種の感じ--美くしい感じが読者の頭に残りさえすればよい。それ以外に何も特別な目的があるのではない。さればこそ、プロツトも無ければ、事件の発展もない。
(談話「余が『草枕』」)

 鏡子は、この時期の漱石の執筆の様子について、次のように述べている。

 別に本職に小説を書くといふ気もなかつたところへ、長い間書きたくて書きたくて堪らないのをこらへてゐた形だつたので、書き出せば殆ど一気呵成に続け様に書いたやうです。(中略)書いてゐるのを見てゐるといかにも楽さうで夜なんぞも一番遅くて十二時一時頃で、大概は学校から帰つて来て、夕食前後十時頃迄に苦もなく書いて了ふ有様でした。(中略)傍で見て居るとペンを執つて原稿用紙に向へば直ちに小説が出来るといつた具合に張り切つて居りました。だから油が乗つてゐたどころの段じやありません。それですもの書き損じなどといふものは、全くといつていい程なかつたものです。
(『漱石の思ひ出』)

 明治39年10月11日からは、「木曜日の午後三時からを面会日と定候」(明治39年10月7日付野村伝四宛書簡)とし、「木曜会」が開催された。
 「木曜会」には、小宮豊隆、寺田寅彦、鈴木三重吉、森田草平、阿部次郎らが集った。また漱石の晩年、大正4年(1916)には、菊池寛、芥川龍之介、久米正雄らがはじめて木曜会に参加した。

 漱石先生の面会日は週の木曜日で有る。其日の夕方から漱石先生の門に出入する若い連中が集まつて、勝手な無駄話をするのが常例に成つて居る。これは随分旧くからの仕来りで、今に至るも連綿として跡を絶たない。尤も顔触は大分変つた。初期の千駄木時代には、高浜虚子、坂本四方太(此二人はお弟子ではない。)寺田寅彦、松根東洋城など、既に一家を成した人々の顔も時々見掛けて、つゞいて三重吉、豊隆、臼川、今は第八高等学校の羅甸語を受け持つてい居る中川芳太郎なぞが重なる参者で有つた。
(「漱石山房座談」)

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