東北大学附属図書館 夏目漱石ライブラリ

漱石をとりまく人々

正岡子規

 傑出した文学的才能を持つ二人の、比類のない盟友関係は、明治22年(1889)5月、漱石が子規の文集に批評文を寄せたことから本格的に始まる。しかし二人の友情は、その始まりから既に訣別の予感を孕んでいたのではなかったか。同じ頃、子規は肺結核と診断され「余命十年」を覚悟したという。死と隣接する子規と、漱石の友情は、自ずと凝集されたものとなる。  漱石は、子規の影響により、漢詩文を作り、句作に励み、やがて子規門下の高浜虚子の勧めにより、子規と関係の深い雑誌『ホトトギス』に「吾輩は猫である」を執筆した。小説家・夏目漱石が誕生する媒介となったのは、正岡子規であった。しかし漱石が小説を書き始める時には、子規は既にない。子規は、漱石が英国に留学していた明治35年(1902)9月に亡くなったのだった。  「何でも大将にならなけりや承知」せず、漱石を万事「弟扱ひ」にして憚らなかった子規。留学中の漱石へ「僕ハモーダメニナツテシマツタ」と書き送り、「僕ノ目ノ明イテイル内ニ今一便ヨコシテクレヌカ」と漱石からの「倫敦消息」を心待ちにしていた子規。しかし、倫敦の下宿に閉じ籠り、「神経衰弱と狂気」に陥る程に「根本的に文学とは如何なるものぞと云へる問題」を解明しようと格闘する漱石は、さらなる「倫敦消息」を子規に書き送ることは出来なかった。子規の願いを聞き届けることが出来なかったという切実な思いは漱石の内に深い悔いとなって残ったに違いない。その思いから漱石は、『吾輩ハ猫デアル』中篇序に、子規への「往日の気の毒を五年後の今日に晴さう」と記した。だから『吾輩ハ猫デアル』は、子規の「霊前に献上」されたのである。

狩野亨吉

 明治・大正・昭和期の思想家・教育者。秋田県に生まれ、明治21年(1888)東京帝国大学理学部数学科、24年同文科大学哲学科を卒業。四高・五高教授を経て明治31年一高の校長、39年京都帝国大学文科大学初代学長に就任、それぞれ独自の学風を作るが、41年辞職。以後、書画の鑑定売買を業とし、在野の思想家として、近世日本の自然科学思想等の研究に活躍した。特に安藤昌益の『自然真営道』稿本を発見、その独自な思想を初めて紹介したことで知られる。
 漱石とは、生涯を通じての親しい友人であり、大正5年(1916)12月12日の漱石の葬儀において、友人代表として弔辞を読んだ。

狩野文庫
土井晩翠

 詩人、英文学者。仙台生れ。本名土井林吉。明治30年(1897)東京帝国大学英文科卒。明治32年第1詩集『天地有情』によって高い評価を得、『若菜集』の島崎藤村と並び称せられる。藤村とは対照的な漢詩調の男性的詩風で、後年は校歌なども多く手がけた。明治33年(1900)、二高教授となる。ヨーロッパ遊学のため翌年退職するが、38年に復職し昭和9年(1934)まで勤める。滝廉太郎作曲「荒城の月」の作詞者としても知られる。晩年にはホメロス の二大叙事詩『イーリアス』と『オヂュッセーア』の全韻文訳を完成した。昭和25年(1950)詩人としては初めて文化勲章を受章。
 晩翠は漱石の東京帝国大学英文学科の後輩であるが、その出会いは晩翠がまだ第二高等学校在学中の明治27年(1894)で、漱石の松島旅行の途中のことであった。

晩翠文庫
ラファエル・フォン・ケーベル

 哲学者、音楽家。ドイツ系ロシア人の子としてロシアに生まれ、1872年モスクワの音楽院を卒業。その後、ドイツに留学しイエナ大学、ハイデルベルク大学で哲学を学び、1880年ショーペンハウエルに関する論文で学位を取得した。明治26年(1893)東京帝国大学の哲学教師として来日し、大正3年 (1914)まで在任。傍ら東京音楽学校でピアノを教える。第一次大戦のため帰国できず、75才で横浜で死去。幅広い教養と高潔な人格により、大正期の教養主義思潮に強い影響を与えた。
 漱石が文科大学で一番人格の高い教授としてあげているラファエル・フォン・ケーベルとの出会いは、明治26年(1893)で、来日してすぐのケーベルが行った美学の講義においてであった。

ケーベル文庫
小宮豊隆

 大正・昭和期に活動した評論家、独文学者。福岡県出身。第一高等学校を経て東京帝国大学在学中に夏目漱石に親炙した。卒業後、慶応大学講師、法政大学教授などを経て、大正13年(1924)東北帝国大学教授となり、ドイツ文学講座を担当した。退官後は東京音楽学校長、学習院大学文学部長などを勤め、昭和26年に日本学士院会員となった。
 東北帝国大学時代は阿部次郎たちと交流を深め、専門の他に俳諧、能、歌舞伎などについて研究を行った。また、昭和15年から21年までは、附属図書館の第5代館長として、困難な時期の図書館運営を指導し、漱石文庫の受け入れに尽力した。逝去の後、遺族から蔵書が受け入れられ、小宮文庫として東北大学で保存されている。

阿部次郎

 大正・昭和期に活動した哲学者、美学者。山形県出身。山形中学、第一高等学校を経て東京帝国大学と進み、哲学を学んでケーベルに深い影響をうけた。その後に夏目漱石門下に加わり、森田草平、小宮豊隆らと親交を結ぶ。大正2年(1913)に慶応大学講師となり、翌年に『三太郎の日記』を出版して、哲学的人生論として多くの読者を得、大正期の教養主義、人格主義を代表する一人となった。
 法文学部創設の中心メンバーの一人として、大正10年(1921)から東北帝国大学に奉職し美学を講じた。西洋学を究める一方で日本文化研究を重視し、大正15年に「芭蕉会」を興し、同僚の小宮豊隆、山田孝雄、村岡典嗣、岡崎義恵、太田正雄(木下杢太郎)らと交流した。敗戦を経て、文化国家建設に新たな目標を見出し、昭和20年の退官後、仙台市内に日本文化研究所を設立した。昭和34年の阿部の逝去後、同研究所の蔵書は東北大学に受け入れられ、阿部文庫として現在に至る。

阿部文庫

写真提供/松山子規記念博物館・東北大学史料館
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