東北大学附属図書館 夏目漱石ライブラリ

小説執筆時代Ⅱ

 漱石は、明治38年(1905)頃から、教師を続けるかそれとも小説家になるか、迷っていた。例えば門下生のひとりである中川芳太郎宛ての明治38年7月15日付の手紙では、次のように記している。

 先達日本新聞がきて何でも時々かけといふから。僕もつくづく考へたね、毎日一欄書いて毎日十円もくれるなら学校を辞職して新聞屋になった方がいゝと。

 また『草枕』の執筆後の明治39年10月頃には、漱石は知人たちに宛てて次のような書簡を送っている。

 余は吾文を以て百代の後に伝へんと欲する野心家なり。(中略)余は隣り近所の賞賛を求めず。天下の信仰を求む。天下の信仰を求めず。後世の崇拝を期す。此希望あるとき余は始めて余の偉大なるを感ず。
(明治39年10月21日森田草平宛書簡)

 今迄は己れの如何に偉大なるかを試す機会がなかつた。己れを信頼した事が一度もなかつた。朋友の同情とか目上の御情とか、近所近辺の好意とかを頼りにして生活しやうとのみ生活してゐた。是からはそんなものは決してあてにしない。妻子や、親族すらもあてにしない。余は余一人で行く所迄行つて、行き尽いた所で斃れるのである。
(明治39年10月23日狩野亨吉宛書簡)

 僕は一面に於て俳諧的文学に出入すると同時に一面に於て死ぬか生きるか、命のやりとりをする様な維新の志士の如き烈しい精神で文学をやつて見たい。それでないと何だか難をすてゝ易につき劇を厭うて閑に走る所謂腰抜文学者の様な気がしてならん
(明治39年10月26日付鈴木三重吉書簡)

 明治40年(1907)、漱石はついに教職を辞し、朝日新聞社に入社した。漱石の入社にあたっては、鳥居素川、池辺三山、渋川玄耳らが関わった。以後、漱石の小説作品はすべて朝日新聞に掲載されることになる。
 大学教師が新聞社に入社したというできごとは当時、大きな話題となった。

 大学を辞して朝日新聞に這入つたら逢ふ人が皆驚いた顔をして居る。中には何故だと聞くものがある。大決断だと褒めるものがある。大学をやめて新聞屋になる事が左程に不思議な現象とは思はなかつた。(中略)
 新聞屋が商売ならば、大学屋も商売である。商売でなければ、教授や博士になりたがる必要はなからう。月棒を上げてもらふ必要はなからう。勅任官になる必要はなからう。新聞が下卑た商売であれば大学も下卑た商売である。只個人として営業してゐるのと、御上で御営業になるのとの差丈である。
(『入社の辞』)

 明治40年3月末から4月にかけて、漱石は、京都、大阪を旅行した。京都は、かつて、子規とともに訪れた地であった。

 子規と来て、ぜんざいと京都を同じものと思つたのはもう十五六年の昔のなる。夏の夜の月丸きに乗じて、清水の堂を徘徊して、明かならぬ夜の色をゆかしきものゝ様に、遠く眼を微茫の底に放つて、幾点の紅燈に夢の如く柔かなる空想を縦まゝに酔はしめたるは、制服の釦を真鍮と知りつゝも、黄金と強ひたる時代である。真鍮は真鍮と悟つたとき、われ等は制服を捨てゝ赤裸の儘世の中へ飛び出した。子規は血を嘔いて新聞屋となる、余は尻を端折つて西国へ出奔する。御互の世は御互に物騒になつた。物騒の極子規はとう/\骨になつた。其骨も今は腐れつゝある。子規の骨が腐れつゝある今日に至つて、よもや、漱石が教師をやめて新聞屋にならうとは思はなかつたらう。
(「京に着ける夕」)

 漱石は朝日新聞入社第1作として「虞美人草」(明治40年6月23日~10月29日)を発表した。小宮豊隆によれば、「三越では虞美人草浴衣を売り出す、玉宝堂では虞美人草指輪を売り出す、ステーションの新聞売子は「漱石の虞美人草」と言つて朝日新聞を売つてあるくといふ風に、世間では大騒ぎをした」(『夏目漱石』)という。

 虞美人草は毎日かいてゐる。藤尾といふ女にそんな同情をもつてはいけない。あれは嫌な女だ。詩的であるが大人しくない。徳義心が欠乏した女である。あいつを仕舞ひに殺すのが一篇の主意である。うまく殺せなければ助けてやる。然し助かれば猶々藤尾なるものは駄目な人間になる。最後に哲学をつける。此哲学は一つのセオリーである。僕は此セオリーを説明する為めに全篇をかいてゐるのである。だから決してあんな女をいゝと思つちやいけない。
(明治40年7月19日小宮豊隆あて書簡)

 「虞美人草」の後は、「坑夫」(明治41年1月1日~4月6日)、「夢十夜」(明治41年7月25日~8月)、続けて「三四郎」(明治41年9月1日~12月29日)、「それから」(明治42年6月27日~10月14日)、「門」(明治43年3月1日~6月12日)のいわゆる「前期三部作」を連載 する。特に『三四郎』における三四郎と与次郎との関係には、学生時代の漱石と子規との関係が反映しているとも言われる。

 題名―「青年」「東西」「三四郎」「平々地」 右のうち御択み被下度候。小生のはじめつけた名は三四郎に候。「三四郎」尤も平凡にてよろしくと存候。たゞあまり読んで見たい気は起り申すまじくとも覚候。
 田舎の高等学校を卒業して大学に這入つた三四郎が新らしい空気に触れる。さうして同輩だの先輩だの若い女だのに接触して、色々に動いて来る。手間は此空気のうちに是等の人間を放す丈である。あとは人間が勝手に泳いで、自から波瀾が出来るだらうと思う。
(明治41年渋川玄耳宛書簡)

 子規は果物が好きだつた。且ついくらでも食へる男だつた。ある時大きな樽柿を十六食つた事がある。それでも何ともなかつた。自分抔は到底子規の真似は出来ない。―三四郎は笑つて聞いてゐた。けれども子規の話丈には興味がある様な気がした。
(『三四郎』)

 色々な意味に於てそれからである。「三四郎」には大学生の事を描たが、此小説にはそれから先の事を書いたからそれからである。「三四郎」の主人公はあの 通り単純であるが、此主人公はそれから後の男であるから此点に於ても、それからである。此主人公は最後に、妙な運命に陥る。それからさき何うなるかは書いていない。此意味に於ても亦それからである。
(『それから』予告)

 拝復。葉書をありがとう。「門」が出たときから今日まで誰も何もいつてくれるものは一人もありませんでした。私は近頃孤独という事に慣れて芸術上の同情を受けないでもどうかこうか暮らして行けるようになりました。従つて自分の作物に対して賞賛の声などは全く予期していません。しかし「門」の一部分が貴方に読まれて、そうして貴方を動かしたという事を貴方の口から聞くと嬉しい満足が湧いて出ます。
(大正元年10月12日阿部次郎宛書簡)

 明治42年(1909)、漱石は中村是公の招待で満州、朝鮮を旅行し、「満韓ところどころ」にまとめた。
 明治43年(1910)3月から6月まで、漱石は、朝日新聞に『門』を連載した。連載終了後、漱石は胃潰瘍のため入院する。8月には、転地療養のため伊豆の修善寺温泉に向かった。しかし宿に到着した翌日から病状が悪化し、8月24日には大量の吐血をし危篤状態に陥った。いわゆる「修善寺の大患」である。 漱石はこのときの状態を「三十分の死」と呼び、つぎのように述懐している。

 強ひて寐返りを右に打たうとした余と、枕元の金盥に鮮血を認めた余とは、一分の隙もなく連続してゐるとのみ信じてゐた。其間には一本の髪毛を挟む余地のない迄に、自覚が働いて来たとのみ心得てゐた。程経て妻から、左様ぢやありません、あの時三十分許りは死んで入らしつたのですと聞いた折は全く驚いた。 (中略)実を云ふと此経験―第一経験と云ひ得るかゞ疑問である。普通の経験と経験の間に挟まつて毫も其連結を妨げ得ないほど内容に乏しい此―余は何と云つてそれを形容して可いか遂に言葉に窮して仕舞ふ。余は眠りから醒めたといふ自覚さへなかつた。陰から陽に出たとも思はなかつた。微かな羽音、遠きに去る物の響、逃げて行く夢の匂ひ、古い記憶の影、消える印象の名残―凡て人間の神秘を叙述すべき表現を数え尽して漸く髣髴すべき霊妙な境界を通過したとは無論考へなかつた。たゞ胸苦しくなつて枕の上の頭を右に傾け様とした次の瞬間に、赤い血を金盥の底に認めた丈である。其間に入り込んだ三十分の死は、時間から云つても、空間から云つても経験の記憶として全く余に取つて存在しなかつたと一般である。妻の説明を聞いた時余は死とは夫程果敢ないものかと思つた。さうして余の頭の上にしかく卒然と閃いた生死二面の対照の、如何にも急劇で且没交渉なのに深く感じた。
(「思ひ出す事など」)

 また明治44年2月、文部省から博士号授与の通達があったが、漱石はこれを辞退したため博士号授与を巡って事態が紛糾した。

 博士制度は学問奨励の具として、政府から見れば有効に違ひない。けれども一国の学者を挙げて悉く博士たらんがために学問をすると云ふ様な気風を養成したり、又は左様思われる程にも極端な傾向を帯びて、学者が行動するのは、国家から見ても弊害の多いのは知れてゐる。余は博士制度を破壊しなけばならんとは迄は考へない。然し博士でなければ学者でない様に、世間を思はせる程博士に価値を賦与したならば、学問は少数の博士の専有物となつて、僅かな学者的貴族が、学権を掌握し尽すに至ると共に、選に洩れたる他は全く閑却されるの結果として、厭ふべき弊害の続出せん事を余は切に憂ふるものである。余は此意味に於て仏蘭西にアカデミーのある事すらも快よく思つて居らぬ。
 従つて余の博士を辞退したのは徹頭徹尾主義の問題である。
(「博士問題の成行」)

 明治45年(1912)1月、漱石は、『彼岸過迄』によって小説の執筆を再開する。漱石は「彼岸過迄」を連載するにあたって「自分の書くものを毎日日課のやうにして読んで呉れる読者の好意だのに、酬いなくては済まない」(「彼岸過迄に就いて」)と語っている。

 「彼岸過迄」というのは元日から始めて、彼岸過迄書く予定だから単にそう名付けた迄に過ぎない実は空しい標題である。かねてから自分は個々の短編を重ねた末に、其の個々の短編が相合して一長編を構成するように仕組んだら、新聞小説として存外面白く読まれはしないだろうかという意見を持していた。が、ついそれを試みる機会もなくて今日迄過ぎたのであるから、もし自分の手際が許すならば此の「彼岸過迄」をかねての思はく通りに作り上げたいと考えている。
(「彼岸過迄に就いて」)


大正3年の漱石(「硝子戸の中」執筆頃)
 続いて「行人」(大正元年1月12日~大正2年11月17日)、「こゝろ」(大正3年4月20日~8月11日)と、いわゆる「後期三部作」を完成させ、 大正4年(1915)には、自伝的要素の強い「道草」(大正4年6月3日~9月14日)を発表した。続く大正5年5月からは、「明暗」(大正5年5月26 日~12月14日)を連載した。

  僕は不相変「明暗」を午前中書いてゐます。心持は苦痛、快楽、器械的、この三つをかねてゐます。存外涼しいのが何より仕合せです。それでも毎日百回近くもあんな事を書いてゐると大いに俗了された心持になりますので三、四日前から午後の日課として漢詩を作ります。日に一つ位です。さうして七言律です。中々できません。厭になればすぐ已めるのだからいくつ出来るか分りません。
(大正5年8月21日久米正雄・芥川龍之介あて書簡)

 しかし大正5年(1916)11月下旬、漱石は胃潰瘍を再発させ、病床につく。そして12月9日、『明暗』を未完のまま残し、永眠した。

  • 参考文献
  • ■「漱石の生涯」各ページにおける漱石および子規の写真は、神奈川近代文学館、松山市立子規記念博物館、藤田三男編集事務所より提供を受けました。写真の無断転載を禁じます。
  • ■本稿は、『平成15年度東北大学附属図書館企画展 明治・大正期の文人たち‐漱石をとりまく人々‐』展示会図録、「漱石と子規」に加筆・修正を施したものです。

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