東北大学附属図書館 夏目漱石ライブラリ

英国留学時代

 明治33年(1900)5月、漱石は第五高等学校在任中に、文部省から2年間の英国留学の命令を受けた。

 余が英国に留学を命ぜられたるは明治三十三年にて余が第五高等学校教授たるの時なり。(中略)余は特に洋行の希望を抱かずと云ふ迄にて、固より他に固辞すべき理由あるなきを以て承諾の旨を答へて退けり。
(『文学論』序)

 明治33年9月、漱石は横浜港より出発しパリを経て、10月28日に英国に到着した。
 漱石は、ロンドン大学へ通い講義を聴講するとともに、シェイクスピア学者であるクレイグ先生の個人授業を受けている。しかし大学の聴講は数ヶ月でやめてしまった。

 余は先づ走つて大学に赴き、現代文学史の講義を聞きたり。又個人として、私に教師を探り得て随意に不審を質すの便を開けり。
 大学の聴講は三四ケ月にして已めたり。予期の興味も智識をも得る能はざりしが為めなり。私宅教師の方へは約一年間通ひたりと記憶す。
(同)

 漱石は留学の機会に、有名な作品、題名だけは知っているがまだ読んだことのない作品を読破しようと決心する。しかし1年後、読み終えた本のあまりの少なさに愕然とする。

 擅まに読書に耽るの機会なかりしが故、有名にして人口に膾炙せる典籍も大方は名のみ聞きて、眼を通さゞるもの十中六七を占めたるを平常遺憾に思ひたれば、此機を利用して一冊も余計に読み終らんとの目的以外には何等の方針も立つる能はざりしなり。かくして一年余を経過したる後、余が読了せる書物の数を点検するに、吾が未だ読了せざる書物の数に比例して、其甚だ僅少なるに驚ろき、残る一年を挙げて、同じき意味に費やすの頗る迂闊なるを悟れり。
(同)

 また漱石は、幼いころから親しんできた漢文でいうところの文学と、現在彼が学んでいる英語でいうところの文学とが、まったく異なっていることに深く懊悩する。

 余は少時好んで漢籍を学びたり。之を学ぶ事短きにも関らず、文学は斯くの如き者なりとの定義を漠然と冥々裏に左国史漢より得たり。ひそかに思ふに英文学も亦かくの如きものなるべし。斯の如きものならば生涯を挙げて之を学ぶも、あながちに悔ゆることなかるべしと。余が単身流行せざる英文学科に入りたるは、全く此幼稚にして単純なる理由に支配せられたるなり。(中略)
 卒業せる余の脳裏には何となく英文学に欺かれたるが如き不安の念あり。(中略)
 翻つて思ふに余は漢籍に於て左程根底ある学力あるにあらず、然も余は之を充分味ひ得るものと自信す。余が英語に於ける知識は無論深しと云ふ可からざるも、漢籍に於けるそれに劣れりとは思はず。学力は同程度として好悪のかく迄に岐かるゝは両者の性質のそれ程に異なるが為めならずんばあらず、換言すれば漢学に所謂文学と英語に所謂文学とは到底同定義の下に一括し得べからざる異種類のものたらざる可からず。
 大学を卒業して数年の後、遠き倫敦の孤燈の下に、余が思想は始めて此局所に出会せり。(中略)余はこゝに於て根本的に文学とは如何なるものぞと云へる問題を解釈せんと決心したり。
(同)

 「根本的に文学とは如何なるものぞと云へる問題を解釈せんと決心」した漱石はロンドンの下宿に籠り、蝿の頭ほどの小さな文字で膨大なノートを作るという作業に没頭する。

 余は下宿に立て籠りたり。一切の文学書を行李の底に収めたり。文学書を読んで文学の如何なるものなるかを知らんとするは血を以て血を洗ふが如き手段たるを信じたればなり。(中略)
 余が使用する一切の時を挙げて、あらゆる方面の材料を蒐集するに力め、余が消費し得る凡ての費用を割いて参考書を購へり。此一念を起してより六七ケ月の間は余が生涯のうちに於て尤も鋭意に尤も誠実に研究を持続せる時期なり。(中略)
 余は余の有する限りの精力を挙げて、購へる書を片端より読み、読みたる箇所に傍註を施こし、必要に逢ふ毎にノートを取れり。始めは茫乎として際涯のなかりしものゝうちに何となくある正体のある様に感ぜられる程になりたるは五六ケ月の後なり。(中略)
 留学中に余が蒐めたるノートは蠅頭の細字にて五六寸の高さに達したり。余は此のノートを唯一の財産として帰朝したり。
(同)

 『文学論』序の末尾で漱石は英国留学について次のように語っている。

 倫敦に住み暮らしたる二年は尤も不愉快の二年なり。余は英国紳士の間にあつて狼群に伍する一匹のむく犬の如く、あはれなる生活を営みたり。(中略)
 英国人は余を目して神経衰弱と云へり。ある日本人は書を本国に致して余を狂気なりと云へる由。(中略)
 帰朝後の余も依然として神経衰弱にして兼狂人のよしなり。親戚のものすら、之を是認するに似たり。親戚のものすら、之を是認する以上は本人たる余の弁解を費やす余地なきを知る。たゞ神経衰弱にして狂人なるが為め、「猫」を草し「漾虚集」を出し、又「鶉籠」を公けにするを得たりと思へば、余は此神経衰弱と狂気に対して深く感謝の意を表するのは至当なるを信ず。
(同)

妻・鏡子への手紙

 故郷から遠く離れ英国に暮す漱石は、頻繁に妻・鏡子へ手紙を書き送り、妻からの手紙を待ち侘びていた。漱石は、明治34年(1901)2月23日の高浜虚子に宛てた書簡には、「吾妹子を夢みる春の夜となりぬ」と記している。しかし筆不精な鏡子は、あまり返事を送らない。

 書かう書かうと思ひながらも、(中略)中々いざ手紙を書くといふ時がありません。すると家郷からの手紙が待たれると見えて、ちよつとも手紙を寄こさないぢやないか、どうしたのか、いくら忙しいといつたつて、たまさか手紙の一本位書く時間のない筈はないと言つて参ります。(中略)
 其後手紙では彼方へ行つて見ると、方此でそれ程とも思はなかつたことが気になると見えて、よく私の頭のハゲのこと、歯並の悪いことなどを気にして、始めのうちは手紙の度にそれを言つてよこしたものです。ハゲが大きくなるといけないから、丸髷を結つてはいけないの、オウ・ド・キニーンといふ香油をつけるといいのなどと申して来ましたが、たうとう終ひには「吾輩は猫である」の中にまで、私のハゲのことを書いて了ひました。余程気になつたものと見えます。 (『漱石の思ひ出』)

 この時鏡子は、二児を抱えながら僅かな金額で生活しなければならず、さらに父・中根重一が官職を辞し相場に失敗するなどあり、窮状に陥っていたのだった。

 二年半たつて夏目が帰朝した時などは、それは/\みじめなもので、着物なんぞ今迄あつたものは殆ど着破つて満足なものはないといつていい位でした。それでも私一人のことはどうやらすむのですが、子供二人には元々お古からが何もないのですから、季節季節には何か買つてやらなければならないので、本当に弱りました。
(『漱石の思ひ出』)

 鏡子が漱石へ宛てた手紙としては、明治34年(1901)年春のものが紹介されている(中島国彦「1901年春、異国の夫へ―新資料・留学中の漱 石宛、鏡子夫人の手紙―」)。鏡子から送られたこの手紙は、1901年2月20日付の漱石の手紙、「段々日が立つと国の事を思ふおれの様な不人情なものでも頻りに御前が恋しい 是丈は奇特と云つて褒めて貰はなければならぬ」への返事であった。

 あなたの帰り度なつたの淋しいの女房の恋しいなぞとは今迄にないめつらしい事と驚いて居ります しかし私もあなたの事を恋しいと思ひつゝけている事はまけないつもりです 御わかれした初の内は夜も目がさめるとねられぬ位かんかへ出してこまりました けれ共之も日か立てはしぜんと薄くなるだらうと思ひていました処中々日か立てもわすれる処かよけい思ひ出します これもきつと一人思でつまらないと思つても何も云はずに居ましたがあなたも思ひ出して下さればこんな嬉しい事はございません 私の心か通わしたのですよ(中略)
 筆は不相替あばれています 御送りした写真を御覧遊はしたでしやう 此手紙は御覧遊はしたら破いて下さい 四月十二日夜 鏡 金之助様御許

病床の子規

 子規終生の地となった根岸は、「呉竹の根岸の里」、「初音の里」などと呼ばれ「竹」と「鶯」の名所として有名であり、古くから文人墨客が多数居住する、閑静で風流な土地であった。江戸時代には、画家・俳人の酒井抱一、浮世絵師の北尾重政、儒者の寺門静軒・亀田鵬斎らが住み江戸の文化を支えた。明治 20年代には、幸田露伴、饗庭篁村、森田思軒ら、「根岸党」または「根岸派」と呼ばれる文人たちが、根岸を中心に活動していた。根岸党は、文学的な一派というよりは、むしろ、文人たちによる「サロン」という趣きが強かった言われる。また美術家の岡倉天心や新婚当初の森鴎外も根岸近辺に住み、根岸党と関わりを持ったという。

 子規には根岸近郊を詠んだ多くの句がある。「根岸にて梅なき宿と尋ね来よ」、「月の根岸闇の谷中や別れ道」、「芋阪も団子も月のゆかりかな」、「障子明けよ上野の雪を一目見ん」、「人も来ぬ根岸の奥よ冬籠」、「冬ごもる人の多さよ上根岸」。

 漱石の作品の中にも根岸周辺は何度か登場している。例えば『吾輩は猫である』には、苦沙弥先生と多々良三平との間に次のような会話がある。

 芋坂へ行つて団子を食ひませうか。先生あすこの団子を食つた事がありますか。奥さん一辺行つて食つて御覧。柔らかくて安いです。酒も飲ませます。
(『吾輩は猫である』)

 また『こゝろ』では、「私」が「先生」から、「然し君、恋は罪悪ですよ。解つてゐますか」との言葉を聞くのは、「或時花時分に」、「先生と一所に上野へ行」き、「博物館の裏から鶯渓の方角に静かな歩調で歩いて行」く最中においてであった。

 子規が根岸に住みはじめたのは、明治25年からである。日本新聞社社長・陸羯南の紹介で上根岸88番地に住み、松山から母と妹を呼び寄せて生活を送った。明治27年からは、陸羯南の東隣である、上根岸82番地に転居した。いわゆる「子規庵」である。子規は、中村不折に、「文学者や美術家にとり根岸ほどよい所はない、閑静でもあり、研究にも至便の地である根岸を離れず、根岸の土となる」(和田克司「不折と子規」)、と語ったともいう。

 また根岸周辺には、子規に関わりのある、高浜虚子、河東碧梧桐、中村不折、浅井忠、寒川鼠骨らも住んだ。

 上根岸に動物の附いた横町が二つある。
 狸横町に鶯横町。鶯横町とは優しい名だ。どんな横町であらうか。
 狸横町を出た所に前田候の別邸の表門がある。それから一間余りの高さの黒板塀に添うて鶯横町と反対の方向に進むこと二十間許りで裏門へ出る。其裏門には十四五のいろ/\の表札がおもひおもひに打つてある。其れは孰れも此邸の内の貸家に住んでゐる人の名前である。尚ほ黒板塀に添うて左へ曲がつて更に二十間許り行くと又左へ曲る横町があつて其横町の左側は同じく黒板塀で右側は竹垣になつてゐる。其所に一つの立テ札があつて御家流の字で「鶯横町」と書てある。
 此札の立つてゐる所から奥へ三十間許り曲つて淋しい横町が即ち鶯横町である。(中略)
 元来幅の狭い町であるのに、高い板塀と竹籬の内から檜や椋や榛やの立木が飛び/\に出てゐるので、益狭く感じられる。是等の木に春はよく鶯が来て啼くので鶯横町の名がおこつたのであらうといふ事だが、冬枯の今頃でも鶸や鐡嘴はよく来て高い椋の木にしかけてあるハゴにかゝつて毎日四五羽は取られるさうな。 (中略)
 初めて子規氏の宅を尋ねて、なつかしく思つてゐた鶯横町に這入つて来る者は、以上の事を目撃して、さうして三軒のうちの表札を一々しらべて、最後に「正岡子規」とある表札を漸く見当てて喜んで戸を推すと、戸に附けてある鈴がチリヽンと鳴つて、玄関の障子があく前に、必ず主人の咳を聞くであらう。
(高浜虚子「根岸草蘆記事」)

 子規庵には多くの文人たちが集い、子規を中心に活発な文学活動が行なわれた。このような「子規<病牀六尺>は言わば共同の創造の核であった」(坪内稔典『正岡子規 創造の共同性』)。特に、短歌革新を目指した子規は、明治31年にはじめて自宅で歌会を開き、高浜虚子や河東碧梧桐らが参加した。
 子規は、明治34年(1901)1月から7月まで新聞「日本」に『墨汁一滴』を連載し、9月からは病床の手記である『仰臥漫録』を書き始めた。さらに明治35年(1902)5月からは「日本」に『病牀六尺』の連載を開始した。連載第一回には、「病牀六尺、これが我世界である。しかも此六尺の病牀が余には広過ぎるのである」と記している。この『病牀六尺』の連載は死の直前まで続いた。子規にとって、自分の文章が新聞や雑誌に掲載されることは、生きている証に他ならなかった。

 拝啓 僕ノ今日ノ命ハ 「病牀六尺」ニアルノデス 毎朝寐起ニハ死ヌル程苦シイノデス 其中デ新聞ヲアケテ病床六尺ヲ見ルト僅ニ蘇ルノデス 今朝新聞ヲ見タ時ノ苦シサ 病牀六尺ガ無イノデ泣キ出シマシタ ドーモタマリマセン (明治35年5月20日頃古嶋一雄宛書簡)

 子規は幼い頃から何よりも小さな草花たちを愛した。「花は我が世界にして我が命なり。幼き時より今に至るまで野辺の草花に伴ひたる一種の快感は時として吾を神ならしめんとすることあり」(「吾幼児の美感」)。そして病のために起き上がることもままならない子規にとって、子規庵の「小園は余が天地に して草花は余が唯一の詩料」となった。

 我に二十坪の小園あり。園は家の南にありて上野の杉を垣の外に控へたり。場末の家まばらに建てられたれば青空は庭の外に広がりて雲行き鳥翔る様もいとゆたかに眺めらる。(中略)  去年の春彼岸やヽ過ぎし頃と覚ゆ、鴎外漁史より草花の種幾袋贈られしを直に播きつけしが百日草の外は何も生えずしてやみぬ。中にも葉鶏頭をほしかりしをいと口をしく思ひしが何とかしけん今年夏の頃、怪しき芽をあらはしヽ者あり。去年葉鶏頭の種を埋めしあたりなれば必定それなめりと竹を立てヽ大事に育てし て二葉より赤き色を見せぬ。
(「小園の記」)

 子規は、亡くなる数日前の明治35年9月14日の朝、「病気になつて以来今朝程安らかな頭を持て静かに此庭を眺めた事はない」と語り、子規庵の風景を虚子に書き取らせた。

 朝蚊帳の中で目が覚めた。尚半ば夢中であつたがおい/\といふて人を起した。次の間に寝て居る妹と、座敷に寝て居る虚子とは同時に返事をして起きて来た。(中略)今朝起きて見ると、足の動かぬ事は前日と同じであるが、昨夜に限つて殆ど間断なく熟睡を得た為であるか、精神は非常に安穏であつた。顔はすこい南向きになつたまゝちつとも動かれぬ姿勢になつて居るのであるが、其儘にガラス障子の外を静かに眺めた。時は六時を過ぎた位であるが、ぼんやり曇つた空は少しの風も無い甚だ静かな景色である。窓の前に一間半の高さにかけた竹の棚には葭簀が三枚許り載せてあつて、其東側から登りかけて居る糸瓜は十本程のやつが皆瘠せてしまうて、まだ棚の上迄は得取りつかずに居る。花も二三輪しか咲いてゐない。正面には女郎花が一番高く咲いて、鶏頭は其よりも少し低く五六本散らばつて居る。秋海棠は尚衰へずに其梢を見せて居る。余は病気になつて以来今朝程安らかな頭を持て静かに此庭を眺めた事はない。嗽ひをする。虚子と話をする。南向ふの家には尋常二年生位な声で本の復習を始めたやうである。(中略)虚子と共に須磨に居た朝の事などを話ながら外を眺めて居ると、たまに露でも落ちたかと思ふやうに、糸瓜の葉が一枚二枚だけひら/\と動く。其度に秋の涼しさは膚に浸み込む様に思ふて何ともいへぬよい心持であつた。何だか苦痛極つて暫く病気を感じ無いやうなのも不思議に思はれたので、文章に書いて見度くなつて余は口で綴る、虚子に頼んで其を記してもらうた。
(「九月十四日の朝」)


子規最後の写真(明治33年12月)
 子規が逝去したのは、この随筆から僅か数日後の、明治35年(1902)9月19日だった。「九月十四日の朝」は、子規の死の翌日に発行された 『ホトトギス』に掲載された(第5巻第11号)。母親が「余り静かなので、ふと気がつい<て>覗いて見ると、もう呼吸は無かつたといふ」(高浜虚子「子規居士追懐談」)。「晴れ渡つた明るい旧暦十七夜の月が大空に在」(同)る午前1時頃のことである。35歳であった。

 子規は辞世の句として、「糸瓜咲て痰のつまりし佛かな」、「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」、「をとゝひのへちまの水も取らざりき」を残した。

子規の死と漱石

 漱石は、英国に留学するとき、「生きて面会致す事は到底叶ひ間敷と」(明治35年12月1日虚子宛書簡)、子規の死を覚悟していたという。

 漱石は、「子規の病を慰める為め、当地彼地の模様をかいて遥々と二三回長い消息」を送った。それは、明治34年(1901)4月9日、20日、26日付の子規宛ての手紙である。漱石のロンドン生活のエピソードを諧謔を交えて綴ったこの手紙は、病床の子規を大変に喜ばせた。子規はこの手紙を「倫敦消息」と 題して『ホトトギス』に掲載した(『ホトトギス』第4巻8号及び第4巻第9号)。

 子規は、明治34年(1901)11月6日付の手紙で漱石に、「モシ書ケルナラ僕ノ目ノ明イテイル内ニ今一便ヨコシテクレヌカ」と書き送った。これが子規から送られた漱石宛の最後の手紙となった。

 僕ハモーダメニナツテシマツタ、毎日訳モナク号泣シテイルヨウナ次第ダ、ソレダカラ新聞雑誌ヘモ少シモ書カヌ。手紙ハ一切廃止。ソレダカラ御無沙汰シテスマヌ。今夜ハフト思イツイテ特別ニ手紙ヲカク。イツカヨコシテクレタ君ノ手紙ハ非常ニ面白カツタ。近来僕ヲ喜バセタ者ノ随一ダ。僕ガ昔カラ西洋ヲ見タガツテ居タノハ君モ知ツテルダロー。ソレガ病人ニナツテシマツタノダカラ残念デタマラナイノダガ、君ノ手紙ヲ見テ西洋ヘ往ッタヨウナ気ニナツテ愉快デタマラヌ。モシ書ケルナラ僕ノ目ノ明イテイル内ニ今一便ヨコシテクレヌカ(無理ナ注文ダガ)。(中略)
 僕ハ迚モ君ニ再会スルコトハ出来ヌト思ウ。万一出来タシテモソノ時ハ話モ出来ナクナッテルデアロー。実ハ僕ハ生キテヰルノガ苦シイノダ。僕ノ日記ニハ「古白曰来」ノ四字ガ特書シテアル処ガアル。
書キタイコトハ多イガ苦シイカラ許シテクレ玉ヘ。

 しかし下宿に閉じ籠り、「神経衰弱と狂気」に陥る程に「根本的に文学とは如何なるものぞと云へる問題」と格闘する漱石は、子規に宛てて、さらなる「倫敦消息」を書き送ることは出来なかった。子規の願いを聞き届けることができなかったという思いは、漱石に深い後悔をもたらしたに違いない。漱石は、帰国後、倫敦での自転車稽古の顛末を記した「自転車日記」(『ホトトギス』第6巻第10号)を執筆する。それは果たすことのできなかった子規への「今一便」であったのかもしれない。

小宮豊隆は小説家・夏目漱石が誕生する機縁を作ったのは子規だとし、次のように述べている。

 漱石は子規にせがまれて、『ホトトギス』に『倫敦消息』を書いた。漱石がロンドンから帰って来た時には、子規は既に死んでいたが、当時子規の後継者として『ホトトギス』を経営していた高浜虚子は、漱石にせがんで、漱石に『自転車日記』を書かせ、『幻影の盾』を書かせ、『坊つちやん』を書かせた。さうして漱石は、竟に教壇を去って、純粋な作家になった。(中略)子規は作家漱石を作り上げる上に、なくてはならない重要な人物であつたと言つても、決して過言ではなかつたのである。―勿論子規がなくても、漱石の内なる宝庫は、何等かの機縁に触発されて、その全貌を示し得たには違ひなかつた。然し若し子規がなかつたら、漱石は或は、学者としてのみ、その一生を過ごしてゐたのかも知れなかつた。その意味では、漱石と子規との交際は、作家漱石にとつては、殆んど運命的 なものであつたと言つて可いのである。
(小宮豊隆「『木屑録』解説」)

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