東北大学附属図書館 夏目漱石ライブラリ

松山・熊本時代

松山時代

 明治28年(1895)4月、漱石は、友人菅虎雄の斡旋で、愛媛県尋常中学校へ英語の教師として赴任した。漱石の俸給は校長よりも高く、月額80円という破格の待遇だった。松山はのちに『坊っちやん』の舞台となる。

 学校を出てから伊予の松山の中学の教師に暫くいつた、あの『坊ちやん』にあるぞなもしの訛を使ふ中学の生徒はこゝの連中だ、僕は『坊ちやん』見たよなことはやりはしなかつたよ、しかしあの中にかいた温泉なんかはあつたし、赤手拭をさげてあるいたことも事実だ、もう一つ困るのは松山中学にあの小説の中の山嵐といふ綽名の教師と寸分も違はぬのがゐるといふので漱石はあの男のことをかいたんだといはれてるのだ、決してそんなつもりぢやないのだから閉口した。
(談話「僕の昔」)

しかし漱石は、自身の教師としての適性に疑いを抱いていた。

 余は教育者に適さず、教育家の資格を有せざればなり、其不適当なる男が、糊口の口を求めて、一番得易きものは、教師の位地なり、是現今の日本に、真の教育家なきを示すと同時に、現今の書生は、似非教育家でも御茶を濁して教授し得ると云う、悲しむべき事実を示すものなり
(「愚見数則」)

 程なく日清戦争の従軍記者として中国に渡っていた子規が帰国した。しかし子規は帰国の途上で喀血しており、療養のための松山帰郷となった。漱石は、子規が上京するまでの五十余日間、下宿の1階を病身の子規に貸し与え、自身は2階で暮らした。

 漱石は、「小子近頃俳門に入らんと存候御閑暇の節は御高示を仰ぎたく候」(明治28年5月26日子規宛書簡)と述べ、「愚陀仏」と号して子規の俳句仲間に加わった。また子規が上京してからは、漱石は句稿を送り、子規に評を求めている。

 

 僕は二階に居る大将は下に居る。其うち松山中学の俳句を遣る門下生が集まつて来る。僕が学校から帰つて見ると毎日のやうに多勢来て居る。僕は本を読む事もどうすることも出来ん。尤も当時はあまり本も読む方でも無かつたが兎に角自分の時間といふものが無いのだから止むを得ず俳句を作つた。其から大将は昼になると蒲焼きを取り寄せて御承知の通りぴちや/\と音をさせて食ふ。其れも相談無く自分で勝手に命じて勝手に食ふ。
(「正岡子規」)

 子規は明治28年(1895)10月中旬に松山を発った。子規の俳句の中でも最も有名な句の1つ、「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」は、上京の途中で立ち寄った奈良で詠まれたものである。

 明治28年(1895)12月には、漱石は中根鏡子(鏡。戸籍名はキヨ)と見合いをし婚約をしている。鏡子の父、中根重一は貴族院書記官長であり、鏡子はその長女だった。漱石は鏡子についてつぎのような感想を周囲に漏らしていた。「歯並が悪くてさうしてきたないのに、それを強ひて隠さうともせず平気で居るところが大変気に入つた」(夏目鏡子『漱石の思ひ出』)。鏡子との見合いのため上京していた漱石は、明治29年1月3日、子規の居宅(子規庵) での句会に参加した。この句会には、子規、漱石のほか、高浜虚子、河東碧梧桐、森鴎外らも参加している。

熊本時代

 明治29年(1896)4月、漱石は熊本の第五高等学校に転任した。6月には、熊本の借家で鏡子との結婚式行っている。漱石は、明治29年6月10日の子規宛ての書簡の中で、「衣更へて京より嫁を貰ひけり」と詠んだ。漱石の結婚に当たって子規は「秦々たる桃の若葉や君娶る」との句を詠んでいる。
 漱石は結婚して間もないころ、鏡子につぎのように語ったという。「俺は学者で勉強しなければならないのだから、お前なんかにかまつては居られない。それは承知してゐて貰ひたい」(『漱石の思ひ出』)。

 一方の子規は、明治29年頃から脊椎カリエスのため病床生活を余儀なくされ、明治30年には2度にわたり腰部の手術を受けた。カリエスと診断された時、子規は高浜虚子に宛てて「余レ程の大望を抱きて地下に逝く者ハあらじ」(明治29年3月17日付)との書簡を書き送っている。しかし子規は病床に あっても創作活動を続けた。
 明治31年(1898)には新聞「日本」に「歌よみに与ふる書」を連載し短歌革新に乗り出した。明治32年には『俳諧大要』、『俳人蕪村』などを刊行し、さらに明治33年2月には「叙事文」を発表し、「写生文」を提唱する。写生文は親友の画家中村不折(第2部参照)を介して知った西洋絵画における「写生」の理論に示唆されたものであり、子規は、「ある景色または人事を見て面白しと思ひし時に、そを文章に直して読者をして己と同様に面白く感ぜしめんとするには、言葉を飾るべからず、誇張を加うべからず、ただありのまま見たるままにその事物を模写するを可とす」(「叙事文」)と述べている。

 子規は、明治33年2月12日付けで、「例の愚痴談だからヒマナ時に読んでくれ玉へ」と始まる長文の手紙を漱石へ送っている。子規は、この手紙を「決して人に見せてくれ玉ふな」と述べる。

 僕ハ「落泪」トイフ事ヲ書イタノヲ君ハ怪ムデアローガソレハネ斯ウイフワケダ。君ト二人デ須田ヘ往テ僕モ眼ヲ見テモラウタコトガアル。其時須田ニ「ドンナ病気カ」ト聞イタラ須田ハ「涙ノ穴に塞ガツタノダ」トイフタ。其時ハ何トモ思ハナカツタガ今思ヒ出ストヨホド面白イ病気ダ。ソノ頃ハソレガタメデモアルマイガ僕ハ余リ泣イタコトハナイ。勿論喀血後ノコトダガ、一度、少シ悲シイコトガアツタカラ、「僕ハ昨日泣イタ」ト君ニ話スト、君ハ「鬼ノ目ニ涙ダ」トイツテ笑ツタ。ソレガ神戸病院ニ這入ツテ後ハ時々泣クヤウニナツタガ、近来ノ泣キヤウハ実ニハゲシクナツタ。何モ泣ク程ノ事ガアツテ泣クノデハナイ。何カ分ランコトニ一寸感ジタト思フトスグ涙ガ出ル。(中略)今年ノ夏、君ガ上京シテ、僕ノ内ヘ来テ顔ヲ合セタラ、ナドゝ考ヘタトキニ泪ガ出ル。ケレド僕ガ最早再ビ君ニ逢ハレヌナドゝ思フテ居ルノデハナイ。併シナガラ君心配ナドスルニハ及バンヨ。君ト実際顔ヲ合ワセタカラトテ僕ハ無論泣ク気遣ヒハナイ。空想デ考ヘタ時ニ却々泣クノダ。(中略)僕ノ愚痴ヲ聞クダケ聞テ後デ善イ加減ニ笑ツテクレルノハ君デアラウト思ツテ君ニ向ツテイフノダカラ貧乏鬮引イタト思ツテ笑ツテクレ玉ヘ。僕ダツテ泪ガナクナツテ考ヘルト実ニヲカシイヨ。…………併シ君、此愚痴ヲ真面目ニウケテ返事ナドクレテハ困ルヨ。(中略)実際君ト向合フタトキ君ガストーヴコシラエテヤロカトイフタトテ僕ハ「ウン」トイツテル位ノモノデ泣キモセヌ。ケレド手紙デソーイフコトヲイハレルト少シ涙グムネ。ソレモ手紙ヲ見テスグ涙モ何モ出ヤウトモセヌ。タダ夜ヒトリ寐テヰルトキニフトソレヲ考ヘ出スト泣クコトガアル。自分ノ体ガ弱ツテヰルトキニ泣クノダカラ老人ガ南無アミダ/\トイツテ独リ泣イテイルヤウナモノダカラ、返事ナドオコシテクレ玉フナ。君ガコレヲ見テ「フン」トイツテクレレバソレデ十分ダ。(中略)
 新らしい愚痴が出来たらまたこぼすかも知れないが、これだけいふて非常にさつぱりしたから、君に対して書面上に愚痴をこぼすのハもうこれ限りとしたいと思ふてゐる。金柑の御礼をいはうと思ふてこんな事になつた。決して人に見せてくれ玉ふな。もし他人に見られては困ると思ふて書留にしたのだから。

 子規は、3月3日には漱石の長女・筆子の初節句のために雛人形を送った。それは、「いずれかといえばみすばらしいありふれた三人官女」。しかし「この雛の小さくはえないのが、かえって居士の生活が偲ばれて、またなくゆかしくも有難い」(松岡譲「子規の雛」)。

 さらに6月中旬には漱石に自筆の「あづま菊」の絵を送っている。子規は、明治32年(1889)秋頃から、中村不折から贈られた絵の具を用いて写生画を始めた。晩年の子規は絵を書くことに大きな慰めと喜びを見出したのだった。
 「あづま菊」には、「コレハ萎ミカケタ処ト思ヒタマヘ/画ガマヅイノハ病人ダカラト思/ヒタマヘ嘘ダト思ハヾ肱ツイテカイ/テ見玉ヘ」との子規の添え書きがある。漱石は子規のこの絵について次のように語る。「一輪花瓶に挿した東菊で、図柄としては極めて単簡な」この絵を描くために、子規は「非常な努力を惜しまなかつた様に見える」。漱石は、この絵には、子規の「隠し切れない拙が溢れてゐる」(「子規の画」)。

 東菊によつて代表された子規の画は、拙くて且真面目である。才を呵して直ちに章をなす彼の文筆が、絵の具皿に浸ると同時に、忽ち堅くなつて、穂先の運行 がねつとり竦んで仕舞つたのかと思ふと、余は微笑を禁じえない。(中略)  子規は人間として、又文学者として、最も「拙」の欠乏した男であつた。永年彼と交際をした何の月にも、何の日にも、余は未だ曾て彼の拙を笑ひ得るの機会を捉へ得た試がない。又彼の拙に惚れ込んだ瞬間の場合さへ有たなかつた。彼の歿後殆ど十年にならうとする今日、彼のわざわざ余の為に描いた一輪の東菊の中に、確に此一拙字を認める事の出来たのは、其結果が余をして失笑せしむると、感服せしむるとに論なく、余に取つては多大の興味がある。たゞ画が如何にも淋しい。出来得るならば、子規に此拙な所をもう少し雄大に発揮させて、淋しさの償ひとしたかつた。
(「子規の画」)

 文部省から2年間の英国留学を命じられた漱石は、明治33年(1900)8月26日、寺田寅彦とともに子規を見舞った。これが漱石と子規の最後の面会となった。子規は、『ホトトギス』第3巻第12号(明治33年9月)に、次のように記した。

 漱石氏は二年間英国留学を命ぜられ此夏熊本より上京、小生も久々にて面談致候。去る九月八日独逸船に乗込横浜出発欧州に向はれ候。小生は一作々年大患に逢ひし後は洋行の人を送る毎に最早再会は出来まじくといつも心細く思ひ候ひしに其人次第/\に帰り来り再会の喜を得たることも少からず候。併し漱石氏洋行と聞くや否や、迚も今度はと独り悲しく相成申候。

 漱石は熊本には約5年間、滞在した。第五高等学校の教え子には寺田寅彦らがおり、また狩野亨吉を五高に招聘する際に尽力したのが漱石だと言われている。漱石は度々、狩野らとともに小天温泉に出かけた。この熊本での生活がのちに『草枕』や『二百十日』として結実した。

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