東北大学附属図書館 夏目漱石ライブラリ

学生時代

漱石と正岡子規の出会いと交流

 明治17年(1884)9月、漱石は東京大学予備門予科(明治19年4月、第一高等中学校に改称)に入学した。同級には、正岡常則(子規)、南方熊楠、山田武太郎(美妙)、芳賀矢一ら、後に俳人や学者、作家として活躍することになる人物らがいた。

 文学的な影響を及ぼしあった漱石と子規だが、当初、二人は親しく交わることはなかったようだ。
 正岡子規(本名常規、幼名処之助、のちに升と改名)は、慶応3年(1867)9月17日(陰暦)、伊予国温泉郡藤原新町(現在、松山市花園町)に生まれた。父は松山藩士の常尚、母は松山藩の儒学者であった大原観山の長女・八重。しかし父は若くして死去したため、子規と妹の律は、母と大原家の庇護のもとに成長することになる。特に祖父・観山は、幼い子規に漢文・漢詩の素読を教えるなど大変に可愛がり、子規は、「後来学者となりて翁の右に出でんと思へり」(『筆まかせ』)と語るほど、観山に憧憬の念を抱いていたという。母・八重は幼少の子規について、次のように回想している。「小さい時分にはよつぽどへぼで/\弱味噌でございました。(中略)組の者などにいぢめられても逃げて戻りますので、妹の方があなた石を投げたりして兄の敵打をするやうで、それはヘボでございます」(「母堂の談話」)
 子規自身も、「僕は子供の時から弱味噌の泣味噌と呼ばれて小学校に往てもたびたび泣かされて居た」(『墨汁一滴』)と述べている。
 子規は、小学生の頃から創作活動に熱中し、雑誌を作っては仲間たちに回覧していたという。また中学生になってからは、政治にも強い関心を抱き、盛んに政談演説を行った。

 子規は、明治15年頃から東京で学ぶことを希望するようになり、明治16年(1883)6月、念願が叶って上京する。子規はのちに「余は生れてよりうれしきことにあひ思はずにこ/\とゑみて平気でゐられざりしこと三度あり第一は在京の叔父のもとより余に東京に来れといふ手紙来たりし時」(『筆まかせ』)と記している。

 子規は、明治18年(1885)、入学初年度の学年末試験で不合格となり、落第している。「数学の時間には英語より外の語は使われぬという規制」があり、「数学と英語と二つの敵を一時に引き受けたからたまらない」、「余が落第したのは幾何学に落第したといふよりは寧ろ英語に落第したといふ方が適当であらう」(『墨汁一滴』)。

 一方の漱石も、「惰けて居るのは甚だ好きで少しも勉強なんかしなかつた」、「唯遊んで居るのを豪いことの如く思つて怠けて居た」(「落第」)ところ、明治19年(1886)、腹膜炎のため進級試験を受けられず成績も悪かったため落第してしまう。漱石はこの落第について後年つぎのように述べている。

 人間と云ふものは考え直すと妙なもので、真面目になつて勉強すれば、今迄少しも分からなかつたものも瞭然と分る様になる。(中略)恁んな風に落第を機としていろんな改革をして勉強したのであるが、僕の一身にとつて此落第は非常に薬になつた様に思はれる。
(「落第」)


学生時代の漱石(左、右は米山)
 明治21年(1888)9月、漱石と子規は第一高等中学校本科第一部(文科)に入学した。専攻を決めるさい漱石ははじめ建築科を希望し、将来は「ピラミツドでも建てる様な心算で居」たが、同級生の米山保三郎に、「それよりも文学をやれ、文学ならば勉強次第で幾百年幾千年の後に伝へる可き大作も出来るぢやないか」と勧められたため、「決心を為直して、僕は文学をやることに定めたのであるが、国文や漢文なら別に研究する必要もない様な気がしたから、其処で英文学を専攻することにした。」(「落第」)と述べている。

 漱石に文学を勧めた米山は、漱石によれば、「それこそ真性変物で常に宇宙がどうの、人生がどうのと大きなことばかり言つて居る」(談話「時機が来てゐたんだ」)人物であり、子規とも交遊を持った。帝国大学哲学科の子規が国文科に転科したのは、米山の才能に驚嘆し、哲学では米山に適わないと考えたことが理由の一つであるとも言われている。

 漱石と子規が親しく交流するようになるのは明治22年(1889)1月頃からであった。二人は、共通の趣味である寄席の話題などを通じて親交を深めて行く。子規は、明治22年の『筆まかせ』の中で、漱石を「談心の友」、「畏友」と呼んでいる。

 後年、漱石は子規について次のように回想している。

 非常に好き嫌いのあつた人で、滅多に人と交際などはしなかつた。僕だけどういふものか交際した。(中略)彼と僕と交際し始めたも一つの原因は二人で寄席の話をした時先生も大に寄席通を以つて任じて居る。ところが僕も寄席の事を知つてゐたので話すに足るとでも思つたのであらう。其から大に近よつてきた。 (中略)
 何でも大将にならなけりや承知しない男であつた。二人で道を歩いてゐてもきつと自分の思ふ通りに僕をひつぱり廻したものだ。尤も僕がぐうたらであつてこちらへ行かうと彼がいふと其通りにして居つた為であらう。
(「正岡子規」)

 子規といふ男は何でも自分が先生のやうな積りで居る男であつた。俳句を見せると直ぐにそれを直したり圏点をつけたりする。それはいゝにしたところで僕が漢詩を作つて見せたところが、直ぐに又筆をとつてそれを直したり、圏点をつけたりして返した。それで今度は英文を綴つて見せたところが、奴さんこれだけは仕方ないものだからVery goodと書いて返した。
(高浜虚子『漱石氏と私』)

 一方子規は、次のように述べている。

 余は交際を好む者なり 又交際を嫌ふ者也 何故に好むや 良友を得て心事を談じ艱難相助けんと欲すれば也 何故に嫌ふや 悪友を退け光陰を浪費せず誘導をのがれんと欲すればなり 余ハ偏屈なり 頑固なり、すきな人ハ無暗にすきにて嫌ひな人ハ無暗にきらひなり
(『筆まかせ』明治22年)

 漱石最もまじめの性質にて学校にありて生徒を率いるにも厳格を主として不規律に流るるを許さず。紫影の文章俳句常に滑稽趣味を離れず。此人亦甚だまじめの方にて、大口あけて笑うことすら余り見うけたる事無し。
(『墨汁一滴』)

 また漱石門下の寺田寅彦は、漱石と子規について次のように回想している。

 熊本の近況から漱石師のうわさになつて昔話も出た。師は学生の頃は至つて寡言な温順な人で学校なども至つて欠席が少なかつたが子規は俳句分類にとりかゝつてから欠席ばかりして居たさうだ。師と子規と親密になつたのは知り合つてから四年もたつて後であつたが懇意になると随分子供らしく議論なんかして時々喧嘩などもする。
(「子規庵を訪う記」)

 高等学校を出て大学へはひる時に、先生の紹介を貰つて上根岸鶯横町に病床の正岡子規子を訪ねた。その時、子規は、夏目先生の就職其他に就いて色々骨を折つて運動をしたといふやうな話をして聞かせた。実際子規と先生とは互に畏敬し合つた最も親しい交友であつたと思はれる。併し、先生に聞くと、時には「一体正岡といふ男はなんでも自分の方がえらいと思つて居る、生意気な奴だよ」などゝ云つて笑はれることもあつた。さう云ひながら、互に許し合ひなつかしがり合つて居る心持がよく分かるやうに思はれるのであつた。
(「夏目漱石先生の追憶」)

 子規は、明治22年(1889)5月初旬に喀血し、肺結核と診断された。この時、子規は、「卯の花をめがけてきたか時鳥」、「卯の花の散るまで鳴くか子規」など、時鳥(ほととぎす)の句を数十種作り、以後、「子規」と号するようになる。時鳥は、「啼いて血を吐く」と言われ、肺病の象徴であった。子規は、この時、「今より十年の命」(「喀血始末」)と覚悟したという。漱石は、明治22年(1889)5月13日、「只今は極めて大事の場合故出来るだけの御静養は専一と奉存候」、「小にしては御母堂の為大にしては国家の為自愛せられん事こそ望ましく存候」と子規の病状を慮る書簡を送り、「帰ろふと泣かずに笑へ時鳥」、「聞かふとて誰も待たぬに時鳥」という句を添えた。漱石は、長兄・次兄を結核で亡くしており、三兄もまたこの時、結核で病床にあったため、殊更に子規の病状が気掛かりであったに違いない。子規の病をきっかけとして、漱石と子規の交流はより一層、親密さを増して行く。

 5月下旬には、漱石は、子規の和漢詩文集『七草集』(ななくさしゅう)の巻末の評ではじめて「漱石」の号を用いた。「漱石」という名は、奇しくも、子規が明治14、15年頃に、名乗っていた号でもあった(『筆まかせ』)。

 他方、子規は、漱石が明治22年9月頃に書いた漢詩紀行文『木屑録』(ぼくせつろく)を読み、「頼みもしないのに跋を書いてよこし」(「正岡子規」)、「如吾兄者千萬年一人焉耳」と絶賛した。

 余の経験によるに英学に長ずる者は漢学に短なり 和学に長ずる者は数学に短なりといふが如く 必ず一長一短あるもの也 独り漱石は長ぜざる所なく達せざる所なし、然れ共其英学に長ずるは人皆之を知る、而して其漢文漢詩に巧なる人恐らくは知らざるべし 故にこゝに附記するのみ
(『筆まかせ』)

 漱石の『木屑録』は、子規の『七草集』に触発されて書かれたものであり、何よりも「正岡子規に見せる事を目的として書かれ」(小宮豊隆「『木屑録』解説」)たものであった。

 「漱石」と「子規」という、希代の文学的才能を持つ二人の、比類のない盟友関係はこのようにして始まる。二人は、漱石が「一体正岡は無暗に手紙を よこした男で、其に対する分量はこちらからも遣った」(「正岡子規」)と語るように、手紙を通じても友情を深めて行く。例えば漱石は、子規に、「此頃は何となく浮世がいやになりどう考へても考へ直してもいやで/\立ち切れず」、「貴君の手前はづかしく吾ながら情なき奴と思へどこれもmisanthropic病なれば是非もなし」(明治23年8月9日)と苦悩する心情を率直に書き送っている。また二人の間では、文学観・人生観を巡って、忌憚のない批判を含んだ書簡が交換された折もあった。

 御前兼て御趣向の小説は巳に筆を下し給ひしや今度は如何なる文体を用ひ給う御意見なりや委細は拝見の上逐一批評を試むる積りに候へども兎角大兄の文はなよ/\として婦人流の習気を脱せず
(明治22年12月31日子規宛書簡)

 小生元来大兄を以て吾が朋友中一見識を有し自己の定見に由つて人生の航路に舵をとるものと信じ居候其信じきりたる朋友がかゝる小供だましの小冊子を以て気節の手本にせよとわざ/\恵投せられたるはつや/\其意を得ず
(明治24年11月7日付子規宛書簡)


学生時代の子規(明治23年)
 また時には二人は「妾」、「朗君」(明治22年9月27日子規宛書簡)と戯れ合い、また、漱石は「あゝそう/\、昨日眼医者へいつた所が、いつか君に話した可愛らしい女の子を見たね、―[銀]杏返しに竹なはをかけて‐‐天気予報なしの突然の邂逅だからひやつと驚いて思はず顔に紅葉を散らしたね」 (明治24年7月18日子規宛書簡)と恋心を仄めかすような書簡を送ってもいる。

 明治23年(1890)9月、漱石は帝国大学文科大学英文科、子規は同哲学科(のちに国文科に転科)に入学した。
 明治20年に新設された英文科には2年上に先輩が1人いるだけであり、明治23年に英文科に入学したのは漱石ただひとりであった。また英文科の3年後輩には土井晩翠がいる。
 漱石は、ディクソン教授から英語・英文学を学んだ。成績優秀な彼は、教授から依頼され、『方丈記』を英訳している。また漱石は、明治26年(1893)に来日したケーベルの講義を聴講している。
 漱石は特待生となり授業料免除などの特典を受けていた。しかし、英文学研究に対する漠然とした不安と疑問を抱いていた。

 私は大学で英文学といふ専門をやりました。其英文学といふものは何んなものかと御尋ねになるかも知れませんが、それを三年専攻した私にも何が何だかまあ夢中だつたのです。其頃はヂクソンといふ人が教師でした。私は其先生の前で詩を読ませられたり文章を読ませられたり、作文を作つて、冠詞が落ちてゐると云つて叱られたり、発音が間違つてゐると怒られたりしました。試験にはウォーヅウォースは何年に生れて何年に死んだとか、シエクスピヤのフォリオは幾通りあるかとか、或はスコツトの書いた作物を年代順に並べて見ろとかいう問題ばかり出たのです。年の若いあなた方にもほぼ想像が出来るでせう、果たしてこれが英文学か何うだかという事が。英文学はしばらく措いて第一文学とは何ういうものだか、是では到底解る筈がありません。(中略)兎に角三年勉強して、遂に文学は解らずじまひだつたのです。(中略)  私はそんなあやふやな態度で世の中へ出てとうとう教師になつたといふより教師にされて仕舞つたのです。幸に語学の方は怪しいにせよ、何うか斯うか御茶を濁して行かれるから、其日々々はまあ無事に済んでゐましたが、腹の中は常に空虚でした。空虚なら一そ思い切りが好かつたかも知れませんが、何だか不愉快な煮え切らない漠然たるものが、至る所に潜んでゐるようで堪らないのです。
(「私の個人主義」)

 漱石は、明治25年(1892)には東京専門学校講師、明治26年には東京高等師範学校の英語嘱託となる。しかし明治27年には神経衰弱が昂じ、12月、鎌倉の円覚寺に参禅している。

 一方の子規は、次第に学業よりも俳句や小説に関心を募らせていった。
 「試験だから俳句をやめて準備に取りかからうと思ふと、俳句が頻りに浮かんで来る」ほど「俳魔に魅入られ」「もう助かりやうはない」(『墨汁一滴』)と観念し、明治25年の学年末試験に落第したことをきっかけにして明治26年3月末、大学を退学する。漱石は、「小子の考へにてはつまらなくても何でも卒業するが上分別と存候。願くば今一思案あらまほしう」、「鳴くならば満月に鳴けほとゝぎす」(明治25年7月19日書簡)と子規の退学を引きとめたが、子規は自立の道を選んだのだった。
 子規は、明治25年12月、陸羯南が社長を努める日本新聞社に入社した。子規は、すでに「日本」に「かけはしの記」や「獺祭書屋俳話」などを連載しており、正式に入社した後は「日本」に俳句欄を設置するなど、俳句の革新を推し進めて行く。
 そして子規は、病気の身でありながら、明治28年4月10日、日清戦争の従軍記者として中国へ渡った。戦地では、森鴎外と会い、俳句のことなどを語り合った。しかしこの従軍は、子規の病状を一層悪化させることになったのだった。
 同じ頃、漱石は子規の故郷である松山へ、英語教師として赴くことになる。

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