東北大学附属図書館 夏目漱石ライブラリ

【病床の子規】

「病床の子規」(中村不折『不折俳画』より)


漱石文庫中の子規の著作
 水彩画だろうか熱心に何かを描いている子規、脇のストーヴは伊藤左千夫が据付けたものだろう。柱には子規愛用の蓑笠が掛かっている。晩年には起き上がることも出来なかった子規にとり、この蓑笠は若い頃の大切な記念であったに違いない。「わが室」には、「柱に掛けたる菅笠は明治二十四年の暮蕨の駅あたりにて買い求めて忍、熊谷、川越、松山の百穴を見て帰りたる昔のなごり」、「同じく掛けたる蓑はその前の年の春、房総の雨にそぼちて、捨てかねし旅のかたみ」とある。
 子規は不折について、「余は不折君のために美術の大意を教へられし事は余の生涯に幾何の愉快を添へたりぞ、若し之無くば数年間病床に横はる身のいかに無聊なりけん」(『墨汁一滴』)と述べている。(漱石文庫)

清水対岳坊「正岡子規居士」(『二十七大家漫画最近三十年史図絵』より)

 正岡子規居士/芭蕉以来の俳聖/明治文壇の先駆者日本文芸史上/燦として千古不滅の光輝を放つ/明治三十五年九月十九日逝く

「ラムプの影」(『ホトトギス』第3巻第4号(明治33年1月))

 随筆「ラムプの影」の挿絵、子規の病室を描いたもの。浅井忠画。「蒲団の上に横になつて、右の肱をついて、左の手に原稿用紙を持つて、書く時には原稿用紙の方を動かして右の手の筆の尖へ持つて往てやる」というのが子規の執筆の姿勢であった。

子規筆藤娘ほか

 「子規筆藤娘」は、門人坂本四方太が、明治35(1902)年、大津に旅行した際の土産を、子規が模写したものである。ほかに、『幼童稽古画帖』、『蹼斎略画式』から写した絵も描かれている。「藤娘」の説明には、「大津絵といふもの、いつよりはしまりかきつたへけん彩色を骨とし輪廓を後にする事大方の日本画と違ひ幼稚なる書法にて却て写生の真面目を存せり(中略)昔絵の春や辧慶藤娘」とある。
 子規は、明治32年(1899)の秋から絵を描きはじめた。「彩色絵を画いてみたい、と戯れにいつたら、不折君が早速絵具を持つて来てくれたのは去年の夏であつたらう。(中略)秋になつて病気もやや薄らぐ、今日は心持が善いといふ日、ふと机の上に活けてある秋海堂見て居ると、何となく絵心が浮かんで来たので、急に絵の具を出させて判紙展べて、いきなり秋海堂を写生した」(「画」)。また子規は、「僕に絵が画けるなら俳句なんかやめてしまう」(同)とまで語っている。(複製)

正岡子規『仰臥漫録』

 『仰臥漫録』は、子規病床の手記で2分冊となっており、日記を中心に俳句、短歌、彩色画など、多彩な内容となっている。日記は、明治34年(1901)9月2日から10月29日、明治35年(1902)3月10日から12日、同年6月20日から7月29日までのものとなっており、特に子規は 毎日の食事について事細かに記している。「最早飯ガ食ヘル間ノ長カラザルヲ思ヒ今ノ内ニウマイ物デモ食ヒタイトイフ野心頻リニ起リ」(明治34年10月25日)、「食事ハ相変ラズ唯一ノ楽デアルガモウ思フヤウニハ食ハレヌ」(同年10月26日)などとある。『仰臥漫録』は、公開を意図していなかったため、子規の率直な感情が赤裸々に吐露されている。特に明治34年10月13日には、「自殺熱ハムラゝゝト起ツテ来タ」、「古白曰来」と記している。子規が 明治34年11月6日付で漱石に送った書簡中にある、「僕ノ日記ニハ「古白曰来」ノ四字ガ特書シテアル処ガアル」とは、写真の部分を指す。古白とは、子規の従兄弟であり、若くしてピストル自殺をした人物である。

『ホトトギス 子規追悼集』第6巻第4号(明治35年12月)

 『ほとゝぎす』は、明治30年(1897)1月、子規の友人、柳原極堂が松山で創刊した俳句雑誌。明治31年から虚子に引き継がれて東京で刊行されるようになった(東京版『ホトトギス』)。子規は、『ホトトギス』誌上で、俳句・短歌・評論・選句・随筆など多彩な活動を展開した。『ホトトギス』はその誌名とともに、子規の代名詞とも言える雑誌である。

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