東北大学附属図書館 夏目漱石ライブラリ

【英国留学時代】

Baedeker's London and its environs

 Baedekerは、当時の代表的な旅行案内書。漱石も英国留学に際して参考にしたものと思われる。本書のロンドン塔(The Tower)についての記事には、多くの傍線が施されており、短編「倫敦塔」に生かされている。(漱石文庫)

渡航日記

 「渡航日記」は、漱石の英国留学に際しての日記であり、明治33年(1900)9月8日の横浜港出港以後、10月20日のパリ到着、10月28日のロンドン到着などを経て、12月18日までの出来事が記されている。
 9月8日の出港については「横浜発遠洲洋ニテ船少シク揺ク晩餐ヲ喫スル能ハズ」と記し、9月12日には「夢覚メテ既ニ故郷ノ山ヲ見ズ四顧渺茫タリ」との記述がある。パリでは博覧会を見学し「エヘル」塔に登り、ロンドン到着については「巴里ヲ発シ倫敦ニ至ル船中風多シテ苦シ晩ニ倫敦ニ着ス」と記されている。
 また洋行に際しての所持品や所持金の計算なども記入されており、所持品の中には、「梅ボシ、福神漬」、「名刺」、「日記帳」などが挙げられている。(漱石文庫)

滞英日記

 明治34年(1901)の日記。漱石は、2月にヴィクトリア女王の葬儀を見物し、8月にはカーライル博物館を訪れている。化学者の池田菊苗と、「英文学ノ話」、「世界観ノ話」、「禅学上ノ話」、「哲学上ノ話」、「教育上ノ談話」、「支那文学」、「理想美人」など、様々な話題について語り合い、池田との議論が漱石の文学研究にとって大きな刺激となったこと、ほぼ毎週火曜日にクレイグ先生宅へ行き個人授業を受けていたこと、頻繁に古本屋に通い古書を購入して いたことなどが記されている。漱石は、この年の夏頃から下宿の自室に閉じこもり著作のための資料の収集・抜粋、思索などに精力を傾けた。
 1月22日の記述には、「ほとゝぎす届く子規尚生きてあり」とある。英国の漱石へは高浜虚子の配慮により、『ホトトギス』が送られており、漱石は子規の病状について『ホトトギス』の消息欄を通じて知っていた。(漱石文庫)

蔵書目録

 英国留学中に購入した図書の目録である。冒頭に「一号ヨリ179号迄ハ別ノ西洋紙ニアリ。帳面ニハアラズ」とあり、180号~351号までの蔵書が記されている。留学中の漱石は、「一年分の学費を頂戴して書物を買つて帰りたい書物は欲いのが沢山あるけれど一寸目ぼしいのは三四十円以上だから手のつけ様がない可成衣食を節倹して書物を買(は)ふと思ふ」(明治33年12月26日付藤代禎輔宛書簡)と述べるように、衣食住費を切り詰めて図書の購入にあてた。(漱石文庫)

大要

 英国留学中の断片。著書執筆のための構想メモである。「(1)世界ヲ如何ニ観ルベキ」、「(2)人生ト世界トノ関係ハ如何。人生ハ世界ト関係ナキカ。関係アルカ。関係アラバ其関係如何」など、16項目が立てられている。明治35年(1902)3月15日付中根重一宛書簡では、「私も当地着後(去年八九月 頃より)一著述思ひ立ち目下日夜読書とノートをとると自己の考を少し宛かくのとを商売に致候」とある。(漱石文庫)

東西文学ノ違

 「蝿の頭」ほどの文字で書かれた英国留学中の断片。"Drama", "Nature", "Poetry"の3つの分野について、東洋と西洋の文学に表れた価値観の相違を述べたもの。「西洋人ハアク迄モ出[世]間的デアル(中略)極限スレバ浮世トカ俗社界ヲ超越スルコト能ハザルナリ」、それに対し「吾人ノ詩ハ悠然見南山デ尽キテ居ル。出世間的デアル」などとあり、『草枕』の語り手が表明する文学観に通じている。
 『草枕』には、「苦しんだり、怒つたり、騒いだり、泣いたりは人の世につきものだ。余も三十年の間それを通して、飽々した。飽き々々した上に芝居や小説で同じ刺激を繰り返しては大変だ。余が欲する詩はそんな世間的の人情を鼓舞する様なものではない。俗念を放棄して、しばらくでも塵界を離れた心持ちになれる詩である」との記述がある。(漱石文庫)

Life's Dialogue 1901(明治34)年8月1日

 漱石留学中の英詩。漱石の1901(明治34)年8月6日の日記(「滞英日記」)には、「Craigニ至ル 氏我詩ヲ評シテBlakeニ似タリト云ヘリ 然シincoherentナリト云ヘリ」との記述があり、「我詩」というのは、この詩を指すものと推測される。(漱石文庫)

名刺および名刺入れ(新収資料)

   留学中の漱石の名刺。裏には、「夏目金之助」とある。

漱石筆オックスフォード大学水彩画(新収資料)

 オックスフォード大学モードリンカレッジの塔を描いた水彩画。
 執筆年代を確定することはできないが、『漱石大観』(角川書店)では明治36・37年頃の作とされており、「日本で描いたとすれば写真か何かを見て描いたものであろうか」と推測されている。

漱石筆鏡子あて書簡 明治33年(1900)9月27日(新収資料)

  (翻刻)
其許ハ歯ヲ抜キテ入歯ヲナサルベク候只今いノ儘ニテハ余リ見苦ク候
頭ノハゲルノモ毎々申通一種ノ病気ニ違ナク候必ズ医者ニ見テ御貰可被成候人ノ言フコトヲ善ヒ加減ニ聞テハイケマセン

漱石筆鏡子あて書簡 明治33年(1900)10月8日(新収資料)

  (翻刻)
熊本にて逢ひたる英国の老婦人「ノツト」と申す人上等に乗込居りて一二度面会色々親切に致し呉候此人の世話にて「ケンブリツヂ」大学の関係の人に紹介を得候へば小生は多分「ケンブリツヂ」に可参かと存候

漱石筆鏡子あて書簡 明治33年(1900)10月22[3]日(新収資料)

  (翻刻)
今日ハ博覧会ヲ見物致候ガ大仕掛ニテ何ガ何ヤラ一向方角サヘ分リ兼候名高キ「エフエル」塔ノ上ニ登リテ四方ヲ見渡シ申候是ハ三百メートルノ高サニテ人間ヲ箱ニ入レテ綱条ニ[テ]ツルシ上ゲツルシ下ス仕掛ニ候博覧会ハ十日や十五日見ニ[テ]モ大勢ヲ知ルガ積ノ山カト存候(中略) 其許懐妊中善々身体ヲ大事ニ可被成候筆も随分気ヲ付ケテ御養育可被成候妊娠中ハ感情ヲ刺激スル様ナ小説抔ハ御止メ可被成候可成ノンキに御暮シ可被成候

漱石筆鏡子あて書簡 明治34年(1901)1月22日 3枚(新収資料)

   (翻刻)
其後は如何御暮し被成候や朝夕案じ暮し居候先以て皆々様御丈夫の事と存候其許も御壮健にて今頃は定めし御安産の事と存候此方も無事にて日々勉強に余念なく候御懸念あるまじく候小児出産前後は取分け御注意可然と存候当地冬の季候極めてあしく霧ふかきときは濛々として月夜よりもくらく不愉快千万に候はやく日本に帰りて光風霽月と青天白日を見たく候当地日本人はあまた有之候へども交際すれば時間も損あり且金力にも関する故可成独居読書にふけり居候幸ひ着以後一回も風をひかず何より難有候近頃少々腹工合あしく候へども是とても別段の事には無之どうか留学中には病気にかゝるまじくと祈願致居候(中略)
先年熊本にて筆と御写し被成候写真一枚序の節御送り可被下候厚き板紙の間に挟み二枚糸にてくゝり郵便に御投じ可被下候当地は十円出さねば写真もとる事出来ず候故小生は当分送りがたく候(中略)
日本に居る内はかく迄黄色とは思はざりしが当地にきて見ると自ら己れの黄色なるに愛想をつかし申候其上脊が低く見られた物には無之非常に肩身が狭く候向ふから妙な奴が来たと思ふと自分の影が大きな鏡に写つて居つたり抔する(中略)
住みなれぬ処は何となくいやなものに候其上金がないときた日にはニツチもサツチも方が就かぬ次第に候下宿に籠城して勉強するより致方なく外へ出ると遂金を使ふ恐有るものに候
筆は定めし成人致し候事と存候時々は模様御知らせ可被下候少し歩行く様になると危険なものに候けがなき様御注意可被下候(中略)
産後の経過よろしく丈夫になり候へば入歯をなさい金がなければ御父ツさんから借りてもなさい帰つてから返して上ます髪抔は結はぬ方が毛の為め脳の為めよろしいオードキニンといふ水がある是はふけのたまらない薬だやつて御覧はげがとまるかも知れない

漱石筆鏡子あて書簡 明治34年(1901)3月8日(新収資料)

(翻刻)
其後国から便があるかと思つても一向ない二月二日に横浜を出た「リオヂヤネイロ」と云ふ船が桑港沖で沈没をしたから其中におれに当た書面もありはせぬかと思つて心掛りだ
御前は産をしたのか子供は男か女か両方共丈夫なのかどうもさつぱり分らん遠国に居ると中々心配なものだ自分で書けなければ中根の御父さんか誰かに書て貰ふが好い夫が出来なければ土屋でも湯浅でもに頼むが好い(中略)
芝居は修業の為に時々行くが実に立派で魂消る許りだ昨夜も「ドルリー・レーン」と云ふ倫孰[敦]の歌舞伎座の様な処へ行つたが実に驚いた(中略)此道具立の美しき事と言つたら到底筆には尽せない(中略)「ダイヤモンド」で家が出来て居る様だ女の頭や衣服も電気で以て赤い玉や何かゞ何十となくつく夫が一幕や二幕ではない差し易り引き易り実に莫大な金を費さなければ出来ない丸で極楽の活動写真と巡り燈籠とを合併した様だ何しろ大きな水昌[晶]宮がセリ出すかと思ふと奇麗な花園がセリ下がつて来たり其後から海に日が当つて山が青く見える処が次第に現はれて来たり是が漸々雪の降る景色に変化したり実に奇観である
おれは丈夫だ余程肥た様だ然し早く日本に帰りたい後は其内書いてやる

漱石筆鏡子あて書簡 明治34年(1901)5月8日(新収資料)

(翻刻)
御前の手紙と中根の御母さんの手紙と筆の写真と御前の写真は五月二日に着いて皆拝見した
久々で写真を以って拝顔の栄を得たが不相変御両人とも滑稽な顔をして居るには感服の至だ少々恥かしい様な心持がしたが先づ御ふた方の御肖像をストーヴの上へ飾つて置たすると下宿の神さんと妹が掃除に来て大変御世辞を云つてほめた大変可愛らしい御嬢さんと奥さんだと云つたから何日本ぢやこんなのは皆御多福の部類に入れて仕舞んで美しいのはもつと沢山あるのさと云つてつまらない処で愛国的気焔を吐いてやつた筆の顔抔は中々ひようきんなものだね此速力で滑稽的方面に変化されてはたまらない
善良なる淑女を養成するのは母のつとめだから能く心掛けて居らねばならぬ夫につけては御前自身が淑女と云ふ事について一つの理想をもつて居なければならぬ此理想は書物を読んだり自身で考へたり又は高尚な人に接して会得するものだ ぼんやりして居ては行けない

漱石筆鏡子あて書簡 明治34年(1901)8月10日(新収資料)

(翻刻)
其後御無事の事と存候
其許よりは一向書信無之或は公使館辺に滞停し居るやと存候
日本新聞六月末より七月九日に至る迄昨八月九日落手致候
山川より二回程書面参り候
中根父上は休職のよし其後は御無沙汰に打過候よろしく其許より御伝被下度候

漱石筆鏡子あて書簡 明治34年(1901)8月17日(新収資料)

(翻刻)
拝啓
八月十五日土井氏パリスより来倫当分小生方に止宿の事に致候同君より肌着上下一着絹ハンケチ四枚受取申候御厚意難有存候
中根父上の手紙其許及び梅子どのゝ手紙拝見致候
父上には目下御休職御閑散のよし結構に存候
其許御病気のよし目下は定めて御全快の事猶御注意可然と存候小児両人とも健康のよし結構に候

漱石筆鏡子あて書簡 明治34年(1901)9月26日(新収資料)

(翻刻)
八月末御差出の書状拝見致候小供も其許も少々御病気のよしの処もはや御全快のよし結構に候小生も不相変に候
下女暇をとり嘸かし御多忙御気の毒に候金が足りなくて御不自由是も御察し申す然し因果とあきらめて辛防しなさい人間は生きて苦しむ為めの動物かも知れない
倫さんの手紙によると筆は何か大変な強情ばりの容子だ男子は多少強情がなくては如何んが女が無暗に強情ではこまる又之を直すに無暗に押入に入れたりしては如何んよ仕置も臨機応変にするのはいゝがたゞ厳しくしては如何ぬ小供の性質は遺伝によるは勿論であるが大体六七歳迄が尤も肝要の時機だから決して瞬時も油 断をしては如何ん可成スナホな正直な人間にする様に工夫なさい

漱石筆鏡子宛て書簡 明治35年(1902)4月13日(新収資料)

(翻刻)
二月二十八日附の手紙本月上旬着披見致候其許も二女も丈夫にて何よりの事と存候此方も無事勉学御安神あるべく候当地も漸々あたゝかに相成候へども未だストーヴに火を焚き居候木の芽はちら/\見受候
勉強するには今日の如き境遇まことに安気にてよろしけれど其他の点に於ては矢張日本の方すみよき心地為致候いづれ今年十二月頃には帰朝致す事と存候
筆の日記は面白く存候度々御つかはし可被成候

漱石筆鏡子あて書簡 明治35年(1902)4月17日(新収資料)

  (翻刻)
いづれ今年末には帰朝のつもり故其後は何とか方法も立ち少しは楽になるべくと存候然しおれの事だから到底金持になつて有福にはくらせないと覚悟はして居て貰はねばならぬとにかく熊本へは帰り度ないが義理もある事故我儘な運動も出来ず只成行にまかせるより仕方がないと思ひ居るなり実は少し著書の目的をたて只 今は日夜其方へむけ勉強致居候日本へ帰へれば斯様にのんきに読書も思考も出来んそれ丈は洋行の御蔭と思ふ其他に別段洋行の利益もない(中略)
帰るものくるもの世は様々に候かくすつたのもんだのと騒いで世涯暮すものに候これが済めば筆の所謂のゝ様に成る義に候訳もへちまも何も無之只面白からぬ中に時々面白き事のある世界と思ひ居らるべし面白き中に面白からぬ事のある浮世と思ふが故にくる敷なり生涯に愉快な事は沙の中にまじる金の如く僅かしかなきなり(中略)
当地には桜といふものなく春になつても物足らぬ心地に候(中略)日本に帰りての第一の楽みは蕎麦を食ひ日本米を食ひ日本服をきて日のあたる椽側に寐ころんで庭でも見る是が願に候夫から野原へ出て蝶々やげん/\を見るのが楽に候

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