東北大学附属図書館 夏目漱石ライブラリ

【小説執筆時代】

『文学論』序草案、『文学論』序草稿

 単行本『文学論』は明治40年(1907)5月大倉書店から出版され、「序」は単行本刊行に先立ち、明治39年11月読売新聞に掲載された。『文学論』序は、「『文学論』成立の事情を語りながら、漱石のこれまでの文学研究の回想録になっている。と同時に、これは彼の文学研究の姿勢の一つの宣言だともいえる」(『漱石全集』第14巻註解)という。
 『文学論』は、漱石が帰国後、東京帝国大学文科大学で行なった講義「英文学概説」をもとにしている。「明治三十六年九月に始まつて明治三十八年六月に渡」ったこの講義について、漱石は、「余が予期せる程の刺激を学生諸子に与へざりしに似たり」(『文学論』序)と語り、『文学論』についても「学理的閑文字」(同)などと述べている。

『ホトトギス』 第9巻第7号(明治39年4月)

 「坊っちやん」全文と「吾輩は猫である」第10回は、『ホトトギス』第9巻第7号に同時に掲載された。この号は、大幅な価格増であった。漱石は、価格の値上げには反対で、明治39年4月1日付で編集人の高浜虚子に次のような書簡を送っている。「雑誌五十二銭とは驚ろいた。今迄雑誌で五十二銭のはありませんね。夫で五千五百部売れたら日本の経済も大分進歩したものと見て是から続々五十二銭を出したらよからうと思ひます。其代りうれなかつたら是にこりて定価を御下げなさい」。漱石の懸念通り、残部が生じたらしく、第9巻第8号には、「ホトヽギス九巻七号尚残部あり注文に応ず。頁数百余頁。定価郵税共五捨弐銭。「吾輩は備である」(十)の外嗽石の新作小説「坊つちやん」を載す。此頁数壹百五十頁」との広告があり、さらに第九巻第十号には、「ホトヽギス臨時号 坊つちゃん号 増刷残部あり。世人「坊つちやん号」といふ故に暫く其称呼に従ふ。夏目嗽石の小説「坊ちやん」其半を埋め、外に吾輩は猫である(嗽石)、(中略)定価五十弐銭のところ、四十銭に割引」との広告が出ている。

俳諧手帳

 明治38年(1905)11月頃より39年(1906)夏頃までの手帳。『吾輩は猫である』、『坊っちやん』、『二百十日』など、作品の創作メモとして利用されている。
 「パーソナリチーの世の中である。出来る丈自分を張りつめて、はち切れる許りにして生きて居る世の中となる。昔は夫婦を異体同心と号した。パーソナリチーの発達した今日そんなプリミチーヴな事実がある筈がない。細は妻、夫は夫、截然として水と油の如く区別がある」などとあり、『吾輩は猫である』に取り入れられている。

日記 明治40年(1907)~3月下旬から4月上旬

 明治40年(1907)3月下旬から4月上旬にかけて京都を旅行した際の日記である。この京都旅行の目的は、「狩野亨吉や菅虎雄に会う為、京都を見物する為」、また朝日新聞入社にあたって、大阪の「新聞社の人々と近附になる為」であり、さらには「京都で暢気に遊んでゐる内に、その内書かなければならない筈の小説の材料を、できれば拾つた来たい」(小宮豊隆『夏目漱石』)という思惑もあったという。この旅行における見聞は、「京に着ける夕」として、『大阪 朝日新聞』に掲載された(明治40年4月9日‐11日)。漱石は明治25年(1892)夏、松山に帰郷する子規とともに京都を訪れた。「京に着ける夕」には、春の京都の“寒く”“淋しい”印象と、「子規は死んだ」という漱石の慨歎が、繰り返し、記されている。

「創作家の態度」 原稿

 「創作家の態度」は、明治41年(1908)2月15日、朝日講演会の第1回として行なわれた。漱石は速記をもとに新たに稿を起こし、『ホトトギス』第11巻第7号(明治41年4月)に掲載された。翌2月16日の朝日新聞には、次のように講演会の模様が報告されている。「次は本社員夏目漱石氏なり演題は『作家の態度』最初に文学の種類を説き創作の出立点が『我』と『非我』との観念にある由を述べ理知を主とすると情を主とするとに依つて各形式内容を異にするに至る旨を弁じて曰く(中略)現代作物の多くが人物の性格を描いて余りに明瞭に過ぐるを難じ終わりに流行の所謂自然派が描きつヽある肉欲小説に一矢を報ひて壇を降る氏の講演は午後一時四十分に始まり三時二十分に終れり」。

『それから』の構想メモ

「代助ノ働ラカヌ理由。日本ノ衰亡」、「百合ノ花。昔シノ連想」、「賽ヲ投ゲベキ時機」、「僕ノ存在ニあなたは必要だ」、「仕様ガナイ覚悟ヲ極めませう」などとある。『それから』は、明治42年(1909)6月27日から10月14日まで、110回に渡り東京・大阪『朝日新聞』に連載された。漱石は、同年明治42年5月31日から『それから』を書きはじめ、8月14日に書き終えている。7月16日の日記には、「小説中々進まず。しかし是が本職と思ふと、いつ迄かゝつても構はない気がする。暑くても何でも自分は本職に力めてゐるのだから不愉快の事なし」との記述がある。

満州旅行日記

 漱石は、明治42年(1909)9月から10月にかけて中村是公の誘いで、満州に旅行した。是公は大学予備門時代の友人であり、当時、南満州鉄道株式会社(満鉄)総裁の任にあった。漱石はこのときの旅行記を「満州ところどころ」として連載したが、朝日新聞の事情等により、途中で打ち切りとなった。

漱石筆鏡子宛書簡 明治42年(1909)9月6日(新収資料)

満州からの書翰。
「只今大連ヤマトホテルと云ふ旅館につく」

漱石筆鏡子あて書簡 明治42年(1909)9月19日(新収資料)

 満州からの書翰。
「今十九日陽崗子と云ふ温泉発奉天に向ふ。同行旧友札幌農学校教授橋本左五郎氏」、「久々に面会致し毎日愉快に同行致居候 橋本左五郎」

修善寺大患日記

 漱石は、明治43年(1910)8月6日、松根東洋城の誘いにより、伊豆修善寺へ療養のために出かけた。しかしその夜から病状が悪化し、24日には大量の吐血をし危篤状態に陥った。9月以降は小康状態を保ち、10月中旬まで同地に滞在した。この間の漱石の心境については、「思ひ出す事など」に詳述されている。
 漱石は修善寺療養へ向かった明治43年8月6日から日記をつけはじめた。8月24日から9月7日までは、危篤状態に陥った漱石に代わり、鏡子夫人が記述し、9月8日からふたたび漱石が記述している。

筆子・恒子・えい子あて書簡(写し) 明治43年(1910)9月11日(新収資料)

修善寺から3人の娘たちにあてた手紙の写しである。もともとは、「手帳の紙一枚の表と裏とに」(『漱石全集』)書かれたものであったらしい。「八月十一日」とあるが、「九月十一日」の誤りだと思われる。漱石の明治43年9月11日の日記には、「子供の手紙を読む」との記載がある。
「けさおまえたちからくれた手紙を読みました。三人ともおとうさまのことを心配してくれてうれしく思います。この間はわざわざ修善寺まで見舞に来てくれてありがとう。病気で口がきけなかったから、おまえたちの顔を見ただけです。/このごろはだいぶんよくなりました。今に東京へ帰ったら、みんなで遊びましょう」などとある。

博士号辞退に関する文献

 漱石は、修善寺からの帰京後、長与胃腸病院に入院した。退院する直前の明治44年(1911)2月下旬、文部省から博士号授与の通達が届くが、漱石は辞退した。
 展示は、文部省専門学務局長・福原鐐二郎に宛てた、辞退の書簡の下書き。「小生は今日迄たゞの夏目なにがしとして世に活きて居りました。是から先も矢張 りたゞの夏目なにがしとしで暮したい希望を持つて居ります」などとある。福原は後に東北帝国大学総長をつとめた。 漱石は、英国留学中に妻・鏡子へ宛てて、「先達御梅さんの手紙には博士になつて早く御帰りなさいとあつた博士になるとはだれが申した博士なんかは馬鹿々々敷博士なんかを難有[が]る様ではだめだ」(明治34年9月22日付書簡)などと書き送っており、漱石の「博士嫌い」は一貫していた。

漱石筆えい子あて書簡 大正元年(1912)8月11日(新収資料)

鎌倉の別荘で過ごす三女へ宛てた絵葉書。「えい子さん御きげんはいかゞですか私はかわりもあ[り]ません/このとりがたまごをうみますからにて御上がんなさい」とある。

漱石筆鏡子あて書簡 大正元年(1912)8月27日(新収資料)

 大正元年8月17日、漱石は塩原温泉へ出かけた。翌18日は中村是公らと合流し、同地に滞在する。8月25日には軽井沢へ向い、8月31日に東京へ帰った。
「こんな山の中に来た。今迄で一番閑静な所なり。金之助 八月二十七日」、「旦那さまに日々御世話になります 中村是公」

漱石筆鏡子あて書簡 大正4年(1915)3月28日(新収資料)

 大正4年3月19日、漱石は津田青楓の誘いで京都へ出かけた。津田は画家であり、後に『道草』や『明暗』の装幀を手掛けた人物である。漱石は、京都滞在中に体調不良を訴え、一時寝込んでしまった。「病気もほぼよろしく候色々な人に世話になり候、ことに津田君と津田君の兄さんと御多佳さんの世話になり候津田君は寐てゐるうち始終ついてゐてくれました、姉は気の毒をしました、帰れないでわるかつた」とある。京都滞在中、漱石は、祇園の茶屋「大友」の女将・磯田多佳と知り合った。漱石は、日記に「晩食に御多佳さんを呼んで十一時迄話す」(大正4年3月20日)、「淋しいから御多佳さんに遊びに来てくれと電話で頼む」(3月22日)などと記し、多佳に対し好感を寄せていた。しかし北野天神行きの約束をめぐって行き違いがあり、漱石は、帰京後、「私はあなたと一ケ月の交際中にあなたの面白い所親切な所を沢山見ました。然し倫理上の人格といつたやうな点については双方ともに別段の感化を受けずに別れてしまつたやうに思ふのです。(中略)私は自分の親愛する人に対してこの重大な点に於て交渉のないのを大変残念に思ひます」(大正4年5月16日)という書簡を書き送った。

『道草』の構想メモ

 『道草』は、大正4年(1915)6月3日から9月14日まで102回にわたり東京・大阪『朝日新聞』に連載された。英国から帰国して後の、『吾輩は猫 である』の執筆を挟んで、数年間の実生活を題材にとっている、漱石唯一の自伝的小説である。主人公の「健三」と妻の「住」、健三の養父母の「島田平吉」、「お常」など、登場人物の名が見える。

『道草』草稿

 漱石が朝日新聞に「道草」を連載中、門下生の一人内田百閒が漱石山房を訪れると、書き潰しの原稿が「七八寸もある様に見え」たという(「漱石先生の書き潰し原稿」)。本館では「道草」草稿を15葉所蔵しており、それらは連載第三十三回と三十九回のものである。

『明暗』覚書き(新収資料)

 『明暗』は、大正5年(1916)5月から12月まで東京・大阪『朝日新聞』に連載されたが、漱石の死により188回 で途絶した。「津田由雄」と妻「のぶ(延)」、津田の妹「堀秀」、津田の叔父「藤井」とその妻「朝」、お延の叔父「岡本」とその妻「住」、津田の上司である「吉川」夫妻などの名前が見える。『明暗』は、津田が、吉川夫人の計らいにより、温泉旅館に宿泊中のかつての恋人・清子と再会する場面で終わっている。

大正5年(1916)断片(『明暗』覚書き)

 『明暗』の覚書き。「我一人の為の愛か」とあり、「私はそんな気の多い人は嫌です。自分一人を愛して呉れる人でなくつては」「外の人は全く愛せずに自分丈の愛の量を集めやうといふのですね」「さうです」「すると其男に取つて貴方以外の女は丸で女でなくなるのですな」「えゝ」「何うしてそれが出来ます」「完全の愛はそんなさうでせう。其所迄行かなくつちや本当の愛を感ずる訳に行かないぢやありませんか」など、延と秀の会話に取り入れられている。小宮豊隆によれば、これは、漱石と津田青楓夫人の会話に基づいているという(「『明暗』の材料」)。

書幅(新収資料)

(翻刻)
夜色幽扉外 辞僧出竹林
浮雲回首尽 明月自天心

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