東北大学附属図書館 夏目漱石ライブラリ

主要作品全解説

吾輩は猫である

(初 出)『ホトトギス』 明治38年1月~明治39年8月まで10回にわたり断続的に連載
(単行本)上編 明治38年10月 中編 明治39年11月 下編 明治40年5月 大倉書店・服部書店

(内 容)
 猫を語り手として苦沙弥・迷亭ら太平の逸民たちに滑稽と諷刺を存分に演じさせ語らせたこの小説は「坊っちゃん」とあい通ずる特徴をもっている。それは溢れるような言語の湧出と歯切れのいい文体である。この豊かな小説言語の水脈を発見することで英文学者・漱石は小説家漱石(1867-1916)となった。(岩波文庫解説より)

(自作への言及)
 東風君、苦沙弥君、皆勝手な事を申候。それ故に太平の逸民に候。現実世界にあの主義では如何と存候。御反対御尤に候。漱石先生も反対に候。
 彼らのいふ所は皆真理に候。しかしただ一面の真理に候。決して作者の人生観の全部に無之故(これなきゆえ)その辺は御了知被下(くだされたく)候。あれは総体が諷刺に候。現代にあんな諷刺は尤も適切と存じ『猫』中に収め候。もし小生の個性論を論文としてかけば反対の方面と双方の働きかける所を議論致したくと存候。
(明治39年8月7日 畔柳芥舟あて書簡より)

 『猫』ですか、あれは最初は何もあのように長く続けて書こうという考えもなし、腹案などもありませんでしたから無論一回だけでしまうつもり。またかくまで世間の評判を受けようとは少しも思っておりませんでした。最初虚子君から「何か書いてくれ」と頼まれまして、あれを一回書いてやりました。丁度その頃文章会というものがあって、『猫』の原稿をその会へ出しますと、それをその席で寒川鼠骨君が朗読したそうですが、多分朗読の仕方でも旨かったのでしょう、甚くその席で喝采を博したそうです。(中略)
 妙なもので、書いてしまった当座は、全然胸中の文字を吐き出してしまって、もうこの次には何も書くようなことはないと思うほどですが、さて十日経ち廿日経って見ると日々の出来事を観察して、また新たに書きたいような感想も湧いて来る。材料も蒐められる。こんな風ですから『猫』などは書こうと思えば幾らでも長く続けられます。(「文学談」)

坊っちゃん

(初 出)『ホトトギス』 明治39年4月
(単行本)『鶉籠』所収 明治40年1月 春陽堂

(内 容)
 「坊っちゃん」は数ある漱石の作品中もっとも広く親しまれている。直情径行、無鉄砲でやたら喧嘩早い坊っちゃんが赤シャツ・狸たちの一党をむこうにまわしてくり展げる痛快な物語は何度読んでも胸がすく。が、痛快だ、面白いとばかりも言っていられない。坊っちゃんは、要するに敗退するのである。(岩波文庫解説より)

(自作への言及)
 (中略)『坊っちゃん』の中の坊っちゃんという人物は或点までは愛すべく、同情を表すべき価値のある人物であるが、単純過ぎて経験が乏し過ぎて現今のように複雑な社会には円満に生存しにくい人だなと読者が感じて合点しさえすれば、それで作者の人生観が読者に徹したというてよいのです。(「文学談」)

草 枕

(初 出)新小説 明治39年9月
(単行本)『鶉籠』所収 明治40年1月 春陽堂

(内 容)
 「しつこい、毒々しい、こせこせした、その上ずうずうしい、いやな奴」で埋まっている俗界を脱して非人情の世界に遊ぼうとする画工の物語。作者自身これを「閑文字」と評しているが果してそうか。主人公の行動や理論の悠長さとは裏腹に、これはどこを切っても漱石の熱い血が噴き出す体の作品なのである。(岩波文庫解説より)

(自作への言及)
 ただきれいにうつくしく暮らす、即ち詩人的にくらすという事は生活の意義の何分一か知らぬがやはり極めて僅少な部分かと思う。で『草枕』のような主人公ではいけない。あれもいいがやはり今の世界に生存して自分のよい所を通そうとするにはどうしてもイブセン流に出なくてはいけない。(明治39年10月26日 鈴木三重吉あて書簡)

 私の『草枕』は、この世間普通にいう小説とは全く反対の意味で書いたのである。唯だ一種の感じ--美くしい感じが読者の頭に残りさえすればよい。それ以外に何も特別な目的があるのではない。さればこそ、プロットも無ければ、事件の発展もない。(中略)
 普通に云う小説、即ち人生の真相を味はせるものも結構ではあるが、同時にまた、人生の苦を忘れて、慰藉するという意味の小説も存在していいと思う。私の『草枕』は、無論後者に属すべきものである。(談話「余が『草枕』)

虞美人草

(初 出)朝日新聞 明治40年6月23日~10月29日
(単行本)明治41年1月 春陽堂

(内 容)
 明治43年、朝日新聞に入社した漱石が職業作家として書いた第1作。我意と虚栄をつらぬくためには全てを犠牲にして悔いることを知らぬ藤尾に超俗の哲学者甲野、道義の人創宗近らを配してこのヒロインの自滅の悲劇を絢爛たる文体で描く。漱石は俳句を一句一句連ねるていくように文章に苦心したという。(岩波文庫解説より)

(自作への言及)
 『虞美人草』は毎日かいている。藤尾という女にそんな同情をもってはいけない。あれは嫌な女だ。詩的であるが大人しくない。徳義心が欠乏した女である。あいつをしまいに殺すのが一篇の主意である。うまく殺せなければ助けてやる。しかし助かればなおなお藤尾なるものは駄目な人間になる。最後に哲学をつける。この哲学は一つのセオリーである。僕はこのセオリーを説明するために全篇をかいているのである。だから決してあんな女をいいと思っちゃいけない。小夜子という女の方がいくら可憐だかわかりやしない。(明治40年7月19日小宮豊隆あて書簡)

三四郎

(初 出)朝日新聞 明治41年9月1日~12月29日
(単行本)明治42年5月 春陽堂

(内 容)
 大学入学のために九州から上京した三四郎は東京の新しい空気のなかで、世界と人生について一つ一つ経験を重ねながら成長してゆく。筋書だけをとり出せば「三四郎」は一見何の変哲もない教養小説と見えるが、卓越した小説の戦略家漱石は一筋縄では行かぬ小説的企みを実はたっぷりと仕掛けているのだ。(岩波文庫解説より)

(自作への言及)
 題名--「青年」「東西」「三四郎」「平々地」
 右のうち御択み被下度候。小生のはじめつけた名は「三四郎」尤も平凡にてよろしくと存候。ただあまり読んで見たい気は起り申すまじくとも覚候。
 (田舎の高等学校を卒業して大学に這入った三四郎が新しい空気に触れる、そうして同輩だの先輩だの若い女だのに接触して色々に動いて来る、手間は此空気のうちに是等の人間を放す丈である、あとは人間が勝手に泳いで、自から波瀾が出来るだろうと思う(略)(明治41年渋川玄耳あて書簡)

それから

(初 出)朝日新聞 明治42年6月27日~10月14日
(単行本)明治43年1月 春陽堂

(内 容)
 若き代助は義侠心から友人平岡に愛する三千代をゆずり自ら斡旋して二人を結びあわせたが、それは「自然」にもとる行為だった。それから3年、ついに代助は三千代との愛をつらぬこうと決意する。「自然」にはかなうが、しかし人の掟にそむくこの愛に生きることは二人が社会から追い放たれることを意味した。(岩波文庫解説より)

(自作への言及)
 色々な意味に於てそれからである。「三四郎」には大学生の事を描たが、此小説にはそれから先の事を書いたからそれからである。「三四郎」の主人公はあの通り単純であるが、此主人公はそれから後の男であるから此点に於ても、それからである。此主人公は最後に、妙な運命に陥る。それからさき何うなるかは書いていない。此意味に於ても亦それからである。(『それから』予告)

(初 出)朝日新聞 明治43年3月1日~6月12日
(単行本)明治44年1月 春陽堂

(内 容)
 横町の奥の崖下の暗い家で世間に背をむけてひっそりとして生きる宗助と御米。「彼らは自業自得で、彼らの未来を塗抹した」が、一度犯した罪はどこまでも追って来る。彼らを襲う「運命の力」が全篇を通じて徹底した<映像=言語>で描かれる。「三四郎」「それから」に続く三部作の終篇。(岩波文庫解説より)

(自作への言及)
 拝復。葉書をありがとう。『門』が出たときから今日まで誰も何もいってくれるものは一人もありませんでした。私は近頃孤独という事に慣れて芸術上の同情を受けないでもどうかこうか暮らして行けるようになりました。従って自分の作物に対して賞賛の声などは全く予期していません。しかし『門』の一部分が貴方に読まれて、そうして貴方を動かしたという事を貴方の口から聞くと嬉しい満足が湧いて出ます。(大正元年10月12日阿部次郎あて書簡)

彼岸過迄

(初 出)朝日新聞 明治45年1月2日~4月29日
(単行本)大正元年9月 春陽堂

(内 容)
 いくつかの短編を連ねることで一篇の長編を構成するという漱石年来の方法を具体化した作。その中心をなすのは須永と千代子の物語だが、ライヴァルの高木に対する須永の嫉妬を漱石は比類ない深さにまで掘り下げることに成功している。この激しい情念こそは漱石文学にとっての新しい課題であった。(岩波文庫解説より)

(自作への言及)
 「彼岸過迄」というのは元日から始めて、彼岸過迄書く予定だから単にそう名付けた迄に過ぎない実は空しい標題である。かねてから自分は個々の短編を重ねた末に、其の個々の短編が相合して一長編を構成するように仕組んだら、新聞小説として存外面白く読まれはしないだろうかという意見を持していた。が、ついそれを試みる機会もなくて今日迄過ぎたのであるから、もし自分の手際が許すならば此の「彼岸過迄」をかねての思はく通りに作り上げたいと考えている。(「彼岸過迄に就いて」)

行 人

(初 出)朝日新聞 大正元年12月6日~大正2年11月15日(大正2年4月8日~9月15日まで休載)
(単行本)大正3年1月 大倉書店

(内 容)
 妻お直と弟二郎の仲を疑う一郎は妻を試すために、二郎にお直と二人で一つ所へ行って一つ宿に泊まってくれと頼む…。知性の孤独地獄を生き、人を信じえぬ一郎は、やがて「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか」と言い出すのである。だが、宗教に入れぬことは当の一郎が誰よりもよく知っていた。(岩波文庫解説より)

こゝろ

(初 出)朝日新聞 大正3年4月20日~8月11日
(単行本)大正3年9月 岩波書店 漱石自装

(内 容)
 この小説の主人公である「先生」は、かつて親友を裏切って死に追いやった過去を背負い、罪の意識にさいなまれつつ、まるで生命をひきずるようにして生きている。と、そこへ明治天皇が亡くなり、後をおって乃木大将が殉死するという事件がおこった。「先生」もまた死を決意する。だが、なぜ…。(岩波文庫解説より)

(自作への言及)
(前略)当時の予告には数種の短編を合してそれに『心』といふ標題を冠らせる積だと読者に断ったのであるが、其短編の第一に当る『先生の遺書』を書き込んで行くうちに、予想通り早く片が付かない事を発見したので、とう/\その一篇丈を単行本に纏めて公けにする方針に模様がへをした。
 然し此『先生の遺書』も自から独立したやうな又関係の深いやうな三個の姉妹篇から組み立てられてゐる以上、私はそれを『先生と私』、『両親と私』、『先生と遺書』とに区別して、全体に『心』といふ見出しを付けても差支えないやうに思つたので、題は元の儘にして置いた。たゞ中味を上中下に仕切つた丈が、新聞に出た時との相違である。
 装幀の事は今迄専門家にばかり依頼してゐたのだが、今度はふとした動機から自分で遣つて見る気になつて、箱、表紙、見返し、扉及び奥附の模様及び題字、朱印、検印ともに、悉く自分で考案して自分で描いた。(後略)(『心』自序)

 あの『心』という小説のなかにある先生という人はもう死んでしまいました。名前はありますが覚えても役に立たない人です。あなたは小学の六年でよくあんなものをよみますね。あれは小供がよんでためになるものじゃありませんからおよしなさい。(後略)(大正3年4月24日松尾寛一あて書簡)

道 草

(初 出)朝日新聞 大正4年6月3日~9月14日
(単行本)大正4年10月 岩波書店

(内 容)
「道草」は漱石唯一の自伝小説だとする見方はほぼ定説だといってよい。すなわち、「吾輩は猫である」執筆前後の漱石自身の実体験を「直接に、赤裸々に表現」したものであるというのである。だが実体験がどういう過程で作品化されているかを追求してゆくと、この作品が私小説系統の文学とは全く質を異にしていることが分る。(岩波文庫解説より)

明 暗

(初 出)朝日新聞 大正5年5月26日~12月14日(大阪朝日新聞は、休載をはさみ、12月27日まで) 漱石の死によって連載188回で中絶、未完
(単行本)大正6年1月 岩波書店

(内 容)
 主人公津田とその妻お延の生き方を中心としてエゴイズムの問題に容赦なく光をあてた「明暗」は漱石が生涯の最後に到達した思想「則天去私」の文学的実践だった。作者の死によって未完に終ったが、想像力豊かに作品の構造を読みとくことで「明暗」の「その後」を考えることは必ずしも不可能ではない。(岩波文庫解説より)

(自作への言及)
 あなたはお延という女の技巧的な裏に何かの欠陥が潜んでいるように思って読んでいた。然るに、そのお延が主人公の地位に立って自由に自分の心理を説明し得るようになっても、あなたの予期通りのものが出て来ない。それであなたは私に向って、「君は何のために主人公を変えたのか」といいたくなったのではありませんか。
 あなたの予期通り女主人公にもっと大袈裟な凄まじい欠陥を拵えて小説にする事は私も承知していました。しかし私はわざとそれを回避したのです。何故というと、そうするといわゆる小説になってしまって私には(陳腐で)面白くなかったからです。私はあなたの例に引かれるトルストイのようにうまくそれを仕遂げる事が出来なかったかも知れませんが、私相応の力で、それを試みだけの事なら、(もしトルストイ流でも構わないとさえ思えば)、遣れるだろう位に己惚れています。(大正5年7月19日大石泰蔵あて書簡)

(前略)僕はあいかわらず『明暗』を午前中書いています。心持は苦痛、快楽、器械的、この三つをかねています。存外涼しいのが何より仕合せです。それでも 毎日百回近くもあんな事を書いていると大いに俗了された心持になりますので三、四日前から午後の日課として漢詩を作ります。日に一つ位です。そうして七言律詩です。厭になればすぐ巳めるのだからいくつ出来るか分りません。(大正5年8月21日久米正雄・芥川龍之介あて書簡)

(c) 1995-2024 Tohoku University Library 著作権・リンクについて