資料解説

1.阿部文庫 第3回常設展 出展

阿部次郎著『人格主義』 岩波書店発行, 大正11年版

 阿部文庫の蔵書は、日本文化研究所創設のために購入された書籍が大部分と見られ、阿部の手沢本は殆ど含まれていない。本書も阿部自身の著作ではあるが、後に古書店から入手された、昭和14年の第13刷本である。「今の社会状勢が大分違」ってしまったため削除すべき所を指摘したり、文中の金言を「巻末に載せては如何ですか」の提案を行うなど、阿部の手に入る前に身近な人物が書き入れたような跡が見える。(阿部文庫)

斎藤茂吉著『柿本人麿(評釈編巻之下)』 岩波書店発行, 昭和14年版

 斎藤茂吉(1882-1953)による柿本人麿の歌の評釈。茂吉は昭和9年の総論編発刊以来、『万葉集』を代表する歌人の柿本人麿に関する研究を精力的に発表した。その結果、アララギ派歌人としての名声に加え、学者としての評価をも高めた。本書は著者署名入り献呈本である。(阿部文庫)

村岡典嗣著『日本思想史研究』 岡書院発行, 昭和5年版

 村岡(1884-1947)は、大正12年に東北帝国大学法文学部に設置された日本思想史学科初代教授である。ドイツ文献学を基礎とし、「認識されたものの再認識」を主題とする史的文化学を提唱した。また第3代館長として、附属図書館の発展に尽力した。本書は著者署名入り献呈本である。(阿部文庫)

2.石津文庫 第3回常設展出展

Kierkegaard, Soren. Der Begriff der Angst. Jena,1923.

 デンマークの宗教思想家キルケゴールの著作集の中の『不安の概念』。1923年発行のイエナ版。八つ折り判で、ナイフで頁を切りながら読む。多くの書き込みが、精読の跡を示している。(石津文庫)

田辺壽利編 『宗教と神話〈社会学大系6〉』 国立書院発行,昭和23年版

 神話の文化的機能や社会構造との関係に注目したマリノフスキーらの学説を前提として、「宗教と社会」「「宗教と科学」「神話伝説」「儀礼」等のテーマを論じた論文集。石津は第三編「宗教と哲学」を担当している。多くの書き入れや付箋は、後に自ら手を入れた跡と見られる。(石津文庫)

家坂和之著『社会学(一般理論 上巻)』 高山書店発行, 昭和25年版

 著者の大学における社会学普通講義の覚書をまとめたもの。体系的な入門書を目指した旨が「序」に記されている。全体は「科学としての社会学」「社会文化的現象の一般的構造」の二章から成る。八つ折り判で、頁の表側が空白になっていて、メモ等に便利な装丁になっている。実際本書には、石津のものと見られる書き入れがびっしりとなされている。なお著者は、昭和26年に東北学院大学から東北大学へ移り、現在は名誉教授。(石津文庫)

宮家準著『修験道における宗教儀礼の構造 五』 昭和43年2月学位請求論文

宮家準著『修験道儀礼の研究』 春秋社発行, 昭和45年版

 学位請求論文第6章のコピー(1252-1508頁)は、慶応大学の400字詰原稿用紙を用いている。石津が慶応大学に移った後に、論文審査の際に使用したものと思われる。この論文は二年後に加筆修正され『修験道儀礼の研究』として上梓された。同書は著者署名入り献呈本として、石津文庫に納められている。(石津文庫)

3.伊東文庫 第4回常設展 出展

伊東信雄著『多賀城跡調査報告書Ⅰ-多賀城廃寺跡-』 宮城県教育委員会・多賀城町刊行, 昭和44年

 多賀城廃寺は、古代の陸奥国府である多賀城に付属する寺院跡であり、九州の太宰府に付属する観世音寺と共通した性格の寺院である。昭和36年から43年にかけて大規模な調査にとりくみ、その寺院の性格、伽藍配置の創建から焼失するまでの変遷を明らかにした。本書は、「陸奥国分寺跡」と並ぶ、伊東信雄東北大学名誉教授の東北古代史研究の代表的業績のひとつである。(伊東文庫)

伊東信雄著『宮城県遠田郡不動堂村素山貝塚調査報告書』 東北帝国大学法文学部奥羽史料調査部刊行, 昭和15年

 素山貝塚は、宮城県小牛田町に所在する縄文時代早期末(約7000年前)の貝塚である。伊東名誉教授の調査によって早期の縄文土器の特色が東北でははじめて明らかにされるとともに、かっての海岸線が30Km内陸にのびていたこともわかった。考古学の学術書としても画期的なものである。(伊東文庫)

伊東信雄著『沼津貝塚出土石器時代遺物』考古資料第一~三集 東北大学文学部東北文化研究室, 昭和37~39年

 沼津貝塚は、石巻市に所在する東北地方屈指の大規模な縄文時代貝塚である。明治20年代から昭和10年代にかけて発掘によって膨大な数の骨角器、土器、石器、土製仮面、土偶などが収集された。本資料集には多数の貴重な資料が紹介されており、現在これらの資料は全て重要文化財に指定されている。(二集三集は伊東文庫、一集は文学部考古学研究室所蔵)

伊東信雄編『瑞鳳殿 伊達政宗の墓とその遺品』 瑞鳳殿再建期成会発行, 1979年

 本書は、伊東信雄東北大学名誉教授を中心として行われた仙台藩祖伊達政宗公の霊廟瑞鳳殿墓室発掘調査報告書である。内容は、発掘調査記録を主体とし、考古、地質、建築、歴史に関する調査研究成果が盛り込まれている。(伊東文庫)

伊東信雄著『天平産金遺跡』 涌谷町教育委員会発行,昭和47年

 涌谷町黄金迫黄金山神社境内の古瓦出土地は陸奥国守百済王敬福が朝廷に献上した黄金の産地と伝えられていたが、この付近は当時の産金地であったことが昭和32年東北大学文学部考古学研究室の発掘調査によって確証された。(伊東文庫)

伊東信雄著『善応寺横穴古墳群調査報告書』 仙台市教育委員会発行, 昭和43年

 善応寺横穴古墳群は、古墳時代末期の墳墓群で、当時の東北地方の文化状態を知る上でも非常に貴重であった。本書は伊東教授などによる発掘調査を行った調査結果報告書。(伊東文庫)

伊東信雄編『感仙殿伊達忠宗 善応殿伊達綱宗の墓とその遺品』 瑞宝殿発行, 1985年

 本書は、仙台藩二代藩主伊達忠宗と仙台藩三代藩主伊達綱宗の感仙殿・善応殿の墓室調査報告書である。内容は、発掘調査記録を主体とし、これに歴史的・地理的環境及び各分野の関連科学の調査研究成果を含んでいる。(伊東文庫)

伊東信雄著『古代東北発掘』 学生社, 昭和48年

 著者が過去において行ったいくつかの発掘や調査の結果について一般人を対象として書かれた。(伊東文庫)

4.梅原文庫 第4回常設展 出展

フリンダーズ・ペトリー著『考古学70年』 ロンドン, 1931年

 エジプト考古学の創始者のひとりであるイギリスの考古学者ペトリ(1853~1942)の自伝。その生い立ちから、エジプト各地の発掘調査を経て、晩年のパレスチナ研究まで、実証的考古学の歩みが語られる。梅原の師である京都帝国大学の初代考古学教授、浜田耕作はペトリーのもとに留学し、日本考古学の発展に大きな影響をあたえた。(梅原文庫)

V.スタイス著『国立博物館ミケーネ文明コレクションⅡ』 アテネ, 1926年

 梅原は、ヨーロッパ留学中に、精力的に各地の博物館で収蔵品の入念な観察を重ねた。本文庫には、数百冊に及ぶ欧米各国の博物館資料の解説書類が含まれている。ギリシアの青銅器文明を扱った本書にも、梅原の書き込みが残されている。(梅原文庫)

ルロア・グーラン著『トナカイの文明』 パリ, 1936年

 フランス最高の先史考古学者のひとりで、旧石器時代研究の泰斗、ルロア・グーランの25才の時の処女作。ユーラシア北方のトナカイ狩猟民や遊牧民の民族誌、また旧石器芸術など、総合的にトナカイをめぐる人類文化を考察した。梅原に謹呈の署名がある。(梅原文庫)

アヴベリー卿『先史時代』 ロンドン, 1913年

 著者の旧名はジョン・ラボック。1865年に出版された初版において、人類が絶滅動物と共存していた旧石器時代と、磨製石器を使用した新石器時代とを時代区分した。本書は、その後の発見を取り入れて大きく改訂された第7版。「古代の遺物と現代の未開人の風俗と習慣から例証される」という副題が示すように、当時は考古学と民族誌学とが渾然としていた。(梅原文庫)

『大英博物館、エジプト第4、第5、第6室、コプト室の案内書』 ロンドン, 1922年

 梅原は、ヨーロッパ留学中に、精力的に各地の博物館で収蔵品の入念な観察を重ねた。本文庫には、数百冊に及ぶ欧米各国の博物館資料の解説書類が含まれている。古代エジプト展示室の、2800点の資料解説である本書にも、梅原の書き込みが残されている。(梅原文庫)

ハインリッヒ・シュリーマン著『トロイとその遺物』 ロンドン, 1875年

 シュリーマンにより最初に発掘されたトロイの都市遺跡の調査研究書。トルコ西部のヒッサルリク丘にある遺跡の発掘調査は、1871~73年に行われた。5期にわたる遺構が明らかになり、シュリーマンは2期目の都市を、ホメロスの叙事詩「イーリアス」に描かれたトロイであると考えた。(梅原文庫)

E.ラルテとH.クリスティー著『アクイタニアの遺物』 ロンドン, 1875年

 副題は、「南フランスのペリゴールおよび隣接地方の考古学と古生物学への貢献」。ヨーロッパにおける旧石器時代研究の確立期の画期的業績のひとつ。新人の骨を出土した、クロマニヨン洞穴をはじめ、著名遺跡が密集するレゼジー地区を中心とする調査研究書。旧石器時代を「トナカイの時代」として、石器の分類や彫刻のある骨角器の考察もなされているが、まだ洞穴壁画美術は発見されていない。(梅原文庫)

ゴードン・チャイルド著『青銅器時代』 ケンブリッジ, 1930年

 イギリスの偉大な考古学者チャイルドが、エジンバラ大学教授時代に著した、ヨーロッパ青銅器時代の総合的な概説書。青銅器の各型式、前・中・後期における欧州各地域が解説される。著者は語学に優れ、中欧・東欧を含めてヨーロッパ先史文化の伝播と社会進化を論じた多くの業績で知られる。(梅原文庫)

5.大類文庫 第5回常設展 出展

雑誌『西洋史研究』創刊号 冨山房, 1932年6月20日

 日本最初の西洋史研究の専門雑誌。東京・神田・神保町の冨山房を発売元(定価70銭)として刊行。論文、紹介、西洋史学会展望から構成され、日本における西洋史研究を先導する充実した内容をもっていた。雑誌『西洋史研究』は戦時中一時中断を余儀なくされたが、戦後復刊、1994年には通巻50号(新輯23号)を数えている。創刊号の表紙はパリ図書館所蔵の12・13世紀の世界地図である。(文学部ヨーロッパ史研究室所蔵)

大類伸著『西洋中世の文化』 冨山房, 1925年, 本文555頁

 東北帝国大学法文学部着任早々の刊行。欧州留学の成果を盛り込み、ヨーロッパ中世の政治・経済・社会にとどまらず、特に12世紀、13世紀の宗教、文学、美術についても言及し、「中世文化の総観的」把握を試みた大作である。豊富な図版と説明が挿入されている。①北イタリア、ラヴェンナ大寺院のモザイク画の聖ペテロ像(カラー)②フランス、ランス大寺院(白黒)③中世農民の生活(カラー)が口絵として揚げられている。(文学部ヨーロッパ史研究室所蔵)

大類伸著『ルネサンス文化の研究』 清水弘文堂, 増補版1971年, 本文471頁

 イタリア・ルネサンス研究の集大成。1938年刊行、三省堂版の増補である。大類のルネサンス研究の3つの柱をなしたラファエロ、ダンテ、マキャヴェリに関する考究とともにルネサンス文化全体についての世界史的な意義づけが試みられている。ルネサンス時代の調和的精神の代表者として大類が注目したラファエロの「大公爵の聖母」が口絵劈頭にある。(文学部ヨーロッパ史研究室所蔵)

ダンテ・アリギエリ『神曲』 トリノ, 1936年

 大類が使用したダンテの『神曲』Divina Comedia、第1巻地獄編である。ダンテ(1265-1321年)はフィレンツェ生まれのルネサンス期の大詩人。その政治的理想を『帝政論』 De Monarchiaとして執筆(1310-12)、フィレンツェ市の6統領の一人に選出されたが、政争に巻き込まれフィレンツェを追われ、ラヴェンナで没した。大類の関心は、ダンテの中世的世界観の特質解明に向けられた。(大類文庫)

フランチェスコ・ペトラルカ『著作集』 ベルン, 1610年

 大類留学中に求められた貴重な古書の一つ。イタリアの人文主義者、ペトラルカ(1304-74年)の著作集。スイスのベルンで刊行されものを纏めた羊皮紙装の2巻本。ペトラルカは、ダンテと並ぶルネサンス期を代表する詩人でもある。第二巻見開き頁のタイトルは、「孤独の生活ついて」。(大類文庫)

6.狩野文庫 第5回常設展 出展

相阿弥作『君台観左右帳記』 永録2年写本【複製】

 室町幕府の同朋衆(文芸や芸能を専門とする僧侶)による座敷飾りのマニュアル。先進の中国文化を取り入れながら、「座敷」という日本独自の生活空間を形成していく様子が読み取れる。いわば、日本の美意識の母体を形成した書。原本は未確認で、この狩野文庫本が現存する最も古い、資料的にも価値の高い写本とされている。(狩野文庫)

ゑ入 江戸大絵図(えいり えどおおえず) 江戸表紙屋市郎兵衛刊, 貞享元年(1684)

 17世紀中頃までの近世初期の地図は大型図が多く、遅れて小形の懐中図、やがて切絵図等が作られていく。江戸地図は、寛文10年(1670)遠近道印作・経師屋刊が実測図のはしりで、その後中村市郎兵衛、林吉永といった版元からも大型図が次々に刊行された。この表紙屋刊の図は、林吉永刊図などとよく似た構図で、貞享末年まで発行された。武家地が6割を占める城下町の様子や、明暦大火以後作られた日除地や広小路の所在が示されている。(狩野文庫)

井上和雄編著『書物三見』 書物展望社, 昭和14年

 狩野亨吉が著者から贈呈された本。内容は、書誌学、浮世絵史、明治文化史に関するもの。(狩野文庫)

小宮豊隆著『漱石の藝術』 岩波書店, 昭和17年

 狩野亨吉が小宮豊隆から贈呈された本。内容は、『漱石全集』に添えた著者の解説を一巻にまとめたものである。(狩野文庫)

東京数学物理学会編『本朝数学通俗講演集』 大日本図書, 明治41年

 関孝和の200年忌を記念して行われた講演の筆記を収録したものである。なかには狩野亨吉の講演が掲載されている。

狩野亨吉・岩上方外編『書畫印譜落款大全1』武侠社, 昭和6年

 古書蒐集家で、科学的書画鑑定登録法の提唱者である狩野亨吉が、書画の研究者岩上方外とともに編集したものである。なかに狩野亨吉の「書畫の鑑定特に落款印章の効用に就いて」が収録されている。

7.木下文庫 第5回常設展 出展

玉野井芳郎監訳『デイヴィド・リカードウ全集第Ⅳ巻』  雄松堂書店, 1970年

 本書は、第二次世界大戦後スラッファ版として出された「リカードウ全集」の第四巻の翻訳である。この「リカードウ全集」はケインズの示唆で1930年に企画されたものだが、全十巻の刊行は戦後までかかった。日本での翻訳事業は、堀経夫を中心に進められ、1970年にその刊行をみた。後期リカードゥ(1815~1823年)の論文集である第四巻は玉野井芳郎の監訳によるもので、木下は、農業に関連する「穀物の低価格が資本の利潤におよぼす影響についての試論」と「農業保護論」の二本の翻訳を担当している。ただし、木下の訳業は、すでに戦前1932年に、『世界大思想全集』第63巻として翻訳刊行されたものであった。(木下文庫)

木下彰著『日本農業構造論』 日本評論社, 1945年

木下彰著『新訂・日本農業構造論』 日本評論社, 1955年

 木下の研究は、戦前から戦後にかけて、日本農業が抱え込んでいた問題構造とその発展可能性を解明することに力点をおいて進められた。本書は、そのような木下の農業問題研究のなかで、東北地方の名子制度をのぞく農業問題関連の論文を、一つにまとめたものである。初版は『日本農業構造論』(1949年)に出されている。水田農業として土地問題を抱え込んだ日本農業の構造を取り扱った上で(第一章~第三章)、商業的発展可能性を秘めた柑橘農業を素材とする「進歩的農業部門」(第四章)の構造が分析されている。(木下文庫)

木下彰著『山村経済実態調査書(仙台を中心とする宮城県市場の分析)』 1955年

木下彰著『木炭流通機構の実態と分析』 1958年

  林野庁は1950年代後半に、林業発達史調査会を発足させて林業史に関する大規模な調査研究を実施した。木下はその調査研究に加わって、主に東北地方の木炭生産流通関係の調査と研究に取り組んだ。これら二つのパンフレットはその成果の一部である。(木下文庫)

木下彰著『名子遺制の構造とその崩壊』 御茶の水書房, 1979年

 本書は、木下の名子制度研究の集大成ともいうべき作品であり、1978年度学士院賞を受賞した。名子制度は、第二次世界大戦前まで、東北地方の山間部を中心に広く残存していた従属農制度であり、戦前には日本資本主義論争の中で「封建遺制」の象徴的存在として取りあげられていた。本書は、東北地方旧南部藩領を中心とする名子遺制の残存状況、存在形態、崩壊過程についての実証的研究である。特に第三部で名子制度分析の中心におかれた岩手県九戸郡大野村晴山家は、山田盛太郎『日本資本主義分析』でも徭役労働の事例として紹介された家である。なお、晴山家文書は現在東北大学図書館に所蔵されている。(木下文庫)

8.櫛田文庫 第6回常設展 出展

国際労働者協会(第一インターナショナル、1864-1876)議事録(ファクシミリ版)

 国際労働者協会は世界で最初の労働者の国際組織であって、展示物は同協会中央評議会議事録原本の写しである。1938年以後、議事録のオリジナルはアムステルダム・社会史国際研究所で保管されている。この写しはそれ以前に作成された。写しの作成時期、櫛田の入手経緯は不明である。この15ページには1864年11月29日の議事が記載されている。14行目の"Dr.Marx"が『資本論』の著者カール・マルクスであることはいうまでもない。下段の新聞記事は1865年1月7日付けのBee-Hive紙169号に掲載されたリンカーンの再選を祝う同協会中央評議会の挨拶文である。(櫛田文庫)

マルクス『資本論』第2巻「資本の流通過程」 初版 1885年

 櫛田民蔵は大原社会問題研究所の欧文図書購入を目的に、1920年10月から1922年8月にかけて渡欧する。本書は1921年9月にプラハ(見返しの"Plag"は"Prag"の誤記であろう)を訪問したさい、彼自身のために古書肆で購入したマルクス『資本論』第2巻の初版本である。現在東北大学経済学研究科を中心に、国際マルクス=エンゲルス財団・アムステルダムの依頼で、新MEGA(Zweite Marx-Engels-Gesamtausgabe新『マルクス=エンゲルス全集』、全114巻)第II部「『資本論』および準備労作」第12、13巻の編集が進められている。第13巻には『資本論』第2巻初版(1885年)が収録されるが、その底本には櫛田旧蔵のこの版本が用いられる。(櫛田文庫)

河上肇『資本主義經濟學の史的發展』 第21版 弘文堂, 1923年

 本書は戦前期日本におけるマルクス主義の紹介・普及で非常に大きな足跡を残した河上肇(1879-1946)の経済学史研究を集大成したものであって、浩瀚高価な学術書であったが、約1年半という短期間に20版を重ねた。河上は京都帝国大学時代における櫛田民蔵の恩師であった。本書の初版が刊行された翌年(1922年)7月、櫛田は雑誌『改造』に「社會主義は闇に面するか光に面するか」を寄稿し、本書の根本思想を痛烈に批判した。河上はこの批判を受け入れ、自己批判を決意する。展示ページはこの間の経緯を綴った本書2-3ページである。本書は河上が櫛田に贈った献呈本である(見返しコピー、参照)。
 後年河上は京都帝大を辞し、1932年には日本共産党に入党し、東京で地下活動に従事する。このとき河上は官憲の追跡を逃れ櫛田の自宅に逗留する。河上は危険を顧みずに彼を匿ってくれた櫛田に謝礼としてフランス語版『資本論』を贈った。このフランス語版『資本論』の版本はマルクスがC.パスカルに寄贈した献辞本であり、河上の門下で東北大学法文学部創設者の一人、堀経夫(1896-1981)が、櫛田に少し遅れて、本学法文学部の図書購入のために渡英したとき購入した版本で、帰国後、記念に河上に贈ったものであった。この版本は現在所有者から本学附属図書館に寄託され貴重書庫で保管されている。(櫛田文庫)

Misere de la Philosophie. Reponse a la Philosophie de la Misere de M. Proudhon. 1847(ファクシミリ版・青木書店, 1982)

 本書は櫛田民蔵文庫でもっとも著名なカール・マルクス『哲学の貧困』(パリ/ブリュッセル、1847)の著者自用本・ファクシミリ版である。オリジナルは本学附属図書館貴重書庫で保管されている。櫛田はこの版本を1921年7月21日、ドイツ社会民主党アルヒーフで入手した。櫛田未亡人によれば、櫛田は生前、河上から寄贈されたマルクス自署入りのフランス語版『資本論』の版本を常に机上に置いていた。しかしこのマルクス自用本について話したことはなかった。本学は櫛田の急逝後、本書を含め多数の櫛田旧蔵書を購入したが、購入直後に作成された目録でもマルクス自用本であることは明記されず、『哲学の貧困』初版本以上の扱いをしなかった。この版本が本学でマルクス自用本と同定されたのは、マルクス関係の書物を自由に手にすることができるようになった戦後のことであった。本ファクシミリ版は、「1950年ごろ」本学で最初にこの版本をマルクスの自用本と同定した田中菊次本学名誉教授が、本書の成立経緯や伝承、マルクスの書き込みの解読を付し、可能な限りオリジナルに忠実な版本の再現をめざして1982年に編集公刊したものである。(櫛田文庫)

森戸辰男『思想と闘争』 改造社, 1923年

 櫛田民蔵は京都帝国大学を卒業後、大阪朝日新聞、同志社大学を経て、1918年に東京帝国大学経済学部講師に就任する。着任まもなく、いわゆる「森戸事件」が起こった。1919年12月発行の学部機関誌『経済学研究』創刊号に森戸辰男(1888-1984、戦後文相、広島大学長、中央教育審議会長を歴任)が発表した「クロポトキンの社会思想の研究」が政府当局の目に触れることになった。山縣有朋ら超国家主義者・右翼思想家たちは、帝国大学の教職にあるものが無政府共産の学説を学部機関誌に発表するとは何事か、と森戸論文を非難攻撃し、森戸と機関誌発行名義人の大内兵衛が「朝憲紊乱の罪」で起訴され、裁判では二人に有罪の判決が下った。この創刊号には櫛田が翻訳した『共産党宣言』の一部も掲載されており、事件の成り行きを不快の念をもって見守っていた櫛田は、東大経済学部教授会が判決も待たずに森戸・大内を休職処分にしたことに憤慨して東大講師を辞任した。本書はそうした森戸の櫛田宛献呈本である。展示箇所では、関東大震災直後、警視庁がおこなった社会主義者に対する逮捕、拘留の模様の詳細を記した箇所が伏せ字になっている。(櫛田文庫)

9.河野文庫 第6回常設展 出展

Les OEuvres de Monsieur de Moliere, Denys Thierry, Claude Barbin et Pierre Trabouillet. 1682.

 フランス古典期の喜劇作家モリエール(1622-1673)の著作集。没後20年にして刊行された超稀覯本。河野先生は戦前のフランス文学講義でモリエールを取りあげられ、その該博な知識の徹底的な披露は授業中とどまるところを知らず、2年あまり続いた講義は中途のまま終わったという。(河野文庫)

Jules Romains, Les hommes de bonne volonte, Flammarion, coll. 1958.

 フランス20世紀の小説家ジュール・ロマン(1885-1972)の大河小説『善意の人々』(1932-47)。先生は晩年、宿痾の気管支炎に悩まされながらも読書の意欲は些かも衰えることなく、既に幾度も読まれたトルストイ、ドストエフスキー全集を病床にて繙かれたという。昭和43年9月6日丸善より購入したという日付のある本書もまた幾多の対象になったことだろうか。河野文庫にはロマンの著作が殊の外多いのに驚かされる。(河野文庫)

ライプニッツ 河野與一訳『形而上學敍説』 大正14年

 「形而上学叙説」「ライプニッツ・アルノー 往復書簡」を収める。河野與一が京都にいたころ、両著作の意義を認めていた西田幾多郎に勧められ、翻訳に着手することになったという。

ビエルン・ロンゲン作 河野與一訳『山にのまれたオーラ』 昭和32年

 ロンゲンはノルウェーの作家。この本の原作は、1954年に出版され最優秀児童図書として賞を受けている。本書は、河野與一が夏目漱石の愛弟子であった小宮豊隆(本学五代図書館長)へ贈呈したものである。

河野先生の思い出刊行会 『回想 河野與一 多麻』 1986年

 河野與一と多麻夫人(東北帝国大学法文学部卒)が亡くなってから、知人、岩波書店関係者、親戚などが、「めいめいが思うままを率直にしるしたもの」をまとめた追悼文集で、二人の人柄が偲ばれる。

10.児島文庫 第7回常設展 出展

Theodor Lipps, Aesthetik: Psychologie des Schoenen und der Kunst, 1er Teil. Hamburg und Leipzig, 1903.
(テオドール・リップス『美学』第一巻)

 リップスはドイツの哲学者・心理学者であり、感情移入美学の大成者として知られる。本書はその主著の一つである。当時のヨーロッパ美学思想の主要潮流の一つであった美的感情移入説に児島が深い関心を寄せていたことは、彼の哲学的論文の随所に見て取ることができる。とりわけ「美的観照」の概念に関する考察(「美術概論」)においては、リップス説に大きく依拠した論説が展開されている。(児島文庫)

Ernst Cassirer, Kants Leben und Lehre. Berlin, 1918.
(エルンスト・カッシーラー『カントの生涯と学説』)

 1921年に始まる欧州留学の初期に児島はハンブルクに居を定め、創設間もないヴァールブルク研究所(現在はロンドンに移転)に出入りした。新カント派の哲学者カッシーラーもまたこの研究所を賛美し、熱心な利用者であった事はよく知られている。児島はハンブルク大学のカッシーラーの授業に出席し、カント哲学や認識論に関する講義を興味深く聴いたという。本書は1918年にカッシーラー編集によるカント全集の補巻として出版されたものであり、カントの三批判書の中でも美学的問題を扱った『判断力批判』を哲学体系の最頂点に位置づけたことに独自性がある。ページの書き込みからは児島が自己の研究対象とも大きく関わるこの章を精読した跡を窺うことができ、実際その後の論考で「彼(カント)の内面生活と彼の健全な思索の力は実に恐ろしいものである。彼に比すればその後の美学者などは全く甘いものだ」(「天平彫刻と様式問題」)と評している。(児島文庫)

Eugene Muentz, Leonard de Vinci.Paris, 1899.
(ウジェーヌ・ミュンツ『レオナルド・ダ・ヴィンチ』)

 児島が留学中の1921年にパリで購入したもの。レオナルドの生地であるヴィンチ村周辺の略図が素描されている。児島は1924年にトスカーナの小都市エンポリから知人の車でこの村を訪れており、あるいはこの図もその時の記憶をもとに描かれたものかもしれない。彼は後にこの時の情景をこう記している-「エムポリの町を横断して見事なポプラが片側に並んでゐるアルノ河の岸に沿うて暫らく行くと道は右に折れる…銀灰のオリーヴの間に交わる樹々の黄葉が日に映えて非常にうつくしかった」(「伊太利の日本學者」)。(児島文庫)

Wilhelm von Bode, Sandro Botticelli. Berlin, 1922.
(ヴィルヘルム・フォン・ボーデ『サンドロ・ボッティチェッリ』)

 著者の自筆署名入り。児島は欧州留学中、元ベルリン美術館の館長でありフィレンツェのドイツ美術史研究所の創立者でもあったヴィルヘルム・フォン・ボーデに私淑した。ボーデは鋭敏な鑑識眼と強固な行政手腕により社会における美術館の位置を確立し、今日のベルリン美術館の基礎を築き上げた大立者である。彼はボッティチェッリの作品研究において重要な新知見を含む本書を、児島との縁故を記して東北大学に寄贈した。(文学部美学研究室所蔵)

児島喜久雄『希臘の鋏』 1942年

 昭和17年に出版された小論集。ギリシャ壷絵の系譜を紹介した小文「希臘の陶器畫」を収め、表紙も児島自身の装丁による。児島の研究範囲は多岐にわたるが、ギリシャ古代美術はルネサンス美術に次いで彼がもっとも学問的に傾注した対象であった。加えて本書には折につけて新聞、雑誌に寄稿した多くの展覧会評を収録しており、鋭敏な批評家としての彼の一面をも窺うことができる。(本館書庫)

『児島喜久雄画集』1987年

 児島は博識な美術史学者であるとともに卓越した素描家でもあった。水彩を三宅克己から、エッチング技法を来日したばかりのバーナードリーチから手ほどきを受け、1914年の第一回二科展では入選も果たしている。雑誌『白樺』同人としてはその表紙挿絵を手がけ、また東北帝国大学在職中は日本画にも手を染めるなど、生涯にわたり幅広い技芸の習得に余念がなかった。精緻なデッサン力に裏付けられた児島の画技は余儀の域を越え、専門の画家や批評家をも瞠目させるほどの腕前であった。本書は生誕百年を機に遺族や門下生らの手によって出版されたものであり、児島の絵画作品やデッサン入りの研究ノートなどを紹介している。(本館書庫)

11.須永文庫 第7回常設展 出展

須永重光著『技術論講義』 中央プリント, 1967年

 技術論は、須永のライフワークであったが、この書は学生のために一年分の講義内容になるように簡潔にまとめたものである。本書では、社会の基幹産業の技術を中心に各歴史的段階における技術の社会経済的意義を解明しつつ、技術的原理の流れを追っている。(須永文庫)

須永重光著『日本農業技術論』 御茶の水書房, 1977年

 工業における技術論と農業における技術論はその根源において、異なる性質を持つとして、これを論理的に論証してゆくことが須永のライフワークであった。本書は、須永の研究の集大成とも言えるもので、須永の没後、出版された。収録されている諸論文は、終戦前に出版が企画され、発刊の運びにまでいたったのであるが、戦時中の制約のため実現することができなかったものである。しかし、本書の「はしがき」は、出版の一年前に書かれたもので、戦前、戦後を通し論理には変わりないという須永の並々ならぬ確信を推知することができる。(本館書庫)

農政調査会『千町歩地主齋藤家の土地集積過程とその居村前谷地村の農地改革』 1952年

 この書は、須永が財団法人農政調査会から委嘱を受けて調査した記録である。須永は農地改革に関して数編の論文があるが、そのうちまとまったものとして、この著作がある。宮城県前谷地村(現桃生郡河南町前谷地)は、東北の水稲単作地帯の典型的な農村であり、この村における農地改革は、当時世の注目を浴びていた。なお、齋藤家は、学術・産業の発達を目的として齋藤報恩会を設立し、本学も多大な恩恵を受けている。(須永文庫)

須永重光編『近代日本の地主と農民』 御茶の水書房, 1966年

 須永は、水稲単作地帯である宮城県小牛田町の出身であるが、豊かな農村なのに、そこに住む農民が勤労と貧窮に堪えていることが、幼い頃からの疑問であった。この書は、宮城県南郷村(現遠田郡南郷町)を対象に、水稲単作農業の研究を内容としており、稲作農業がわが国の資本経済の運動にいかに対応し、いかに変質してゆくかを実証的に追求しようとした共同研究である。出版に際し、昭和40年度文部省科学研究費の研究成果刊行費補助金をうけた。(須永文庫)

『農業構造委員会記録』 1968-69年

 昭和41年12月に東北7県の経済人により東北経済連合会が結成された。その農林水産委員会より依頼され、専門的見地から特に構造問題について調査研究する委員会の委員長を勤めることになった須永のファイル。謄写版資料と自筆メモより成る。(須永文庫)

大内力著『日本農業の財政学』 東大協同組合出版部, 1950年

 大内力(1918-)は東京大学マルクス経済学派の代表で、宇野弘蔵理論にもとづき農業問題を解明した。本書は出版翌年の正月元旦に、蜂書房の川越一夫氏より贈呈されたもの。(須永文庫)

美濃部達吉著『憲法撮要』 4版第14刷 有斐閣, 1929年

 美濃部達吉(1873-1948)の主著の一つ。著者は東京大学教授で行政法の権威であったが、その所説である天皇機関説が昭和10年(1935)に右翼から攻撃され、本書も発禁処分となった。特に「第五章帝国議会」の部分には、須永による多くの書き入れが見える。(須永文庫)

杉本壽著『林野入会権の研究』 日本評論社, 1960年

 著者謹呈本。「此間、福井大学の杉本壽兄来仙の折お預りした同君著書御届けします」という経済学部教授木下彰(1903-82)のメモが挿入されている。(須永文庫)

『宮城県会議事録』 明治12年(1879)

 奥書によれば、昭和24年に南郷村二郷(現遠田郡南郷町二郷)の木村仁氏宅で発見された端本を譲りうけたもので、昭和43年(1968)に破損を防ぐため改装したとある。(須永文庫)

『東北大学農学研究所報告』 23巻1号, 1971年
須永重光教授定年退官記念号(本館書庫)

12.高柳文庫 第8回常設展 出展

高柳真三著『明治前期家族法の新装』 有斐閣, 1987年

 高柳は、本学助教授になった昭和2年(1927)から、欧米留学に出発するまでの約十年間に毎年2本くらいずつのペースで、江戸時代と明治初期の家族法に関する論文を発表した。本書は、これらの論文をとりまとめたものである。昭和初年当時は、明治期はいまだ日本法制史の対象と認められていなかったが、高柳は明治法制史の必要性を確信して一人黙々と業績を積み上げ、ついには明治法制史を学問領域のうちに確立した。(本館書庫)

高柳真三著『江戸時代の罪と刑罰抄説』 有斐閣, 1988年

 高柳は、昭和14年(1939)に外国留学を終えて帰国したが、それ以降、それまでとは一転して江戸時代の刑法に関する論文を続々と発表した。これらの論文をとりまとめたものが本書である。「明治前期家族法の新装」と共に、本書はこの方面の研究を志す若い研究者にとって必読の書とされている。(本館書庫)

高柳眞三、石井良助編『御触書集成』 全5巻, 岩波書店, 1934-1937年

 御触書集成とは江戸幕府の法令集であるが、本書は極めて厳密な校正を経て刊行され、最も信頼のできる史料集として著名であり、法制史学者のみならず、江戸時代の研究者にとって座右の基本的史料集として今なお高い評価をうけている。(高柳文庫)

茂庭村開発許可状 寛文11年(1671)9月14日

 領主側より、茂庭村(現仙台市太白区内)名主の喜右衛門に対し、同村の地の開発を許可したもの。(高柳文庫)

御格式帳 元禄16年(1703)11月成立

 仙台藩の刑法の基本文献。上級家臣の有した刑罰権を剥奪し、藩主に権力を集中させる方向性を持つ。享和元年(1801)4月に書写された写本である。(高柳文庫)

離縁状 寛政11年(1799)8月26日

 吉岡町(現宮城県黒川郡大和町内)の品川屋仲七が、息子仁三郎の離縁を承知し先方に送ったもの。三行半(みくだりはん)と呼ばれる通常の離縁状とは異なる形式。(高柳文庫)

小作人儀定取極之事 慶応2年(1866)10月

 宿連寺村(現千葉県柏市)の小作人たちが、風難(台風被害?)への対処を寄合で相談し、他言しないことを申し合わせたもの。首謀者を特定させないために唐傘の形で連判を行っている。(高柳文庫)

改正地券 明治9年(1876)10月20日

 土地所有権と納税義務を表示した地券(明治6年の地租改正法以後は「改正地券」)で、宮城県松島町のもの。(高柳文庫)

13.中野文庫 第8回常設展 出展

中野正著『価値形態論』(『中野正著作集』第1巻) 日本評論社, 1987年(初版1958年)

 中野の最も代表的な著作とされる本書は、初版が1958年に出版され、その当時若い研究者に最もインパクトを与えた著作の一つであるといわれ、その研究の意義は今日なお不滅とされている。本書では、マルクスの『資本論』の価値形態論について批判的考察がなされ、マルクス自身が〈経済学批判〉として行った先行の諸学説へ再度フィードバックし、マルクスの批判との違いを浮彫にしている。さらに資本主義を「生成するもの」とし、アリストテレスの「生成」の論理とヘーゲルの弁証法を用いて解明を行っている。(本館書庫)

『書簡集』(『デイヴィド・リカードウ全集』第6-9巻) 雄松堂書店, 1970-1975年

 1951年、スラッファ編纂による『デイヴィド・リカードウの著作および書簡集』全10巻の出版が開始されたことは、世界の経済学文献界にとって画期的な出来事であった。日本においても、1955年、堀経夫を委員長、中野正および杉本俊朗を実行委員とする日本語版「リカードウ全集」刊行委員会が設立されたが、出版の条件が整わず、ようやく1965年になって刊行の運びとなった。中野は、この全集の第6-9巻にあたる『書簡集』の部分の監訳者をつとめた。(本館書庫)

The Works and correspondence of David Ricardo, vols. 6-9. Letters. Edited by Piero Sraffa ; with the collaboration of M.H. Dobb. Cambridge [Cambridgeshire] : Cambridge University Press, 1952.
(『デイヴィド・リカードウ全集』第6-9巻 『書簡集』 1952年)

 中野が監訳者をつとめたデイヴィド・リカードウの『書簡集』(同全集 第6-9巻 雄松堂書店 1970-1975年)の原書。随所にアンダーラインや書込みが見られ、「日本語版『リカードウ全集』刊行の辞」の抜刷りがはさまれている。(中野文庫)

Aristotelis opera ex recensione Immanuelis Bekkeri ; edidit Academia Regia Borussica.- Editio altera quam curavit Olof Gigon. - Berolini : Apud W. de Gruyter 1960-1961.
(『アリストテレス全集』 1960-1961年)

 ベルリン・アカデミー版(あるいはベッカー版)とよばれているアリストテレス全集のリプリントである。原本は1831年に出版されたが、今なお標準版としての地位を保ち、アリストテレスの引用はこの版のページ付けによってなされるという慣行が確立されている。中野は著作『価値形態論』において、アリストテレスの「生成」の論理、ヘーゲルの弁証法を基礎において価値形態論の論理構造の解明を目指した。(中野文庫,本館書庫)

Samtliche Werke. Bd.2,4-5,8-10. Jublaumsausgabe in 20 Banden. Hrsg. von Hermann Glockner. - Stuttgart : Frommann 1949-1958.
(グロックナー版『ヘーゲル全集』第2,4-5,8-10巻 1949-1958年)

 中野は代表的な著作とされる『価値形態論』において、アリストテレスの「生成」の論理、ヘーゲルの弁証法を基礎において価値形態論の論理構造の解明を目指した。本書は、中野文庫の中にあるグロックナー版ヘーゲル全集のうち、弁証法に関連の深い巻である。同文庫にはこの他、ヘーゲル全集のホフマイスター版やズールカンプ版も含まれている。(中野文庫)

Πλατωνοσ αηαντα τα σωζομενα= Platonis opera quae extant omnia ex nova Joannis Serrani interpretatione, perpetuis eiusdem notis illustrata: quibus & methodus & doctrinae summa breuiter & perspicue indicatur. Eiusdem annotationes in quosdam suae illius interpretationis locos ; Henr. Stephani de quorundam locorum interpretatione iudicium, & multorum contextus Graeci emendatio. - [Genevae?] Excudebat Henr. Stephanus , 1578.
(ステファヌス版『プラトン全集』全3巻 1578年)

 活字によって印刷された原典プラトン全集は、1513年のアルドス版が最初であるが、この1578年のステファヌス版が基準となって、これ以後のプラトンのテキストや翻訳書には、この全集のページを示す数字(1ページの中は10行毎に付されたA~Eの記号)が、それぞれに対応する箇所に記され、プラトンの言葉の引用なども、これに従って、どの作品のどの箇所の言葉であるか示されることになっている。中野は経済学者であると同時に一流の収書家であり、古典等に大変くわしい知識を持っていることで著名であった。(中野文庫)

14.中村文庫 第9回常設展 出展

辻善之助編著『大乘院寺社雜事記』全12巻 潮書房, 1931-1937年
(第2巻降は三教書院発行)

 本書は、興福寺大乗院門跡尋尊、政覚、経尋の日記に、尋尊が大乗院所蔵の日記類から抄出した「大乗院日記目録」をあわせて公刊したものである。応仁の乱前後の政治・社会・経済及び文化に関する基礎史料として重要なものである。
 昭和6年(1931)、中村は辻善之助博士の計らいで、東京帝國大学史料編纂所の業務嘱託となった。当時、中世史料はほとんど活字化されていなかった。しかし、辻のもとで、中村をはじめとする史料編纂所の若手所員数人が、史料は万人の共有物だという発想から、本書の編纂校訂を決意したとされ、厳密な原本照合作業を繰り返し、実に十数校を重ねるという出版社・印刷所のただならぬ犠牲の上に、六カ年の歳月を費やして刊行された。第6巻以後、中村は本学へ赴任のため、校訂者からぬけることになった。(中村文庫)

中村吉治著『近世初期農政史研究』 岩波書店, 1938年

 中村は、卒業論文のテーマ申告のときに「百姓に歴史がありますか?」といわれながら、あえて「近世初期の農政」を卒業論文として提出した。当時としてはそれ位珍しいテーマであったが、さらにその研究を推し進め、まとめたものが本書である。ここでは、近世封建社会の再編成の過程を対象とし、これを農政の側から取り扱っている。出版当時、本書は近世初期の農政問題について、最も実証的な内容をもつ著作として、高い評価を得た。(中村文庫)

中村吉治著『日本社會史』 有斐閣, 1952年

 本書では、社会関係を通して日本の経済史を明らかにする、という視点で<日本社会史>の全体像が構成されている。中村はこの後、岩手県煙山村および諏訪藩今井村の実証成果をふまえて、昭和45年(1970)に本書の新版を出す。そこでは、民衆からみた社会構造の歴史という構成はくずさず、しかし、社会構造を共同体という観点でとらえるという立場をはっきりさせている。(中村文庫)History of Society in Japan.

中村吉治編著『村落構造の史的分析:岩手縣煙山村』 日本評論新社, 1956年

 本書は、岩手県煙山村(現、矢巾町煙山)の松ノ木部落という一村落に事例をとり、その詳細な実証的研究の積み重ねから、その当時学界で最も主要な問題点であった「村落共同体論」に対して発言したもので、当時の「村落共同体論」が理論的議論に急なあまり、実態に即した研究として展開されていなかった状況をうけて、学界に大きな影響を与えた。日本経済史研究史上大きな成果をもたらした一書である。(中村文庫)

中村吉治ほか著『解体期封建農村の研究:諏訪藩今井村』 創文社, 1962年

 本書は、長野県の諏訪湖々畔にある今井村(現、岡谷市今井)を事例とした詳細で綿密かつ徹底的な実証分析研究である。基本的には岩手県煙山村の共同体研究を基準とした、他の地域の村落共同体の比較研究として位置づけられる。実証研究を通して、その当時の学界で流行していた幕藩体制社会論等に関わるさまざまな論点にも批判的な言説が展開されている。(中村文庫)

中村吉治著『日本封建制の源流』全2巻 刀水書房, 1984年

 本書の主題は、氏族と家、村と家、それにもとづく身分である。この三者の関係とそれを歴史過程のうちに位置づけ、どう考えるか多方面から考究される。とくに古代の家と氏族、中世の家と村の関係に示される集団の二重構造の展開とその各時代における機能に注意がはらわれ論じられる。中村は「律令以後、明治までを、中世的共同体の時代だ」としているから、本書は日本の歴史の大半を扱うことになり、そこでの議論も単に封建社会のみでなく、日本社会の構造にせまるものになる。そうした意味で本書は中村による雄大な日本社会論としての色彩をもつものである。(中村文庫)

中村吉治教授還暦記念論集刊行会編『共同体の史的考察:中村吉治 教授還暦記念論集』 日本評論社, 1965年

 本書は、中村が昭和40年(1965)2月4日をもって還暦を迎えるにあたり、門下生ならびに関係者が我が国村落共同体の歴史的考察の成果をまとめ、記念論集として刊行したものである。とかく還暦記念論集の執筆者は祝賀として参加することに重点がおかれると共に、論文そのものについては多少のはりあいのなさを自他共に感ずるものであったが、この論文集においては、中村の還暦を祝賀する気持を十分にあらわすために、関係者が論文に力を尽くしている。
 中村の学風は、深く先学の遺産に学びながら、きわめて批判的に自己の主体性をどこまでも確保しつつそれを摂取し、その上に独創的な自己の見解を築きあげるという、大変に自らに厳格な学風であった。この学風の一端が、本書の中の論文になされた数多くの傍線や書込等から伺うことができる。(中村文庫)

中村吉治著『社会史への歩み』全4巻 刀水書房, 1988年

 本書は、「煙山村」研究の仲間であった高弟たちの編纂による中村の遺稿集全4巻であり、その全体が「社会史とは何か」という設問に対する中村の生涯を通じての回答の集成となっている。
 1986年12月10日、中村は急逝したが、最後の日も朝から元気で、いつものように机に向かって原稿を執筆していた。その原稿は生前冗談に紛れながら「俺が死んだらこれを出してくれないかな」と言っていた原稿で、中村の幼児からの自伝的回想であった。それらが第1巻「老閑堂追憶記」と第2巻「学界五十年」の一部に収められている。さらに、第2巻には、中村が研究者として生涯のそれぞれの時期にかかわった学界や大学について書いたもの、または座談会で述べたものが収められている。第3巻「社会史論考」、と第4巻「社会史研究史」には、中村が書いた社会史に関する論文で、それまで一書にまとめられることのなかった諸論文が収められている。
 もともと経済史家であった中村は、経済史は社会史の形をとることによって完成されるということを生前よく口にしていた。また、社会史には民衆の歴史という語感があるとして、そのことばの響きを常に愛していた。これらのことが、遺稿集全4巻に「社会史への歩み」というタイトルをつける所以となった。(中村文庫)

15.晩翠文庫 第9回常設展 出展

土井晩翠『天地有情』 博文館, 明治32年(1899)

 本書は晩翠の処女詩集で、本詩集によって、晩翠は『若菜集』(1897)の詩人島崎藤村(1872-1943)と併称され、詩壇における藤晩時代の到来が告げられる程の高い評価を受けた。歴史や英雄に取材したその叙事詩的な作品は、藤村の抒情詩とは対照的な詩風であり、日清戦争後の国民感情の高揚の中で圧倒的な支持を得ることとなった。この詩集の出版にあたって、晩翠は博文館からの刊行を望んだものの断られ、意気消沈していたところ、晩翠の学友であった久保天随(明治29年旧制二高卒)と高山樗牛(明治26年旧制二高卒)の二人が、可哀想だと同情して博文館の出版責任者である大橋新太郎(乙羽)を説得し、渋々これを出版させたというエピソードがある。(本館書庫)

土井晩翠『晩翠詩集』増補改版 博文館, 1927年

 本書は晩翠の詩のアンソロジーで、初版は大正8年(1919)に出版され、その中には、第一詩集『天地有情』(1897年)、第二詩集『暁鐘』(1901年)、第三詩集『東海遊子吟』(1906年)が収められていた。この増補改版には、さらに第四詩集『曙光』(1919年)と第五詩集『天馬の道に』(1920年)が加えられており、本文中には晩翠自身による無数の傍点、傍線だけでなく、所々に推敲の書込等が見られるなど、詩人晩翠を研究する際、きわめて貴重な資料である。(晩翠文庫)

ホーマー著、土井晩翠譯『イーリアス』Homer. Doi, Bansui (trans.). Iliad, 冨山房, 昭和15年(1940)

 晩翠は20歳の頃、英語訳のホーマーの2大叙事詩を読んで驚嘆し、フランスのアシェット社刊行の二重訳(直訳と翻訳)を頼りに、独学で、そのうちの一つである『イーリアス』のギリシャ語原典からの韻文訳に着手した。明治34年(1901)から37年にかけての3年半の欧州遊学の際には、できるかぎりホーマーに関係のある本を手当たり次第買い求めた。大正3年(1914)には雑誌『中央公論』に『イーリアス絶唱--天上の争--』と題して、翻訳の一部を掲載するほどであったが、難事業のため途中で中絶せざるを得なかった。しかし、昭和9年(1934)、旧制二高の教授を引退して時間の余裕を得たことから、再び翻訳を開始し、昭和15年(1940)にはついに原詩と同じく行数1万5千余行の韻文訳が完成し、古希記念出版として刊行が叶った。ついで昭和17年には同じくホーマーの2大叙事詩のもう一つである『オヂュッセーア』1万2千余行の韻文訳も出版の運びとなり、晩翠はこれらのライフワークの功績により、80歳の昭和25年(1950)の文化の日に、第8回文化勲章を受章した。詩人として文化勲章を受章したのは晩翠が最初であった。(本館書庫)

『舊新約聖書』 米國聖書会社, 1914年

 晩翠は、八枝夫人との間に、三人の子供をもうけたが、昭和7年長女照が27歳で亡くなり、翌8年長男英一が25歳で、さらに昭和15年次女信が33歳で亡くなった。八枝夫人も昭和23年に70歳で病で亡くなったので、栄光に包まれた晩翠の晩年は、孤独で寂しいものであった。
 この聖書は、27歳で亡くなった長女照の形見で、その遊紙には上部に横書きで「Teru Tsuchii / Miyagi JoGakko / Sendai Japan』と書かれ、さらにその下に縦書きで「宮城女学校生徒たりし折、照子の用ゐたるもの。あの時は土井、今日は土井と改音」「此書はわがライブラリイに永久に保存すべし」とあり、晩翠の痛切の思いを伝えている(宮城女学校は現在の宮城学院女子大学、昭和7年に晩翠は「土井」の読み方を改めた)。(晩翠文庫)

『詩経』 延享4年(1747)江戸前川六左衛門等刊

 漢の毛亨伝・鄭玄箋の20巻5冊本のうち巻7-12、巻13-16、巻17-20の3冊。関連事項を細かな字で記した書き入れや付箋は、本書を精読する姿が映されているかのようである。(晩翠文庫)

『大方広仏華厳経』 元文5年(1740)刊

 唐の実叉難陀が漢訳した八十巻本の華厳経のうち、巻48-50と巻51-54の二冊を綴じて1冊としている。晩翠の関心は広く東西諸思想に及んだが、特に華厳哲学の体系性に惹かれたらしく、熱心に読み込んだ様子が窺える。(晩翠文庫)

ラマルチーヌ『瞑想詩集・新瞑想詩集』 1875年
(A. de Lamartine, "Premieres et nouvelles meditations poetiques", Paris, Hachette : Furne : Pagnerre, 1875.)

 晩翠は、明治33年(1900)、母校である旧制第二高等学校の教授に着任するが、明治34年5月31日付で二高教授を休職(明治35年3月「依願免本官」)し、翌6月、私費で欧州遊学に旅立った。明治34年10月から35年5月までは、ロンドンのユニバーシティ・カレッジで英文学を、36年1月から4月まではパリのソルボンヌ大学で仏文学を、36年10月から37年7月までは、ドイツのライプチッヒ大学で独英文学を研究し、同年11月に帰朝した。本書は、フランス・ロマン派の詩人であるラマルチーヌの『瞑想詩集』(1820)と『新瞑想詩集』(1823)の合本であり、この洋行の途中、英国で購入したものである。
 明治34年8月、晩翠はロンドンに到着し、東京帝国大学文科大学英文学科の4年先輩である漱石の出迎えを受けた。そして、漱石と同じ下宿に10月まで滞在し、その間、何かと指導をしてくれた漱石に感謝をしている。また、翌35年8月、晩翠は「荒城の月」の作曲者滝廉太郎(1879-1903)が病気のため帰国命令を受けてドイツから日本へ帰る途中、テームズ河口の埠頭で、最初で最後の出会いをしている。(晩翠文庫)

ヴィクトル・ユゴー『静観詩集』(ヴィクトル・ユーゴー全集、詩集) 刊年不詳
(Victor Hugo, "Les Contemplations", ("Oeuvres completes de Victor Hugo, Poesie), Paris, Hetzel : Maison Quantin, s.d.)

16.松本文庫 第10回常設展 出展

『現代心理学体系 全14巻』 共立出版, 1956-1958(1899)

 本全集は松本の編集で、昭和31年から33年にかけて刊行された。心理学の歪曲された常識化を避け、その正しい発達と国民文化の向上に寄与することを意図したものであった。執筆者の多くは、学的伝統を誇る旧帝国大の中堅に位置する研究者で、着実な叙述が見られ、中にはこれまでの研鑽を初めて世に問う内容も含まれている。(松本文庫)

松本金寿『教育はどこへ : 戦后教育の診断』 講談社, 昭和35年(1960)

 本書は、心理学の立場から教育を論じた著作である。松本によると、終戦後の日本においては、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するための教育が華々しいスタートを切り、国民は等しくその誕生を喜んだ。ところが、戦後15年も経過するうちに、現実の政治はこの新教育の成長に対して一つ一つ文句をつけ、変更を強要し、また教育の場にあるものもいたずらに新教育のかけ声におぼれ、その中身をおろそかにし、わが子、わが弟妹の学校選びに明けくれているうちに、新教育の命脈はいつしか消えようとしていた、という。松本は、このままでは新教育が、やがて元の木阿弥になるのではないかと憂え、戦後教育の健康診断のカルテとして本書を世に問うた。(松本文庫)

ソビエト心理学研究会編集部『ソビエト心理学研究 =Советская Психология 』 復刻版  1 (1965)-

 日本に、教育心理学を含むソビエトの心理学が、まとまった形で導入されるようになったのは、戦後のことである。松本は昭和38年(1963)、ソビエト心理学会長の招待によりソビエト心理学会第2回大会へ出席した。帰国後、内藤耕次郎、世良正利らとソビエト心理学研究会結成の呼びかけを行い、昭和40年(1965)には同会の会長に就任した。本誌はその機関誌の復刻版である。展示している部分は松本が作成した『ソビエト心理学邦訳書目録』(同誌No.14-15)である。(松本文庫)

松本金寿『特殊児童双書 全5巻』 明治図書, 昭和41年(1966)

 本学教育学部は、昭和24年(1949)の創立以来、特殊教育学について深い関心を持ってきた。昭和41年(1966)当時、本学は国立大学で唯一、視覚欠陥学と聴覚言語欠陥学という大学院課程をもつ大学であり、卒業生で特殊教育学に関係する者が、すでに100名以上にのぼっていた。本双書は当時本学教育学部教授であった松本が定年を前にして、これら関係者の諸業績をとりまとめ、社会的自立への一助にと考えて編集したものである。刊行当初は全7巻の予定であったが、5巻のみ出版された。当時、このようなテーマの双書は日本では初めてともいうべきものであった。展示箇所は本双書第3巻「聴覚心理学」(住宏平、松本金寿共著)で、松本の書込を随所に見ることができる。(松本文庫)

松本金寿[ほか]『教育心理学』(現代心理学双書 第7巻)』 新読書社, 昭和49年(1974)

 昭和47年(1972)8月に開催された第20回国際心理学会議に参加した松本は、当時の世界の心理学界の動向にふれ、わが国の心理学界のあり方に対し深い反省の念をいだいた。すなわち、その当時日本では全く等閑視されていた社会主義諸国に、厖大な心理学的業績が蓄積されており、しかもこれら社会主義諸国の心理学は、これまで日本の心理学界がモデルと考えていた欧米の心理学そのものの存在根拠の批判の上に樹立された先進的なものだったからである。松本はこの反省を機に、「現代心理学双書」全10巻を編集することを決意した。展示箇所は本双書の第7巻「教育心理学」の松本が執筆した部分であり、松本自身による数多くの書込が見られる。(松本文庫)

城戸幡太郎『教育科学七十年』, 北大図書刊行会, 昭和53年(1978)

 城戸幡太郎(1893~1985)は松本の恩師で、東京大学において児童心理学、言語心理学の教えを受けた。本書には、著者である城戸の、東京帝国大学文学部心理学科の選科修了生で、正規の卒業生でないこと、心理学を土台にして教育学・社会学などの多様な分野に踏み込んだ学際的研究者であること、そして、なによりも戦前から一貫して民間教育運動を進めてきた研究者であるという人柄が色濃く反映されている。 城戸は若い頃、自分自身の体験から、日本にも東大にも学問らしい教育学はないと考え、そこから、教育の科学的研究あるいは科学としての教育学の確立の必要性を痛感した。そして教育学をどこまでも事実学として創造していくべきだとして、実践家と専門家との共同研究の場としての「教育学研究会」を組織し、そこでの研究討論を通じて、痛烈な教科書批判やユニークな教育改革論を展開し、下からの教育改革運動を積極的に推進した。本書は、著者から松本へ献呈された本であり、「児童学研究会」に関連した箇所に、松本の名前が散見される。(松本文庫)

エス・エリ・ルビンシュテイン[著]『一般心理学の基礎』
  С.Л.Рубинштейн,”Основы общей психологии” Москва : Полиграфкнига [1982]

 松本は早くから児童の言語発達の考察を試みるなど発達心理学の研究を進めた。他方,ソビエトや東欧の心理学の紹介にも取り組み,本学教育学部に発達心理学研究の基礎を確立した。
 ソビエト心理学の最初の体系化といわれる本書においては,当時のすべてのソビエト心理学者たちの科学的研究活動の総決算が行われ,世界の心理科学の大系の中でソビエト心理学が占めている位置を事実の上で示した。ルビンシュテインは,本書により1941年度にスターリン賞を受けた。(松本文庫)

松本金寿[著] ; 松本金寿教授古稀記念事業会編『光風 : 松本金寿先生遺稿』
[松本金寿教授古稀記念事業会] 1985

 本書は、松本の古希記念事業の一つとして企画されていたものであり、本来ならば「心理学五十年」というタイトルで十年前に刊行されるべきものであったが、松本の完全主義のために刊行がのびのびになっていた。そのうち、松本はあとひと月で満80歳を迎えられるという昭和59年(1984)6月22日に突然この世を去ってしまったため、本学で松本の薫陶を受け、首都圏にあって心理学の分野で活躍していた門下生が中心になって刊行したものである。内容は、松本の研究活動のそれぞれの時期における代表的な研究論文4編と、昭和30年(1955)10月から11月にかけて『河北新報』に掲載された随筆からなる。(松本文庫)

17.矢島文庫 第10回常設展 出展

矢島玄亮著『徳川時代〈出版者/出版物〉集覧』正・続・準備版

 日本の近世に出版された書籍を可能な限り網羅し、五十音順に配列した書肆ごとに表示したもの。東北大学附属図書館所蔵の狩野文庫や古典籍をはじめ、各地の資料保存機関の蔵書目録など約40種類をもとに、書名・刊行年・出典(数字で示される)を記している。1968年に「準備版」として謄写版100部を作成したところ反響をよび、文部省科学研究費補助金(研究成果刊行費)の助成を得て、増補訂正の上で刊行された。正編(本文269ページ)に収録された出版者は約3.200名、出版物は17.000点に及び、さらに書名と著者の索引を付す。続編(本文101ページ)は目録14種分を増補している。(矢島文庫)

矢島玄亮著〔参考資料シリーズ〕 79冊

 矢島は参考調査業務を長い期間担当したが、当時はまだインターネットは使えず、各種データベースも充実していなかった。そうした環境の中で矢島は、作業を効率化するため大量の検索用資料を作成し関係者の間に配布した。それらは大いに内外の研究者を裨益し、また重宝された。ここに展示するのは、そうした資料の一部である。(矢島文庫)

東北大学附属図書館編『展観目録』

 近年、大学図書館では公開事業に力をいれる傾向にあり、各地で市民を対象とする展示会が盛んに催されている。東北大学附属図書館では、そうした動向があらわれる以前から片平キャンパスにおいて、小規模ながら月例展示を開催し(昭和35~47年)、仙台市民の関心をよんでいた。それを可能としたのは、狩野文庫を中心とした豊富な蔵書群と、矢島に代表される熱心な職員の存在であった。そうした展観目録の一部を展示する。(矢島文庫)

『船乗ぴろうと・蛮暦』 (謄写版、1963年)

 東北大学は、初代図書館長林鶴一が自らも収集するなどして、日本有数の天文和算関係書の一大センターとなった。その伝統の最後に位置する理学部講師の平山諦(1904-1998)は、本学を中心に天文和算関係書の調査を精力的に行い、多くの成果を残している。本書もその一つで、文部省科学研究費補助金により希少な写本二点を翻刻したものである。本書の解説によると、『船乗ぴろうと』は延宝3年(1675)に小笠原諸島北部を初めて調査した嶋谷市左衛門の航海書の一写本、『蛮暦』は西洋の暦と日本のそれの比較を内容とする。前者は底本不明、後者の底本(水戸彰考館本)は昭和20年に戦火で消失しているため、翻刻でありながら史料的価値は高い。本書は平山から矢島への献呈本である。(矢島文庫)

20.柳瀬文庫 第11回常設展 出展

鳩山秀夫『日本民法總論 全2巻』 岩波書店,1923-1924

 柳瀬は本書を随筆『法書片言』の中で「法学関係の書物で、私が何かの意味で開眼せられ、従って影響を受けたというか、天性の傾向を助長せられたというか、とにかくできるならば自分もこういう真似がしてみたいと思わせられた書物」の内の一冊としてあげている。柳瀬は「完成した学問は或る一つの観点からすべての物を眺め、或る一つの立場から一切の問題を解明したとき、始めて言える」とし、この本はその意味で「法律の学問の一つの流派の完成した形を示すものとして、今後とも法律を勉強しようとする者は一度は通り抜ける必要のある古典」であると言っている。

美濃部達吉『憲法撮要 訂正再版』 有斐閣,1924

 本書の根本思想は、国家は法人で天皇はその機関であるという、いわゆる天皇機関説であり、従って国家法人説と議会主権との二つである。この二つの根本思想から割り出して旧憲法上の一切の問題を解いて見せたのが本書である。著者の美濃部達吉は柳瀬の恩師にあたり、柳瀬は概念の明確さとその概念を駆使して結論に導いて行く論理の明晰さから、本書に強く惹きつけられた。鳩山秀夫『日本民法總論』と共に、本書も「法律を勉強しようとする者は一度は通り抜ける必要のある古典」であるとしている。

柳瀬良幹『行政法の基礎理論』 弘文堂書房,1940-1941

 柳瀬は東大では憲法を専攻していたが、東北大学で行政法を専攻していた鈴木義男が退職し、後任となった関係で、行政法の就職論文を書くことになった。その最初の論文「公物の所有権」(国家学会雑誌47巻2号)をはじめとして、行政法の理論に関係あるものをとりまとめた最初の論文集が本書である。柳瀬はその序文において「学問の任務は既に真と認められた命題から下って日常の問題を解決することよりも寧ろ遡ってこれらの命題について反省し、その真と考えらるる所以の根拠を吟味し、その限界と要約とを明快にすることにあり、これによってのみ学問の進歩は期し得らるるものである」と述べており、これが柳瀬がその後、一生をかけて追求する研究テーマの一つとなった。

柳瀬良幹『公用負担法 改訂版』法律学全集第14巻 有斐閣,1962

 公用負担法に関する体系的な著作としては、第二次大戦前の昭和11年(1936)に日本評論社から出版された、柳瀬の恩師である美濃部達吉の著作があるだけで、その間憲法も変わり、土地収用法も全面改正を受けた。さらに、戦後、電源開発、高速道路の開設、新幹線の新設など、用地の買収の問題が多くなり、土地収用の必要度も以前よりはるかに多くなった。そしてこの問題は公益と私益とが最もはっきりした形で衝突するだけに、問題も複雑多岐にわたる。それだけに本書の初版が出た昭和35年(1960)当時、新しい体系書の出現が多くの関係者から待望されていた。 柳瀬は、本書の五分の三は、土地収用法に充て、なかでも損失の補償に重点を置いて、学説判例を批判し、精緻な理論構成のもとに、独自の見解を披瀝している。

柳瀬良幹『行政法教科書 再訂版』 有斐閣 1969
柳瀬良幹『行政法講義』 良書普及会 1951

 2冊とも柳瀬が行政法の教科書として執筆したものであるが、同じ教科書でありながらまるで違った書き方がなされている。『行政法教科書』はいわゆる教科書らしい教科書であるのに対し、『行政法講義』は口述式で非常に親しみやすい教科書である。柳瀬は後者について「かねて、法律が改正になっても書きかえなくてもいいような、理屈だけの本を書きたかった」と述べている。 柳瀬の行った講義は、どちらかというと「行政法講義」の調子に近く、落語のような講義であった。実際、一度学生に、落語の稽古をしたことがあるのかと問われたことがあった。

柳瀬良幹『法書片言 : 心の影』 良書普及会,1969

 柳瀬には、専門の行政法の著作の他に、『ヨーロッパところどころ』(有信堂1957年)、『幽霊の正体』(良書普及会1979年)、『月々録抄』(柳瀬良幹先生を偲ぶ会1986年)と本書の、合わせて4冊の随筆集がある。行政法の著作においては、非常に理性的で慎重である柳瀬が、随筆においては、かなりストレートな形で心情を表している。本書のタイトルも、当初は随筆集なので、「心の影」とつけたかったのだが、版元からそれでは売れない、何とか「法」という字を入れてくれというので副題になってしまったいう経緯がある。

小嶋和司, 藤田宙靖[編者代表]『行政行為と憲法 : 柳瀬博士東北大学退職記念』 有斐閣,1972

 柳瀬は、昭和44年(1969)3月に東北大学を退官し、同年4月には上智大学法学部教授に就任した。同時に東北大学の名誉教授の称号を受けた。本書は柳瀬の同僚や教え子らがその退官を記念して編んだ論文集である。中でも、藤田論文は、柳瀬行政法理論の意義を改めて明らかにしている。

22.和田文庫 第11回常設展 出展

和田佐一郎「ツガン・バラノフスキーの恐慌論」『研究年報「經濟學」』 第1号,1934

 本論文は東北帝国大学経済学会の機関誌である『研究年報「經濟學」』の第1号の巻頭論文として掲載されたものである。和田の専門は、恐慌論および恐慌史であったが、この論文をはじめとした関連論文を、長逝する昭和19年(1944)まで合わせて6編を同誌に発表している。(本館2号館書庫)

サー・ウィリアム・ペティ『政治算術』 1691
(Sir William Petty, "Political arithmetick." London, Printed for Henry Clavel and Robert Mortlock 1691)

 近代経済学および統計学の創始者ペティ(1623-87)の1670年代における主著で、『アイルランドの政治的解剖』(1691)とほぼ同じ時期に執筆された。その目的は、1672-74年の第3次蘭英戦争におけるイギリスの危局に際し、この国の国力がオランダ、フランス両国のそれに比べて劣らぬどころか、卓越しているということを立証することであった。本書でペティは、「政治算術」という科学的方法を提唱しており、それはいっさいの論議を「数、重量、尺度」で、つまり数字を用いて表現し、主観的な判断を排除し、客観的な基礎をもつ諸原因のみを考察することを特徴とする。後年、マルクスは本書と前述の『アイルランドの政治的解剖』と一まとめにして、「経済学が独立した科学として分離した最初の形態」の著作だと述べている。(貴重書庫)

ジョン・ロック『貨幣利子並に貿易に関する論文集』 1696
(John Locke, "Several papers relating money, interest and trade, &c...." London, Printed A. and F. Churchill 1696)

 著者のロック(1632-1704)はイギリスの哲学者であり、政治思想家。経験論哲学を体系化し、自然権思想を主張した。労働に基づく私有財産の不可侵を論証し、ブルジョワジーの台頭に思想的基盤を与えた。経済思想上ではペティとならんで、前期重商主義から後期重商主義への過渡期の思想家として、重要な役割を果たした。 本書には、ロックの主著である『貨幣価値引き上げおよび利子引き下げの結果に関する考察』(1692)と『貨幣価値引き上げに関する再論』(1695)等が収録されている。前者は、重商主義の理論家であり、イギリス東インド会社の理事や総裁などとして活躍したチャイルド(1630-1699)が、1668年に法定利子率の引き下げを主張したのを批判して書かれたもので、ここでロックは、経済的自由主義の立場にたって利子率を貨幣の需給関係に自由にまかせるべきだと主張している。後者は前者の続編で、国庫の役人であったウィリアム・ラウンズが、1695年に提出した貨幣の名目価値の引き上げを主張する報告を批判したものである。(貴重書庫)

リカード『経済学および課税の原理』 1817
(David Ricardo, "On the principles of political economy, and taxation." London, John Murray 1817)

 著者のリカード(1772-1823)はイギリスの経済学者で、学説史上アダム・スミス(1723-1790)によって創設された古典経済学の完成者であるといわれている。本書は彼の経済学上の主著であるが、単にそれだけではなく、古典経済学の完成を記念する金字塔として、まさに古典としての不朽の意義をになうものである。展示の写真は初版を撮影したものであるが、第2版は1819年、第3版は1821年に出版されている。(貴重書庫)

カール・マルクス『経済学批判』 第1分冊1859
(Karl Marx, "Zur Kritik der politischen Oekonomie. Hft.1." Berlin, Franz Duncker 1859)

 1859年にベルリンで刊行された『経済学批判』の初版本である。第1分冊とあるのは、この続編を刊行する構想が、当時のマルクスにあったからである。しかし、その構想の変化によって、続編が刊行されることはなかった。 初版本には、内容目次の次のページに正誤表が印刷されており、14箇所の訂正が記載されている。この正誤表は従来の『マルクス・エンゲルス全集』(Werke版)や、現在も刊行中の新『マルクス・エンゲルス全集』(新MEGA版)にも記載されていない。そのページをここでは実見することができる。(貴重書庫)

エンゲルス『オイゲン・デューリング氏の科学の変革』 初版 1877-1878
(Friedrich Engels, "Herrn Eugen Duhring's Umwalzung der Wissenschaft. 1." Leipzig, Genossenschafts-Buchdruckerei 1877-1878)

 『オイゲン・デューリング氏の科学の変革』(『反デューリング論』)は、1870年代のドイツの社会民主党、労働運動内に影響力をもったデューリングの所説を批判するために、エンゲルスが執筆(一部マルクス執筆)した著作である。これは『フォールヴェルツ』(ドイツ社会民主党中央機関紙)に、第1篇『オイゲン・デューリング氏の哲学の変革』、第2篇『オイゲン・デューリング氏の経済学の変革』、第3篇『オイゲン・デューリング氏の社会主義の変革』として、1877年から1878年にわたって掲載された。1877年7月にはその第1篇部分が『オイゲン・デューリング氏の科学の変革。Ⅰ、哲学。』の標題で刊行され、1878年7月には第2篇と第3篇とを収録したものが『オイゲン・デューリング氏の科学の変革。Ⅱ、経済学。社会主義。』という標題で刊行された。本学附属図書館が所蔵するのは、この2冊を合本にしたものである。1878年7月には1巻本の第1版が刊行されている。 この著作の3つの章に手を加えて独立に発行されたのが、よく知られたエンゲルスの小冊子『空想から科学への社会主義の発展』である。(貴重書庫)

ツガン・バラノフスキー『英国恐慌史論』 1901
(Michael von Tugan-Baranowsky "Studien zur Theorie und Geschichte der Handelskriesen in England." Gustav Fischer 1901)

ツガン・バラノフスキー『マルクス主義の理論的基礎』 1905
(Michael Tugan-Baranowsky "Theoretische Grundlagen des Marxismus." Dunker & Humblot 1905)

 ツガン・バラノフスキー(Tugan Baranovskiy, Mikhail Ivanovich 1865‐1919)はウクライナ、ハリコフ生まれ。はじめ自然科学、法律学を学び、のちに経済学に転じる。ペテルブルク大学講師、キエフ大学教授を歴任。展示の2作が主著である。 彼の恐慌論は、産業循環論史上の嚆矢とされている。「社会的生産の比例的配分のもとでは、市場の拡張のためには、社会が自由にする生産諸力以外になんらの制限もない」として、恐慌を生産諸部門間における生産の「不比例」から説明すべきであるとした。また、資本主義の発展とともに資本蓄積の制限的傾向が増大し、社会主義へ移行する経済的条件が成熟していくとするいわゆる「崩壊論」に対して、「経済上の矛盾」から社会主義は実現するのではなく、「資本主義経済が、それ自体が自己目的であるはずの労働する人々を単なる経済上の一手段にする」という矛盾、言い換えれば「資本主義の経済原理と基本的倫理規範との間の矛盾」を労働者が意識し、解消しようとする実践によってのみ実現されると主張した。この主張は19世紀末の「修正主義論争」において、ベルンシュタインらの「修正派」に有力な論拠を提供した。 和田はツガン・バラノフスキーに関し、2点の論文を『研究年報「經濟學」』に発表しており、それらを執筆した際に書き込まれたと思われるアンダーラインや字句が『マルクス主義の理論的基礎』に残されている。(和田文庫)

23.宮田文庫 第13回常設展 出展

Karl Barth. Der Romerbrief. Bern, 1919

 カール・バルト著『ローマ書』の初版。初版は、当時まだ著者が無名だったため、引きうける出版社を捜すのに苦労し、わずか1000部しか刷られなかった。当初スイスの小さな出版社では300部しか売れなかったが、たまたまミュンヘンのChristian Kaiser社の目にとまり、残部700部にKaiser社の印を捺してドイツ国内で完売し、一躍バルトの存在が知られゲッティンゲン大学に新設された改革派神学の教授として招聘された。

Karl Barth. Der Romerbrief. Munchen, 1922

 カール・バルト著『ローマ書』の第二版。ゲッティンゲン大学教授に就任する直前に脱稿した。バルトは、旧版から「石ころ一つも残っていない」全面改訂版であることを言明している。バルトの名前をヨーロッパに轟かせることになったのは、この第二版に他ならない。

Karl Barth. Theologische Existenz heute!. Munchen, 1933.

 カール・バルト著『今日の神学的実存』の初版本。後の同名双書の第一冊として刊行されたもの。バルトはこの一冊をヒトラーに送りつけた。トーマス・マンの『日記』には、当時、亡命先のスイスでこの小冊子を読んだ感動と共感が記されている。

Karl Barth. Rechtfertigung und Recht. [Zurich], 1938.

 カール・バルト著『義認と法』の初版本。バルトが新しく始めたシリーズ「神学研究」の第一冊。『ローマ書』以後、バルトはローマ書13章に関する新しい解釈によって、カルヴァンをも超えて、不法な国家権力に対して闘うことを根拠づけた。ボンヘファーの抵抗行動にも大きな影響を与えている。

Karl Barth. Gotteserkenntnis und Gottesdienst. [Zurich], 1938.

 カール・バルト著『神認識と神奉仕』の初版本。イギリスのアバディーン大学で行ったギフォード講演の記録。この中で、キリスト教徒であっても、暴君に反対し実力で抵抗することもあり得ると説いた。

Karl Barth. Christengemeinde und Burgergemeinde. Munchen, 1946.

 カール・バルト著『キリスト教共同体と市民共同体』の初版本。第二次世界大戦後、バルトの画期的な政治思想を示すドキュメントである。「バルメン宣言」第5テーゼの積極的解釈によって社会民主主義の方向を根拠づけたもの。

〔ドイツ教会闘争資料〕

 第二次世界大戦の終結後、ナチス党の尖兵となっていた「ドイツ的キリスト者」の思想と行動に対する批判が、「教会闘争」として表出した。1934年5月にバルメン=ゲマルク教会で公表された「バルメン神学宣言」は、その闘争の最高の成果である。このファイルに収められているのは、宣言の本文を教会員たちに報せるためにタイプライターで作成されたオリジナル資料や、告白教会の会員証などである。

Bekenntnissynode der Deutschen Evangelischen Kirche Barmen 1934, [Wuppertal, 1934].

 『バルメン宣言決議集』の1934年版オリジナルテキスト。ナチスの尖兵となった「ドイツ的キリスト者」の思想と行動を批判する「反ナチ教会闘争」の金字塔と称される。

Das Zeugnis eines Boten : Zum Gedachtnis von Dietrich Bonhoeffer, Genf, 1945.

 『ある使者の証言-ディートリヒ・ボンヘッファーの追憶のために』。ボンヘッファーは、今日、世界的に最もよく知られたドイツの代表的神学者である。彼は反ナチ抵抗運動に加わり、ゲシュタポに逮捕され、1945年4月、アメリカ軍進攻の直前にチェコ国境近くの強制収容所で刑死した。この小冊子は、ジュネーヴの世界教会協議会により刊行され、同じ年のうちに初めて殉教の死を世界に伝えた書である。

Martin Niemoller. Reden 1958-1961. Frankfurt/M, 1961.

 ドイツのルター派神学者マルティン・ニーメラーの講演集。ニーメラーは第一次世界大戦中に潜水艦長として活躍し、その後神学を学び牧師となった。本書は、第二次世界大戦後にドイツの罪責告白を国民に訴え続け、さらにドイツ核武装に反対し世界平和を訴えたもの。扉に、宮田に対する献呈辞を含む署名がある(「1960年5月13日に東京で行われた対話に対する心からの感謝を込めて-それは理解に充ちた話し合いであり、望むらくはお役にたつものでありたい」)。この時の対談「現代世界における政治と宗教」は、『世界』(岩波書店)1966年9月号に発表され、後に宮田著『日本の政治宗教』(朝日選書)に収録されている。

Martin Niemoller. Vom U-Boot zur Kanzel. Berlin, [1934].

 マルティン・ニーメラーの自伝。第一次世界大戦の後、潜水艦長から牧師になるまでの変転を描く。

Martin Niemoller. Dennoch getrost. [Zurich], 1939.

 マルティン・ニーメラーの説教集。ニーメラーは反ナチ教会闘争の指導者として、1937年7月に反逆罪裁判に勝訴後、ゲシュタポに逮捕され、ヒトラーの「特別囚人」として強制収容所に入れられた。この説教集は、逮捕される直前2年間に、彼がベルリン・ダーレムの教会で行った説教を集めたもので、ドイツの教会闘争を支援するスイスの救援委員会により刊行された。

内村鑑三著『英和独語集』 岩波書店,大正11年

 内村鑑三が雑誌『聖書之研究』の冒頭に掲げた英和対照文を集めた書。20世紀を代表するドイツの神学者Karl Heim(1874~1958)が北京のキリスト教国際会議に参加した折に日本にも立ち寄り、内村と親交を結んだ際に贈られたため、内村の献呈辞と署名がある。1962年秋に、留学したドイツからの別れの記念に、Heim夫人から贈られて宮田の所蔵に帰した。

Kanzo Uchimura. Wie ich ein Christ wurde. 4te Aufl, Stuttgart, 1911.

 内村鑑三著『余は如何にして基督信徒になりし乎』のドイツ語版。内村の思想を海外に伝え反響の大きかった書。

内村鑑三著『羅馬書の研究』 向山堂書房,大正13年

 内村は大正10年1月から11年10月までの約2年間に、60回にわたって東京の私立大日本衛生会講堂でローマ書の講義を行った。畔上賢造がその記録を基礎として作成し、内村が「修補」して『聖書之研究』誌上に連載されたもの。「例言」には「内容は大部分内村」「文章は大部分畔上」と記される。本書は両者の署名を持つことから、謹呈本であったと思われる。

Johannes Rau. Geschichte in Portrats. Holzgerlingen, c2001.

 『ポートレートによる歴史』。前ドイツ連邦大統領ヨハネス・ラウによる最近の著作。宮田が2002年8月26日ベルリン訪問の際、小さなセレモニーの席上、ベルリン=ブランデンブルグ領邦教会監督ヴォルフガング・フーバー氏を通じ贈呈された。本の扉には「キリスト教信仰とアジア的思想との間、ドイツの伝統と日本の現実との間を橋渡しする使者宮田光雄教授へ感謝の挨拶とともに ヨハネス・ラウ」という著者からの献呈の辞が記されている。  2004年5月、宮田はドイツ連邦に対する特別の功績を認められて、同大統領から功労勲章大功労十字章を授与されている。

24.ケーベル文庫 第14回常設展 出展

【ケーベルの著作】

”A catalogue of the Koeber collection." [Sendai], Tohoku Imperial University Library, 1943
(『ケーベル文庫目録』)

 本学所蔵のケーベル文庫の目録で、昭和18年(1943)3月に作成された。ケーベルは第一次大戦のため帰国を果たせず、大正12年(1923)6月14日に日本で亡くなったが、遺言で蔵書は12年間起居を共にし、最も身近な弟子であった久保勉に、楽譜等は先生の音楽上の教え子であった橘糸重に遺した。久保は昭和4年(1929)に、本学法文学部の古典語担当の助教授として就任、昭和19年(1944)定年退官となった。その間、ケーベルの蔵書は、哲学関係のものは久保の研究室に置いて使用し、それ以外のものは久保の東京の親戚に預けられた。ところが、昭和17年(1942)のそろそろ東京の空襲が激しくなろうとしていた頃、その預けていた書籍を引き取らなければならなくなったが、安全な疎開先が見つからなく困っていた。その折、当時本学の図書館長であった小宮豊隆から東北大学で譲り受けてもいいという申し出があり、以上のような経緯で昭和17年3月、ケーベルの蔵書1,999冊が本学の蔵書に加わることになった。

Raphael von Koeber, "Kleine Schriften." 3 Bds. Tokyo, Iwanami 1918-1925 .

ケーベル[著] 深田康算、久保勉共訳『ケーベル博士小品集』等 岩波書店  1919-1924

 大正3年(1914)第一次大戦勃発のため、ドイツ行きを果たせなかったケーベルは、船出までの1週間のつもりで友人アルツール・ウィルムの官邸に腰を下ろした。そこは横浜のロシア領事館の一室で、ケーベルは読書と執筆に従事しながら欧州に再び平和の訪れる日を待っていた。この9年間のいわゆる「蝸牛生活」の間に、ケーベルは『思潮』、『思想』、ならびに『制作』などの雑誌にしばしば随筆を掲載した。それらをまとめたのが"Kleine Schriften"3巻で、和文では『ケーベル博士小品集』、『ケーベル博士続小品集』、『ケーベル博士続々小品集』(第1巻深田康算, 久保勉共訳、第2,3巻久保勉訳)である。これらの小品集は読者に多大な感銘を与え、原文の抜粋は高等学校や大学のドイツ語教科書として度々出版された。

Raphael von Koeber, "Lectures on aesthetics and history of art." Tokyo, 1898.
(ケーベル『美学美術史講義』)

 1893年から、ケーベルは東京帝国大学で「美学」の講義を行い、漱石もこれを聴講した。本書はその講義を私家版回覧用に印刷したものである。ここには、「美」や「芸術」に「解脱」を読み込み、「愛」、「同情」、「アガペー」、「エロース」の実現を見るという、最も日本的なものと思われている、日本近代芸術思想の基本的な芸術理解が端的に示されている。

Raphael von Koeber, "Schopenhauer's Erlosungslehre." Leipzig, Haacke, n.d.
(ケーベル『ショーペンハウアーの解脱論』

ケーベルは1880年ハイデルベルク大学にショーペンハウアーに関する論文"Die Lehre von der menschlichen Freiheit."を学位論文として提出した。その後その中のシェリングに関する部分に多少訂正を加えて印刷したのが本書である。

Raphael von Koeber, "Das philosophische System Eduard von Hartmann's." Breslau, Koebner, 1884.

 ケーベルはシュヴェーグラーの『哲学史』第11版のショーペンハウアーに関する章を増補した際に、ショーペンハウアーの説を徹底させ、それを超越した者としてエドゥアルト・フォン・ハルトマンに論及した。これが縁となってケーベルとハルトマンは知己となり、彼の勧めもあって1884年ケーベルは本書を出版することとなった。ハルトマンは当時哲学界の最高峰として世界に著名であり、東京大学の哲学の講師として人選の依頼を受けたときケーベルを推薦、このことがきっかけとなりケーベルが来日することになった。

【愛読書など】

"Die Bibel : oder die ganze Heilige Schrift des Alten und Neuen Testaments."Bielefeld, Velhagen und Klasing, 1859.
(『聖書』)

 聖書はケーベルが無人島に配流の身となったとき、携帯したい書物の筆頭に上げている。とりわけルカ伝福音書第24章の「我らと共に留れ、時夕に及びて、日も早暮れんとす」の節を「聖書の中でも最も心を動かす箇所の一つである」として、「これあらゆる祈祷の中で最も美しいまた最も敬虔なる、そうしてそれなくしては私がもはや眠りに就くを欲せざる祈りである」と述べている。そして、ケーベルの葬儀においては、遺言通り僧侶を呼ばず、愛弟子であった久保勉がルカ伝のこの節と前後数節を朗読したのであった。

Thomas a Kempis, "De imitatione Christi."Paris, Leonard, 1697.
(トマス・ア・ケンピス『キリストに倣いて』)

 本書は、聖書と並んでケーベルが無人島に配流の身となったとき、最初に携帯したいと言った書物である。ケーベルの蔵書については、久保勉が「先生の蔵書の一般的特徴とも言うべきは、豪華版というようなものの一つも無かったことである。書物の内容については選り好みのあったが、製本や印刷や紙質などに対しては比較的無頓着であり、むしろ安価なもので満足しておられた。(中略)また先生は珍書とか初版本とかいうものにも大して興味がなかった」と述べているが、本書はその中でも珍しく比較的良い装幀の、しかも豆本である。

C.Hilty, "Fur schlaflose Nachte."Leipzig, Hinrichs, 1919.
(ヒルティー『眠られぬ夜のために』)

 本書はケーベルの愛読書の一つであり、多数の書込がある。ケーベルは自分の蔵書に読過の際注意すべき箇処にその重要度にしたがって、頁の左右の余白に黒鉛筆でNBとか、縦または斜に二本あるいは一本の線を引いたが、またそれが全章節に及ぶ場合には、章を示す数字の下に線を引くとか、節の初めに鉤形のしるしをつけるとかするのが常であった。さらにケーベルの蔵書には巻末の余白に注意すべき事項とその頁とが鉛筆でうすく書き込まれていることも多い。

"Platonis Dialogi : secundum Thrasylli tetralogias dispositi." 6vols. Lispiae, Teubneri, 1894-1907.
(プラトン『対話篇』)

 ケーベルは哲学、文学及び芸術において、単純なるものと幾分「古風なるもの」を最も好んだ。哲学に関しては「私のあらゆる形而上学的要求はつまるところ古代ギリシャ人によって充分に満足されるのである。その後の哲学はじつを言えば一種の贅沢品に過ぎない、―すなわち我らにして既にプラトンを有する以上は」と述べており、プラトンをとりわけ好んだ。プラトンの『対話篇』は愛読書の一つで、特に「クリトン」のソクラテスの言葉は繰り返し読まれた。

Imanuel Kant, "Kritik der reinen Vernunft ; herausgegeben von J.H.v. Kirchmann." 2. Aufl., Berlin, Heimann, 1870.
(カント『純粋理性批判』)

 ケーベルは本書を「非常に良い本でありまた幾多の美しい箇所を持っている。その乾燥なところにこそ一種のポエジーがあるとさえ言えるのだ。ただしかし、あれは普通に人の読むような態度ではいけない、むしろ小説でも読むつもりで読むといい。カントは彼を正しく読むものには助けになる。一般に我々は哲学書から教示とか、またはある重要な問題の解決とか、またはすぐにある秘密の啓示とかを期待してはならない。」と述べている。この言葉はケーベルが自分の立場をZwischen Philosophie und Dichtung(哲学と文学の間)としていたことを彷彿とさせる。

Johann Wolfgang von Goethe, "Faust : Eine Tragodie." Leipzig, Reclam, n.d.
(ゲーテ『ファウスト』)

 哲学では古代ギリシャとりわけプラトンを好んだケーベルであったが、詩に関しては、ホメロスを例外として、ギリシャやローマの詩人ではなく、ゲーテとシラーをとりわけ好んだ。ゲーテの『ファウスト』は、第1部はほとんど暗記するほどに読み込まれた。第2部は「完全無欠な文章」と絶賛されている。

H.C.Andersen, "Eventyr og historier." 5 Bind. Kjobenhavn, Gyldendalske, 1900-1905.
Bram Stoker, "Dracula." New York, Wessels, 1901.
(ストーカー『吸血鬼ドラキュラ』)

 本書は、1897年に発表された世界的に有名な怪奇小説である。ケーベルは、床についてから眠るまでの間、アンデルセンやテイークを読む以外に、一般に怪談風のものも読むのが好きであった。とりわけ本書をケーベルは愛読し、愛弟子の久保勉にも読むように勧めた。

【ケーベルと音楽】

ケーベル作曲、小松美沙子編『9つの歌』 音楽之友社 1992

ケーベル作曲『9つの歌』CD 音楽之友社 1998

 この歌曲の草稿は、弟子の一人である橘糸重に遺されたものである。彼女は先生没後の翌年に襲った関東大震災の時、他の品物を顧みず、何よりもまず先生の音楽上の遺産を救い出そうとして苦心し、後で親戚の人からそんなものよりもなぜもっと必要な衣類などを持出さなかったのかと言って非難されたり、笑われたりしながら、苦労して残した。そして昭和2年(1927)に謄写版刷りで出版したものを友人、知人に配った。この謄写版刷りの歌曲集が、橘糸重のピアノの弟子である岩波百合(岩波茂雄の長女)の手に渡り、ついで平成2年(1989)に岩波百合の姪にあたる小松美沙子の手に渡ったのである。  楽譜は1992年に音楽之友社から出版され、また、CDはケーベル生誕150年を記念して、1998年に作製されたもので 、どちらも小松美沙子の尽力によるものである。

Joseph Freiherr von Eichendorff, "Samtliche poetische Werke." 4 Bds., Leipzig, Amelang, 1883.
(アイヒェンドルフ『全集』)

 ケーベルは、ある日身の回りの世話をまかせていた久保勉にアイヒェンドルフの詩集を渡し、その中のTotenopferとDie Geistlichen Liederとを読んでみるように勧め、「シラーの詩は少しも音楽的でない。ゲーテのものはもっと音楽的だが、これも大してとは言えない。ハイネは遙かにもっと音楽的だ。最も音楽的なのはアイヒェンドルフの詩だ。それだからこそシューベルトは彼の詩の多くに作曲したのだ。それにアイヒェンドルフはゲーテにおいてさえ、またその他のものにおいて見出すことのできぬ独特無二のあるものをもっている。それだから我々は彼を知らなければならぬ。」と言った。ケーベルが作曲した『9つの歌』の一つはアイヒェンドルフの詩Vom Strande(岸辺から)に曲を付けたものである。

※参考出陳【ケーベルと漱石】

パネル「美学の起源」 筆記断片 [1893]

 漱石は小品『ケーベル先生』の中で「余が先生の美学の講義を聴きに出たのは、余が大学院に這入つた年で、慥か先生が日本へ来て始めての講義だと思ってゐる」と述懐しているが、この筆記断片は、ケーベルの美学講義を聴講した際、漱石が筆記した講義ノートの一部である。同じく本学所蔵の漱石文庫の「カントとシラー等美学の講義の筆記断片」も漱石が聴講し、筆記したケーベルの美学講義のノートである。図のノートの欄外の落書きのうち右頁は、講義しているケーベルを、また左の頁はケーベルの前任者のブッセを描いたのではないかと思われる。

切抜「ケーベル先生」 (上)(下)
(『朝日新聞縮刷版』明治44年(1911)7月16,17日)

 漱石は、明治44年(1911)7月10日、安倍能成とともにケーベル宅を訪問し、夕食をともにした。その際の独得の静かさをたたえた印象紀である本作を執筆し、それは7月16、17日付けの『朝日新聞』に掲載された。漱石が「文科大学へ行つて、此処で一番人格の高い教授は誰だと聞いたら、百人の学生が九十人迄は、数ある日本の教授の名を口にする前に、まづフォンケーベルと答へるだらう」と書いているように、ケーベルの「人格」を慕った学生は多かった。そしてケーベルの存在によって代表される「人格」や「教養」のあり方は、大正期知識人のメンタリティに広く一般化された。ケーベルは人文主義的教養の全体性が近代西洋の哲学、のみならず文化一般を理解する上でぜひとも必要なものだという信念を持っており、その信念を学生に伝えた。

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