貴重書展示「Il Tempio Vaticano e sua origine -ヴァチカンの大聖堂とその起源-」

カルロ・フォンターナ著 1694年初版本の展示と解説

開催期間: 2020年10月19日~10月30日

開催場所: 工学分館1階 Abelujo前

解 説 : 工学研究科都市建築学専攻 准教授 飛ヶ谷潤一郎先生

解 説 : 総合学術博物館 助教 小川知幸先生

主 催 : 附属図書館工学分館

協 力 : 青葉工業会

ポスター

はじめに

 附属図書館工学分館では代々受け継がれてきた1冊の貴重書があり、その出版年の旧さや形態の特殊性により異彩を放っていた。

 昨年度2019年に初めて調査が行われ、その貴重書が古典の1つであり、その受入の経緯からも、きわめて珍しいものであることがわかった。

 附属図書館工学分館では、これを研究に資するため、また東北大学の歴史や学問にも親しめるよう、なるべく多くの方々に披露することとし、展示を企画した。

 本展示は本学工学研究科 都市・建築学専攻准教授の飛ヶ谷潤一郎先生による「[資料紹介]東北大学附属図書館工学分館所蔵のカルロ・フォンターナ」(『東北大学附属図書館調査研究室年報』第7 号、2020年)を元に構成した。各解説は同文からの抄出である。

 また、「ヨーロッパ前近代の製紙と造本」は本学総合学術博物館助教の小川知幸先生による解説であり、SKK(仙台高等工業学校)に関する展示は青葉工業会(東北大学工学部同窓会)作成のパンフレットから関連箇所を展示した。

 なお、ヴァチカンの写真4点は飛ヶ谷先生ご提供のものである。

サン・ピエトロ広場

サン・ピエトロ広場

サン・ピエトロ大聖堂正面

サン・ピエトロ大聖堂正面

サン・ピエトロ大聖堂ドーム外観

サン・ピエトロ大聖堂ドーム外観

サン・ピエトロ大聖堂身廊部内観

サン・ピエトロ大聖堂身廊部内観

サン・ピエトロ大聖堂ドーム内観

サン・ピエトロ大聖堂ドーム内観


著者紹介

カルロ・フォンターナについて

Carlo Fontana

カルロ・フォンターナ

Public domain, via Wikimedia Commons

 カルロ・フォンターナ(Carlo Fontana、1638-1714)は、コモ湖周辺の石工の家系に生まれた。現在のイタリアとスイスの国境に位置するこの地域では、中世からコマチーニと呼ばれる優れた石工を多く輩出し、彼らは各地に赴いて大聖堂などの建設事業に関与した。1653 年頃にローマに移住して修行を始め、同じ地域出身の建築家の下で働いた。サンタ・マリア・デッラ・パーチェ聖堂ファサードとその前面の広場(1665-68 年)、ヴァティカン宮殿のスカーラ・レージア15(1663年)やアリッチャのサンタ・マリア・アッスンタ聖堂とその正面のパラッツォ・キージ(1662頃-70年)などの建設に関与した。

 フォンターナが建築家として独立してから最初に手がけた作品は、サン・ビアージョ・イン・カンピテッリ聖堂ファサードである(1665年頃)。現在ではサンタ・リータ・ア・カッシャ聖堂と呼ばれるこの聖堂は、最初カピトリヌスの丘のふもとに建てられたが、1940年にカピツッキ広場に移されている。

 フォンターナの代表作であり、後世にも大きな影響を及ぼしたのは、サン・マルチェッロ・アル・コルソ聖堂ファサード(1682-83年)である。

フォンターナの事業と『ヴァティカンの大聖堂とその起源』*

 フォンターナはローマの聖堂における多くの礼拝堂の建設にも関与した。サンタンドレア・デッラ・ヴァッレ聖堂ジネッティ家礼拝堂(1671-84年)や、サンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂チーボ家礼拝堂(1682-84年)、サン・ピエトロ大聖堂洗礼用礼拝堂(1692-98年)、サン・セバスティアーノ聖堂アルバーニ家礼拝堂(1706-12年)などが挙げられる。他にも墓や祭壇、噴水、祝祭時の仮設建築、さらには彫像ですら彼の工房で制作され、17世紀末期から18世紀初期にかけて行われた建設事業で、フォンターナと関わりのないものはないといってもよいほどである。

 『ヴァティカンの大聖堂とその起源』は、1680年に教皇インノケンティウス11世(在位1676-89年)に執筆を依頼されてから、1694 年に出版された。フォンターナはローマの水道の管理や整備のほか、サン・ピエトロ大聖堂ドームの構造上の安全性の調査などにも関与したことがあるので、こうした技術面における研究成果も多くの図面とともに盛り込まれている。

 フォンターナは執筆の途中から自分の計画を実現させるのは難しくなったと悟り、充実した記録を残すことで正当性をアピールしておきたかったとも読みとれる。彼の計画は実現性を度外視した空想的なものでは決してなく、既存の建物をできる限り利用しようと試みた点は高く評価されてよいだろう。

*「ヴァティカン」の表記は出典のママとする。

 

展示図書について

フォンターナの遺産

 サン・ピエトロ大聖堂の建築家とは、前近代の西洋においては最高の建築家であったことを意味する。カルロ・フォンターナが残した建築作品は、かつて同じ地位にあったブラマンテやミケランジェロ、ベルニーニといったデザイナーの作品に比べると、明らかにレベルは下がる。一方技術者としては、同族のドメニコ・フォンターナによるオベリスクの移設や、ブルネレスキのドームのような大事業を手がけることはなかったとはいえ、大聖堂の基壇やドームの構造上の課題にも取り組んでいることから、当時の建築家のなかでは優秀であったといってよいだろう。

 しかしながら、フォンターナがこうした偉大な先達よりも優れた才能を発揮したのは、建築書という著作の分野であった。『ヴァティカンの大聖堂とその起源』は、ウィトルウィウスを手本としたアルベルティやセルリオ、パラーディオなどの建築書とは大きく内容が異なり、知名度では劣るかもしれないが、18 世紀以降の建築書に大きな影響を与えた。というのも、フォンターナはサン・ルカ・アカデミーの会長という建築教育の面における権威者だったからでもあるが、確かに不動産である建物よりも、移動や大量生産が可能な銅版画の図版が掲載された建築書のほうが、教材としては有効であることは間違いない。そして、その1694 年の初版本がどういった経緯によるものか、現在工学分館に所蔵されているのである。

[写真]  Il Tempio Vaticano e sua origine

Il Tempio Vaticano e sua origine

ヴァティカンの大聖堂とその起源

Carlo Fontana 1694

東北大学附属図書館工学分館所蔵

[写真] Il Tempio Vaticano e sua origine

アルファラーニの平面図を利用したネロのキルクス、新旧のサン・ピエトロ大聖堂平面図

Carlo Fontana 1694

東北大学附属図書館工学分館所蔵

『ヴァティカンの大聖堂とその起源』の内容

第一書:ローマが栄えていた時代のヴァティカンにおける注目すべきことについて。この有名な大聖堂の代議員で建築家である騎士カルロ・フォンターナによる解説

 第二書以降に現れる寸法に関する凡例(古代ローマから使われている単位「パルモ」についての解説等)と、サン・ピエトロ大聖堂建設以前のヴァティカンの地理や歴史について述べられている。

第二書:取り壊されたヴァティカンの旧バシリカについて。この有名な大聖堂の代議員で建築家である騎士カルロ・フォンターナによる検証と解説

 初期キリスト教時代の旧サン・ピエトロ大聖堂について論じられている。旧大聖堂(旧バシリカ)は、新しい大聖堂が1506 年に着工されるにしたがい、アプシスの部分から東に向かって順に取り壊され、フォンターナの時代にはその痕跡は地上には残されていなかった。そのため掲載された図版は、おもに旧大聖堂の平面図や断面図からなる。

第三書:ヴァティカンのオベリスクの移設について。この有名な大聖堂の代議員で建築家である騎士カルロ・フォンターナによる新たな図解

 カルロの一族である建築家ドメニコ・フォンターナが、執筆時期のおおよそ100年前に手がけたオベリスクの移設について論じられている。この時期、オベリスクは聖堂の正面広場などに巡礼者にとっての目印として設置されるようになった。サン・ピエトロ大聖堂はローマ市の西端に位置し、東側が正面となるので、オベリスクも東側にあったほうが好都合である。しかし、オベリスクは巨大な一本石でつくられているため、移動することは容易ではない。ドメニコはさまざまな建設器機を駆使することで、この難事業を見事に成功させた。

第四書:ヴァティカンの大聖堂前面にあるポルティコ(柱廊玄関)と広場について。この有名な大聖堂の代議員で建築家である騎士カルロ・フォンターナによる縮尺図と解説

 既存の大聖堂前面のポルティコ(柱廊玄関)と台形と楕円形の広場に加えて、フォンターナが計画した広場の増築について論じられている。

第五書:ヴァティカンの大聖堂とその起源について。この有名な大聖堂の代議員で建築家である騎士カルロ・フォンターナによる縮尺図と解説

 第五書のタイトルは本書のタイトルと同じである。

 新しい大聖堂の建設過程や、建物の各部に関する具体的な説明が記されている。ルネサンス以降のサン・ピエトロ大聖堂の建設は、西側の内陣から東側のファサードや広場へと進められていったが、フォンターナの説明は建設年代の順ではなく、第五書は第四書からの続きして参拝経路のように入口から順に説明され、最後に再び広場へと戻ってゆく。冒頭は大聖堂全体の眺めから始まる。

第六書:ヴァティカンの大聖堂とソロモン神殿の建設費に関する資料。この有名な大聖堂の代議員で建築家である騎士カルロ・フォンターナによる解説

 サン・ピエトロ大聖堂とソロモン神殿(現エルサレム、神殿の丘にあった第一神殿)が比較されて論じられている。ソロモン王は中世以降も賢明な建設者の典型と見なされたため、ソロモン神殿はさまざまな形で、サン・ピエトロ大聖堂にも少なからぬ影響を及ぼした。

第七書:パンテオンとその他の有名な古代神殿について。この有名な大聖堂の代議員で建築家である騎士カルロ・フォンターナによる図説

 パンテオンとフィレンツェ大聖堂の建築図面が掲載されている。


ヨーロッパ前近代の製紙と造本

1.紙の原料

 現在の私たちの身の回りにある紙は、ほとんどすべてが木材パルプを原料にして作られている。わが国の紙は明治5年(1872)頃まで和紙でまかなわれており、海外から輸入された紙を「西洋紙」または「舶来洋紙」などと呼んでいた。その後、渋沢栄一が「抄紙会社」を設立し、洋紙の生産を始めた。

 さて木材パルプ(wood pulp)とは木材を薄く破砕して、水やアルカリで溶解し、小さな繊維の集まりにしたものである。この製法は1840年にドイツのフリードリヒ・ゴットロープ・ケラー(Friedrich Gottlob Keller、1816-1895)によって開発された。当初は針葉樹の丸太を破砕していたが(機械パルプ)、やがて、薬品で溶解し、セルロースを主成分とした繊維を取り出すようになる(化学パルプ)。木材は容易に調達できるため、紙は大量に生産されるようになり、20世紀になると紙の大量消費が始まった。

 では、ヨーロッパ前近代には、紙はどのようなものから作られていたのだろうか。

 製紙法は後漢時代(25-220)の中国で蔡倫が発明したといわれるが、紙はすでに前漢時代に作られており(蔡倫よりも250年以上も前)、蔡倫はその方法を改良・確立したと考えられている。その後、製紙技術はイスラーム世界を経て12世紀半ばにヨーロッパに到達した。1144年にスペインのバレンシア地方に欧州初の製紙工場が現れ、1276年にイタリア、1348年にフランスで工場が稼働し、15世紀には全ヨーロッパに拡大した。

 蔡倫は麻(大麻)などを原料にした一方で、ヨーロッパでは、木綿や亜麻のぼろ(rag)を主原料にした。船荷などに使用した洗いざらしの麻袋や着古した下着などを、水車を動力源とした叩解機(stamper)を使用して繊維を取りだしたのである。

 何度も洗って使い古した麻袋は、夾雑物が少なく良質のセルロースを産出した。また、当時の紙の生産と人びとの下着の着用習慣の普及には相関性があるともいわれている。

Linum-ground-cover

亜麻の栽培

Sten Porse, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

Lin teille (= fibres longues) extrait des pailles.

亜麻の繊維

BERTFR, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

2.簀の目紙

 当時のヨーロッパでの製紙法は、日本でも伝統的な和紙づくりに見られるような「()(げた)」を使った手漉き製法だった。

 漉き桁には、繊維をすくい取るために水平方向に細い針金が並べられ、それらを垂直方向の針金が結んでいた。これによって作られた紙を「()の目紙」(laid paper)と呼ぶ。漉いてシート状になった紙をフェルトの間に何層も交互に挟み、プレス機にかけると水分が絞り出される。その後フェルトを剥がし、ロープにつるして乾燥させればひとまず完成となる。

 しかし、それだけでは表面がなめらかでなくインクがにじむため、ゼラチン((にかわ))と明礬を使ってにじみ止め(sizing)をほどこし、さらにメノウなどで表面をこすり、なめらかにする工程が必要だった。

[図] 簀の目紙に見える鎖線と密線

簀の目紙に見える鎖線と密線

出典:高野彰『増補版洋書の話』丸善 1995年 19頁

 以上の工程から当時の紙の特徴が現れる。まず光に透かすと、和紙に似た簀の目が見える。縦線を鎖線(chain line)、横線を密線(laid line)と呼ぶ。また、製紙工場の商標として透かし模様(water mark)が入っていることもある。紙の表面には吸水のさいのフェルトの形状が移り、独特の手触り感がある。

 このような製紙法は、18世紀半ばに、簀の目がほとんど見えないウーブ・ペーパー(wove paper)の製法が開発されるまで、約500年間にわたって続いた。

 ハンス・ザックス著『西洋職人尽くし』(Eygentliche Beschreibung aller Stände auff Erden、1568)にはヨースト・アンマンの木版画により、当時の紙漉き工(Papyrer)の姿も描かれている。

De Stande 1568 Amman 024

『西洋職人尽くし』の挿画(紙漉き工)

Amman / Sachs, Public domain, via Wikimedia Commons

De Stande 1568 Amman 025

『西洋職人尽くし』の挿画(印刷工)

Amman / Sachs, Public domain, via Wikimedia Commons

3.本作り

 以上の過程を経て出来上がった1枚の紙を「全紙」(broad sheet)と呼ぶ。

 そのサイズは漉き桁の大きさから伝統的に決まっており、比較的大きめのものをフランスでは「ジェジュ」(56×76センチ)、ドイツでは「レキシコン」(50×65センチ)、イギリスでは「インペリアル」(30×22センチ)などとしていた。紙は500枚をひと束にして1リーム(ream)と呼び、これが日本語の「1連」の語源になったといわれている。

 15世紀までのヨーロッパでは、獣皮などから作った羊皮紙(parchment)が丈夫で保存性も良く、好んでもちいられたが、紙が急速にこれに取って代わった。活版印刷術を発明したといわれるグーテンベルクは、『四十二行聖書』を紙に約150部、羊皮紙に約30部印刷したといわれる。そのとき使われた全紙のサイズはロイヤル(42×60センチ)で、これを二つ折り(フォリオ folio)にしていた(ただし印刷後に小口を裁断したので実寸は約30×45センチ)。

 活版印刷とは、金属活字などをもちいて組版し、油性インクを乗せ、湿らせた紙をその上に置いて、ブドウ絞り器の原理を応用して開発されたプレス機にかけると、文字が紙に写しとられる仕組みである。活字を版に組むさいは、全紙を二つ折りにして仕上げるのか、あるいは四つ折りにするのか、また折った紙を並べるのか、重ねるのか、などという製本の仕方をあらかじめ考えておかねばならなかった。

 一例として、紙を二つ折りにして並べる場合は、1枚目のおもての右側にページ1、左側にページ4、うらの右側にページ3、左側にページ2が印刷されることになる。

 ところで製本前の折られた紙を折り丁(signature)といいう。この折り丁の並べ方と組版の順序を間違えないように、組版には印刷工に指示をあたえるための、さまざまな記号がこっそりと組みこまれていた。この記号を読みとれば、私たちも本の組み立て方を解読することができる。

[図] 二つ折りにした紙の組版の順序

二つ折りにした紙の組版の順序

出典:高野彰『増補版洋書の話』丸善 1995年 14頁

[図] 折り丁の並べ方

折り丁の並べ方

出典:高野彰『増補版洋書の話』丸善 1995年 18頁

4.製本(装丁)

 当時の書店では、現在のように表紙のついた完成本をおいていることは稀で、折り丁を簡易に綴じただけの「仮とじ本」が販売されていた。その包みには羊皮紙が使用されることもあり、19世紀にそのシンプルな美しさに魅せられたのがケルムスコット・プレスを設立したウィリアム・モリスだった。

 本展のカルロ・フォンターナ著『ヴァチカンの聖堂とその起源』(1694年)も製本されていない。

 20世紀に入るまで、製本は購入者が専門業者に委ねたり、家庭にある「かがり台」を使用したりして、独自におこなうものだった。

[図] 目引きとかがり紐

目引きとかがり紐

出典:貴田庄『西洋の書物工房』芳賀書店 2000年 56頁

[図] かがり台

かがり台

出典:貴田庄『西洋の書物工房』芳賀書店 2000年 55頁

 その際、表紙に使われたのは、木板や羊皮紙、豚革、山羊革、仔牛革などの素材だった(なめし工程のあるのが革、ないのが皮である)。俗にモロッコ革といわれるのが山羊革である。表紙や背には、空押しや箔押しなどで幾何学模様や文字が嵌めこまれ美しく装飾された。

 背バンドという背の盛り上がった部分は、本来はかがり紐の厚みが浮き出たもので、現代ではかがり綴じでなくても装飾的要素としてもちいられることがある。

 こうした装飾を含めた製本は、「装丁」といい、現在はルリュール(reliure 製本工芸)とも表現されている。

[写真] 折り丁を紐でかがって綴じたところ

折り丁を紐でかがって綴じたところ

東北大学附属図書館本館所蔵(撮影CfI)

[写真] 背に丸みをつけ背貼りする

背に丸みをつけ背貼りする

東北大学附属図書館本館所蔵(撮影CfI)

(東北大学附属図書館漱石文庫の保存修復)


展示図書について 来歴等

工学分館本の書誌的特徴

 本学総合学術博物館の小川知幸先生によれば、書誌的には以下の特徴が見られるという。

  • これまで製本された形跡がなく、折丁のまま束ねられており、その折丁ごとに仙台高等工業学校の蔵書印が捺印。化粧断ちもなく、全紙のまま折り畳まれた(図書館の蔵書としては)稀有な形態
  • 全体で500 頁弱あり、かつては簡易なカバー紙があったのかもしれないが、現在は後から用意された厚紙で包まれ、紐で縛られている状態
  • 折丁6 頁分(おそらく2 丁分)と図版の1 丁が欠落
  • 1933(昭和8)年に仙台高等工業学校建築学科が古書肆の無一文館から購入されたと考えられ、現在の工学分館所蔵の図書のなかでも突出した存在
  • 戦後、東北大学工学部に合併・新設された建築学科から工学分館にこの書が移管されたのは、おそらく同館が竣工された1980(昭和55)年頃
  • フォリオ版でラテン語・イタリア語併記
[写真] 側面

側面:折丁のまま束ねられている

東北大学附属図書館工学分館所蔵

[写真] 表紙

表紙

東北大学附属図書館工学分館所蔵

工学分館本の来歴

 仙台高等工業学校に建築学科が新設され、小倉強(1893-1980年)が教授として着任したのは1930(昭和5)年で、この書が購入されたのは1933(昭和8)年のことである。当時、小倉は仙台で齋藤報恩会博物館の設計に携わっていた。この建築は現存していないが、様式としては古典主義でドームをそなえていた。小倉がこのときにサン・ピエトロ大聖堂を手本にしたとはいいがたいものの、建築家として教育者としてさまざまな機会に、この書も含めた西洋建築の図面集を利用していたにちがいない。ところが、現在もこの書は非常に優れた状態で保存されており、ほとんど使用されなかったのではと思われるほどである。

 戦後の日本における新しい建築では、装飾のない四角い箱のようなモダニズム建築が主流と見なされ、東北大学工学部建築学科における建築教育も同様の傾向にあった。すなわち、ルネサンスやバロックといった西洋の古典主義建築は、もはや新しい建築の手本とは見なされなくなったのである。さらに、工学部の学生にラテン語やイタリア語の文献などは読むのも敬遠され、折丁のまま束ねられた体裁は読むにも持ち運ぶにも不便なため、いつの間にかその存在すら忘れ去られてしまったにちがいない。

[写真]  旧齋藤報恩会館

旧齋藤報恩会館

出典:『財団法人斎藤報恩会のあゆみ』


SKK(仙台高等工業学校)

SKK建築学科の教授陣

 『仙台高等工業学校創立百周年記念誌: 青雲の遠きを仰ぎて』の「4.4 建築学科の教授陣 (1)建築学科 恩師一覧」には、23名の教員名が並ぶ。

 本展示ではそのうち小倉強に焦点を当てた。また23名中には高名な建築家・研究者も含まれ、伊東忠太、阿部次郎については関連図書を展示した。

  • 小倉強(在職1922-1951)
  • 伊東忠太(在職1929-1936)
  • 阿部次郎(在職1929-1949)

SKKと東北大学工学部との歴史的関係

SKKパンフレット「SKKと東北大学工学部との歴史的関係」

作成:青葉工業会(東北大学工学部同窓会)

現在のSKK

 SKK建築学科校舎は電気通信研究所敷地内にIT21センター建物として現存している。

[写真]  SKK建築学科校舎
[写真]  SKK建築学科校舎(拡大)

小倉 強(1893-1980)

 明治26年、仙台経済界の長老といわれた父長大郎氏の5男として生まれた。4人の兄と弟1人を加え(他に姉2人)、仙台の学者“小倉6人兄弟”として有名である。

 仙台第一中学校・第二高等学校を経て大正5年東京帝国大学建築学科卒業、東京府技師・東北帝国大学技師・仙台高等工業学校教授・東北大学教授を歴任、昭和 31 年定年退官された。

 仙台高等工業学校での小倉先生は、建築計画・建築史・意匠装飾・建築工学大意・製図・実習などの科目を担務されたが、授業中黒板に白墨で書かれた個性豊な先生の文字は、教え子達の胸の奥に焼き付けられ、忘れることはない。

 先生は又、建築学科長として学科全体の運営や校務・人事・渉外等の業務があったが、生徒の一身上の問題についても親身に心配され、在学中ばかりでなく卒業後も、教え子達で先生のお世話にならない者は居ないほどであった。

 先生は教育関係以外にも数々の業績を残されているが、建築作品で現存するのは旧東北大付属図書館・同大法文学部校舎の他、伊達家霊廟「瑞鳳殿」の再建に当たっては、再建の呼び掛け人・基本設計者・実施設計監理顧問として尽力された。

 先生は又、東北の民家や農村住宅や古建築、明治時代の洋風建築研究の権威として知られているが、それらの業績に対し昭和27年には第1回河北文化賞を、同じく日本建築学会賞も受賞された。

 次に先生の著書だが、「東北の民家」、「田舎の小径」、「宮城県の古建築」、「一人静」、「明治の洋風建築」などの他、昭和 48 年に北匠会から発行された「実測図・仙台及びその近郊の古建築」では、建物等の懇切適確な解説をされている。

 「恩師のプロフィール -教え子達の回想-」『仙台高等工業学校創立百周年記念誌 : 青雲の遠きを仰ぎて』より(原文ママ)

[写真] 小倉強による佐藤家住宅青焼き図面

小倉強による佐藤家住宅青焼き図面

佐藤家所蔵 1936

[写真] 小倉強による設計ノート

小倉強による設計ノート

佐藤家所蔵 1936

展示図書リスト

貴重書展示『Il Tempio Vaticano e sua origine』関連図書リスト

[写真]展示図書

展示図書


展示の様子

[写真]展示の様子 左

展示の様子 左

[写真]展示の様子 右

展示の様子 右

概要:工学分館で貴重書として別置保管してきた、Il Tempio Vaticano e sua origine / Carlo, Fontana(1634-1714) / 1694年刊 が本学工学研究科 都市・建築学専攻准教授の飛ヶ谷潤一郎先生、総合学術博物館助教の小川知幸先生らによる調査により、17世紀刊の貴重な資料であることが判明した。そこで工学分館での貴重書利活用の初めの一歩として本展示を企画開催した。

構成:内容により2部に分け、資料3点を内容に応じて2つのケースに分けて展示した。

 第1部は貴重書自体に関する展示で飛ヶ谷先生による資料紹介*を元に構成した。また小川先生による「ヨーロッパ前近代の製紙と造本」についての解説(書き起こし)を付加した。

 第2部は資料の周辺についての展示で、こちらも飛ヶ谷先生による資料紹介を元にしつつ、とくに小倉強に焦点を当て、飛ヶ谷先生の提供の資料を展示した。また青葉工業会の協力を得て、小倉が教鞭をとり、資料を購入した仙台高等工業学校の紹介をした。展示の末尾には本展示にまつわる工学分館所蔵の書籍の陳列をした。

  • 展示資料①『Il Tempio Vaticano e sua origine』1694年 工学分館蔵
  • 同②小倉強による大河原町佐藤家住宅の青焼き図面 佐藤家蔵品 飛ヶ谷先生提供
  • 同③小倉強による設計ノート 佐藤家蔵品 飛ヶ谷先生提供

*「[資料紹介]東北大学附属図書館工学分館所蔵のカルロ・フォンターナ」(『東北大学附属図書館調査研究室年報』第7 号,2020年)


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