▲ 本館 Home > 平成12年度企画展
展示資料一覧
1) 前訓(ぜんくん) 手島堵庵撰 京都炭屋文蔵等 安永7年(1778)
商品経済の発展に伴い、庶民の間でも読み書きが必須となり、初等教育を施す寺子屋が増加した。そうした中で石田梅岩(1685-1744)に始まる心学は、商売は決して卑しいものでなく世に欠かせないものだからこそ倹約・勤勉・正直が重要、と説いて町人の間で広まった。本書は梅岩の高弟の著作で、彼の講義を聞くために男子だけでなく、簾を隔てて女子も集まっている様子を描いている。書名は、成人「前」(男子7-15、女子7-12歳)の「訓」(おしえ)の意味。
(狩野文庫)
2) 農家益(のうかえき) 大蔵永常撰 大坂中川五兵衛等 享和2年(1802) 3巻3冊
18世紀に盛んになった商品作物生産は、各地に特産物を生み出し、農民たちの間で新品種や栽培法への関心を高めた。大蔵永常は、実用の学を追求して大量の農書を著し、宮崎安貞・佐藤信淵らと並ぶ江戸時代最大の農業ジャーナリストの一人である。本書は彼の処女出版で、櫨(はぜ)の木を栽培し、その実から蝋燭(ろうそく)を製造する方法を記す。
(狩野文庫)
3) 明和火災筆記(めいわかさいひっき) 写本
明和9年(1772)2月の目黒行人坂を火元とする江戸火事騒動のあらましを記す。杉田玄白の『後見草』によると、人々は「明暦の振袖火事(1657年)の時に比べ、土蔵が増え燃えにくくなっていたのにどうしたことか、これは天災に違いない」と恐れ慄いたという。死者は1万4,700人に及び、幕府は明和九(めいわく)の語感を避けるため安永と改元したと伝えられる。
(狩野文庫)
4) 浅間山焼記(あさまやまやけのき) 元龍撰 写本
天明3年(1783)7月の浅間山の大噴火は、地元の上州(現在の群馬県)はもとより、関東一帯に灰を降らせ甚大な被害をもたらした。火砕流等による直接の死者2,000名余に加え、成層圏に至った灰は偏西風にのって世界に広がり気候変動をもたらした。日本の天明飢饉はもちろん、ヨーロッパの冷夏と凶作、ひいてはフランス革命勃発の原因になったとも言われる。この写本の成立に関しては、末尾に「此記ハ上州大久保村医師元龍と申人之作なり、榛名山御師佐藤求馬より伝借して写留」と記述がある。
(狩野文庫)
5) 日本風俗図誌(にほんふうぞくずし) ティチング著 ハーグ刊 1824-25年
Bijzonderheden over Japan behelzende een verslag van de huwelijks plegtigheden, begrafenissen en feesten der Japanezen, Gravenhage: De Wedeuwe J.Allart, 1824-25. 2vols in 1, 24 cm.
安永8年(1779)にオランダ商館長として来日したティチング(Titsingh,Isaac 1744-1812)が、足掛6年間の在日中に収集した日本関係資料を整理翻訳して執筆した書。彼はアムステルダムの出身だが、東インド会社退職後ロンドンやパリで過ごし、関係資料の多くは大英博物館に所蔵されている。本書1822年に英語で出版されたIllustrations of Japanをオランダ語訳したもので(直訳書名「日本の諸特徴」)、多少記事の順序の入れ替えたり改めたところがある。歴代将軍の挿話、日本人の風俗に加え、浅間山の噴火、島津重豪や田沼意次父子の開明性など興味深い内容を含んでいる。
6) 民間備荒録(みんかんびこうろく) 建部由正(清庵)撰 大坂秋田屋太右衛門等 文政7年(1824) 2巻2冊
一関藩の医者であった清庵が著した救荒書。上巻では飢饉に備えての植樹や備蓄を、下巻では飢饉の際の植物の調理法や解毒法を説く。貝原益軒『大和本草』や宮崎安貞『農業全書』など日本の先覚者に加え、中国明代の本草書を多く引用し、また自らの体験や実践の成果を取り入れる姿勢も見える。清庵と杉田玄白の交流は深く知られるが、清庵の実子で玄白の養子となった伯元らの手により、続編にあたる『備考草木図』が天明4年(1833)に刊行された。
(狩野文庫)
7) 続談海(ぞくたんかい) 33冊 写本
田沼意次は、小身の旗本出身ながら将軍の信頼を得て老中に至り、有能な経済官僚を登用して様々な改革に着手した。市場経済活性化を目指した政策は、一方で貧富の差を助長し、伝統的門閥大名の出身でないこともあって、各方面からの批判を浴びることとなった。本書は江戸時代の雑史で、『談海』の続編として延宝8年(1680)から天明2年(1782)の記事を載せている。展示している図は「大名も小名も/鑓(やり)出せ/金出せ/まいないつぶれ」と説明が付けられ、田沼政治を賄賂横行と批判する立場のものと言われている。
(狩野文庫)
8) 時代世話二挺鼓(じだいせわにちょうつつみ) 山東京伝撰 天明8年(1837)
天明4年(1784)3月24日、江戸城内で田沼意次の息子意知(当時若年寄)が旗本佐野善左衛門に私怨から殺害された事件を風刺した黄表紙。神田橋の田沼の屋敷と神田明神(祭神将門)、田沼の家紋七曜星と首から飛び出す七つの心、などで意知を平将門に、佐野善左衛門を将門を討った藤原秀郷に擬している。意知の死で勢力を弱めた意次は、2年後の将軍家治の死とともに失脚した。
(狩野文庫)
9) 新版改正 寛政武鑑(かんせいぶかん) 江戸須原屋茂兵衛 寛政5年(1793) 3巻3冊
武鑑とは、1630年代以降に民間業者が刊行した名鑑で、大名家および旗本の記載を中心とし、主に紋所から人物・格式を知るために使われた。展示しているのは、寛政の改革時に火付盗賊改に登用され、後に池波正太郎の小説などで広く知られるに到った長谷川宣以(のぶため、通称「平蔵」)の掲載個所である。
(狩野文庫)
10) 江戸名所図会(えどめいしょずえ) 斎藤長秋以下編・長谷川雪旦画 江戸須原屋伊八等 天保7年(1836) 7巻20冊
神田雉子町の町名主三代にわたって編集された地誌。初め長秋が、草稿を寛政10年に作成し幕府の出版許可を得たものの果たさず死去。その子莞斎の代も出版に至らず、孫月岑の代になって完成した。扱った範囲は江戸にとどまらず、むしろ武蔵国名所図会とでも称すべきものである。雪旦の写生図も含め全て実地調査に基づくことから、高い資料的価値を認められている。展示の図は1790年、長谷川平蔵の建言で設置された石川島人足寄場(無宿人強制収容施設)付近。
(狩野文庫)
11) 後見草(のちみぐさ) 亀岡宗山・杉田玄白撰 3巻2冊 写本
上巻は明暦大火の惨状を伝える宗山撰『明暦懲録』を再録し、中・下巻で玄白の見聞した宝暦10年(1760)から天明7年(1787)に及ぶ天変地異と世相を記す。朝鮮使節殺害事件、山県大弐の倒幕の企てと捕縛、明和の大火、浅間山の噴火、東北諸藩での大量の餓死者や人肉食の風聞、田沼意次父子の権勢などを記し、松平定信の老中就任を寿いで終わる。展示は、上杉鷹山の治世を褒め称える部分。
(狩野文庫)
12) 林子平上書(はやししへいじょうしょ) 林子平撰 写本
子平は3度にわたり仙台藩への建策を行っているが、本書はその最初のもので(=第一上書)、明和2年(1765)子平28歳の時の作とされる。全体は国政、学政、武備などの9編から成り、荻生徂徠の思想に準拠しつつも、外国侵入に対応できる武備の必要性を説くなど、後の『海国兵談』の所論の端緒が伺える。仙台藩は宝暦7年(1757)頃から借金体質となり財政窮乏に喘いでいたが、子平の建策は受け入れの窓口を得ず仲間内の私的回覧にとどまったと考えられている。この後子平は仙台藩への帰属意識を薄め、一個の自由人として天下国家を論じる方向へ進んだといわれている。(狩野文庫)
13) 鎖国論(さこくろん) ケンペル原著・志筑忠雄訳 2巻2冊 写本
元禄年間にオランダ東インド会社医師として来日したケンペルの著作『日本誌』の中の一章の翻訳。享和元年(1801)成立。実際はオランダ・中国などとの交渉があるにもかかわらず、外国との通商禁止=「鎖国」と表現した背景には、対外的関心が以前に比べ飛躍的に増大した時代性が感じられる。
(狩野文庫)
14) 西域物語(せいいきものがたり) 本多利明撰 寛政11年(1799)遠山経正写 3巻3冊
西洋の事情を述べると共に、自己の見解を表明し、幕府の鎖国政策を批判した書。寛政10年成立。貿易は日本にとって不利という当時一般的な考えに反論し、渡海・運送・交易こそが日本の諸問題を解決する、そのためにも道徳や学問など一般国民の知的な向上が必要と説いた。
(狩野文庫)
15) オクダント用法記 本多利明訳著 3巻3冊 写本
航海用の天体高度測角器であるオクタント(八分儀)の使用法を説明した書。志筑忠雄訳『八円儀及其用法之記』(1798年成稿)の原典でもあるコルネリス・ドウエスの書(Cornelis Douwes: Beshrijving van het Octant,1749)を訳し、若干の註を加えている。上巻ではオクタントの構造や鏡の調整法、下巻では実際に太陽や星の高度を用いた測量法を説明する。志筑の訳書とは、太陽の蒙気差などで採用する数値の違いが見られる。本写本は利明自筆の稿本とされている。
(狩野文庫)
16) 北槎聞略(ほくさぶんりゃく) 桂川甫周撰 文政8年(1825)晩翠軒写 12巻(附巻1)5冊
伊勢の漁師大黒屋光太夫の一行16名は、天明2年(1782)駿河沖で暴風雨のため遭難し、ロシア領カムチャッカに漂着し、以後ロシア政府に帰国を嘆願するためオホーツク、ヤクーツク、イルクーツク、ペテルブルグを移動して、寛政4年(1792)に日本への帰還を果たしたが、病死や帰化のため最終帰国者2名であった。本書の内容は、その数奇な旅行を幕府の奥医師で蘭学者の桂川甫周が聞き書きしたもの。奥書に「吹上秘書之付属也」とあることから、幕府の紅葉山文庫本の写しかと思われる。
(狩野文庫)
17) 蔵志(ぞうし) 山脇尚徳撰・山脇侃校 京都林伊兵衛 明和5年(1768) 2巻2冊
中国古典のいわゆる<五臓六腑>の人体観は、「親験」すなわち、自ら試み験してみる実証の精神を重んずる古医方の山脇東洋(尚徳)(1705-62)によって批判された。宝暦4年(1754)にわが国で初めて公許を得た東洋は京都郊外で刑死体の解剖を行った。このとき解剖図6枚が弟子の浅沼佐盈によって描かれ、5年後に出版されたのが本書である。図は稚拙で西洋の解剖書にはるかに及ばず内容にも誤りが散見されるとはいえ、日本で最初の実証的な解剖記録であったことに大きな意義がある。これ以降各地で死体解剖が行われるようになった。
(狩野文庫)
18) 百科全書 全35巻 ディドロ・ダランベール編 パリ刊 1751-80年
Diderot, Denis, et Jean Le Rond D'Alembert, Encyclopedie, ou Dictionnaire raisonne des sciences, des arts et des metiers, par une societe de gens de lettress. Mis en ordre & publie par M. Diderot... & quant a la patrie mathematique, par M. d'Alembert. (tom. 8-17. Mis en ordre et publie par Mr*** [i.e. D. Diderot].), Paris : Brisson and Others, 1751-1780. 35 vols., 41 cm.(folio).
『アンシクロペディー』、すなわち、百科全書<科学と学芸と技術に関する大事典>は、ディドロ(1713-84)とダランベール(1717-83)を責任編集者とし、264人の執筆者の協力によって成立した大百科事典である。Anatomie(解剖学)の項には人体に関する22枚の図版があり、またChirurgie(外科学)の項には37枚の図版によって各種外科手術用具が描写されている。その図解は、近代解剖学の基礎を築いたヴェサリウス以降の描写法を発展させたもの。18世紀ヨーロッパのスタンダードワークである。
19) 玄[王+與]先生秘蔵図(げんよせんせいひぞうず) [原南陽]撰 寛政4年(1792) 折本1帖 写本
原南陽は、山脇東洋の次男・東門に師事して医学を修めた後、江戸に出て開業し、偶々水戸侯の乾霍乱(日射病)を快癒させたことで侍医となった。東洋一門は人体内景を実地に即して門人に教えることをその学問の基礎としていた。本書は、水戸において南陽所蔵の解屍図を筆写したもの。玄[王+與]は南陽の通称である。
(狩野文庫)
20) 解体新書(かいたいしんしょ) 付序図 和蘭闕兒武思與般亞覃(キュルムヨハンアタン)撰・杉田翼訳・桂川甫周閲 江戸須原屋市兵衛刊 安永3年(1778) 5巻5冊
明和8年(1771)に千住ヶ原で刑死体の腑分けに立ち会うことになった杉田玄白は、先頃入手したオランダの解剖書<ターヘル・アナトミア>がきわめて正確であることに感銘を受け、早速翌日から前野良沢、中川淳庵、桂川甫周らとともにその翻訳を開始した。しかし玄白の『蘭学事始』によれば、さしあたり良沢がオランダ語を僅かに解するのみで、その作業はあたかも「艫舵なき船の大海に乗り出せしが如く」であったという。訳語の決定にあたっては、従来の漢語を充てたものを<翻訳>(骨など)、意味をとって漢字を組み合わせたものを<義訳>(神経、軟骨など)、音をそのままとったものを<直訳>(機里爾キリイルなど)としている。なお、図譜を描いた小田野直武は秋田・角館出身であり、平賀源内から西洋画の手ほどきを受けていた。(狩野文庫)
21) 重訂解体新書並付録 鳩盧模斯(キュルムス)撰 杉田翼訳 大槻茂質訂 江戸須原屋茂兵衛刊 文政9年(1826) 12巻付2巻(13冊1帖)
玄白の命により、弟子である大槻玄沢(茂質)は『解体新書』の改訳および訳出されていなかった註の部分の増訳を開始した。翻訳作業は寛政10年(1798)頃には完了していたといわれるが、その刊行は30年近く遅れた。付図は当初予定していた木版にかえて、中伊三郎を起用して銅版に改めた。
(狩野文庫)
22)西説内科撰要(せいせつないかせんよう)巻12 遠西玉函涅垤我爾得兒(ヨハネスデゴルトル)著・宇田川槐園(玄隨)訳 1冊 稿本
わが国最初の西洋内科書の翻訳であり、原書はオランダのゴルテル(Johannes de Gorter)の『簡明内科書』Gezuiverde Geneeskonst of Kort Onderwys der Meeste Inwendige Ziekten, 1744である。寛政4年(1792)から文化7年(1810)にかけて全18巻として刊行された。『解体新書』以後、20年以上の遅れをとっていた内科関係書にとって画期的であり、当時の内科医に少なからぬ影響を与えることになった。本書はその第12巻にあたる稿本である。
(狩野文庫)
23) 遠西医範(えんせいいはん) 宇田川玄真榛齋撰 2冊 稿本
玄真は伊勢国出身。江戸に出て玄隨の弟子となり、また杉田玄白の娘と結婚したが、放蕩が過ぎ勘当された。しかし周囲はその才能と熱意を認めて助力を惜しまず、玄隨が跡継ぎなしに死去すると宇田川家を継いで津山藩医となった。以後精励して種々の西洋解剖学書を翻訳・集成し、かくて「遠西医範」30巻が成立した。これを要説し文化2年(1805)に出版したものが『医範提綱』(3巻)であり、「膵」「腺」など今日の医学用語を創出した。本書は「遠西医範」の稿本であり、本館には<膜篇><肺篇>の2冊が所蔵されている。
(狩野文庫)
24) 銅鐫解剖全図(どうせんかいぼうぜんず) 宇田川玄真撰 亜欧堂田善書並鐫 文化5年(1808)1冊 家刻本
玄真が『遠西医範』を要説して文化2年(1805)に出版した『医範提綱』の附図。わが国最初の銅版解剖図である。亜欧堂田善は本名永田善吉といい、須賀川に生まれた。松平定信に見出され、蘭書の挿画、江戸風景風俗銅版画の制作に多く携わった。田善はのちに幕府天文台の衆知を結集した「新訂万国全図」の大地図も完成させている。
(狩野文庫)
25) 廻国奇観 ケンペル著 レムゴ刊 1712年
Kaempfer, Engelbert, Amoenitatum exoticarum politico-physico-mediearum fasciculi V, quibus continentur variae relationes, observationes & descriptiones & descriptiones rerum persicarum & ulterioris Asiae, multa attentione, in peregrinationibus per universum Orientem, collectae, ab auctore Engelberto Kaempfero, D., Lemgoviae : Typis & Impensis Henrici Wilhelmi Meyeri, 1712, 23 cm. (4to), 2 vols.
エンゲルベルト・ケンペル(1651-1716)はオランダ商館付医師として元禄3年(1690)より滞日、2度にわたって江戸参府に同行し、帰国後、日本の歴史、地理、政治、宗教などを記述した。
本書はケンペル存命中に刊行された唯一の著作であるが、わが国では殆ど知られることがなかった。ただし、死後出版された『日本誌』(1727年刊)には、本書から日本に関する論文6編が附録として収載されている。図版はその1篇、「中国および日本でよく行われている艾灸」から、「灸所鑑」。西洋に伝えられた東洋の身体観である。
26) 紅毛雑話(こうもうざつわ) 森島中良編 江戸須原屋市兵衛 天明7年(1787)序 5巻1冊
本書は、江戸参府のオランダ商館長を宿舎である長崎屋に訪ねたときの兄・甫周の質疑応答や桂川家で学者の話題を中良が書き留めておいたものを、須原屋市兵衛の求めに応じて適宜板行したものである。いわゆる<聞き書き>の雑録であるが、平易な文章と多くの図版により、当時の人々の知的要求に応えている。
明和2年(1765)刊の後藤梨春著『紅毛談』に初めて紹介され評判となっていたエレキテルについても、桂川家所蔵のものを見て詳しく解説している。
(狩野文庫)
27) 家庭百科事典 ショメール著 改訂増補再版 カンペン/アムステルダム刊 1778-93年
Chomel, Noel, Algemeen huishoudelijk-, natuur-, zedekundig- en konst- woordenboek. Vervattende veele middelen om zyn goed te vermeerderen, en zyne gezondheid te behouden, Te Campen : J.A. de Chalmot / Te Amsterdam : J. Yntema, 1778-93, 29 cm. (4to).
フランスのノエル・ショメール(1633-1712)は、日常の体験・観察・実験あるいは友人からの教えをもとにしてさまざまな知識を網羅し、それらをABC順に配列した百科事典の編纂を志して1709年に完成した。事典は好評を博し、版を重ねて各国語に翻訳された。
わが国にはオランダ語版が舶載され、森島中良の『紅毛雑話』がこれを初めて紹介した。その後幕命により文化8年(1811)以降、大槻玄沢・馬場佐十郎(貞由)らが『厚生新編』として全編の翻訳を開始した。
28) 蘭学階梯(らんがくかいてい) 大槻玄沢撰 江戸松本平助・松本善兵衞刊 天明8年(1788) 2巻2冊
玄沢が芝蘭堂を開塾して間もない頃に著述した蘭学入門書。乾坤(上下)2巻よりなる。上巻では高価な舶来品を無用に買い求めるばかりで外国の長所を学ぼうとしない態度を戒め、民生第一に蘭学を学ぶべきことを説く。
下巻では「アベセレッテル」(アルファベット)の大文字・小文字・筆記体小文字、アラビア・ローマ数字を図示し、発音、簡単な単語と文例などを説明している。全体として語学入門というよりオランダ知識と文字・発音学習を通じて西欧精神に触れようとする研究態度を奨励したものである。
(狩野文庫)
29) 本草綱目(ほんぞうこうもく) 李時珍編 万暦刊 52巻附図20冊
中国(明)で1596年に刊行され、以後中国でも日本でも、本草学(薬物研究を主目的とする博物学)の基本文献として広く用いられた書。日本へは江戸時代の始まりと共にもたらされ、林羅山によって慶長12年(1607)に、駿府の徳川家康のもとに初版金陵本が届けられている。この金陵(=刊行地である南京)本が本書で、完全なセットとしては日本とドイツに計5つの存在が知られるのみの稀覯本である。
(狩野文庫)
30) 物類品隲(ぶつるいひんしつ) 平賀源内撰 文化3年(1806) 大坂河内屋儀助等印 6巻6冊
源内の本草・物産学研究の主著。初版は宝暦13年(1763)刊行。物産学の師匠である田村藍水に説いて組織した薬品会の出品2,000余種の中から360種を選び、それぞれの和漢名、紅毛名、形状や性質などを説明する。外国産品を多く取り上げ、採集・実験の経緯や提供者の名をも記す。日本の本草学が中国の強い影響下から、西洋流博物学に移行する様子が窺える。
(狩野文庫)
31) 火浣布略説(かかんぷりゃくせつ) 平賀源内編 写本
火浣布とは石綿などで作った不燃性の布で、中国では『周書』『抱朴子』『本草綱目』などに載せられ、日本でも『竹取物語』に「火ネズミのかわごろも」として登場するなど、中国から知識が伝わっていた。本書は源内が明和元年(1764)製作に成功して著した紹介の書で、初版は明和2年(1765)刊行。森島中良撰『紅毛雑話』には、桂川甫周が源内から贈られた火浣布をオランダ人に見せ極めて上質と認められた、という話を載せる。
(狩野文庫)
32) 根無志具佐(ねなしぐさ)前編 天竺浪人撰 宝暦13年(1763) 序江戸大坂屋茂吉 5巻2冊
「天竺浪人」の筆名で書かれた、平賀源内最初の小説。宝暦13年夏に江戸を騒がせた歌舞伎女形役者(荻野八重桐)の水死事件を取り上げ、その真相は人気女形役者(瀬川菊之丞)の絵姿を見て恋慕した閻魔王の懇望を退けるため、師匠の身代わりに身投げしたものと語る。虚実をとりまぜつつ時代の風俗を描き、作者の皮肉も効いていて好評を博した。明和5年(1768)成立の後編では、菊之丞を忘れかね娑婆に亡命した閻魔王をめぐって話が展開する。
(狩野文庫)
33) 風流志道軒伝(ふうりゅうしどうけんでん) 風来山人撰 宝暦13年(1763) 自序刊本 5巻2冊
「風来山人」の筆名で書かれた、平賀源内の小説第2作。当時江戸の町の人気者で、実在した講釈師(深井志道軒)を主人公とする空想上の冒険と風刺の書。主人公は仙人に授かった魔法の扇を手に日本国中を色道修行し、さらに海の彼方の異形異風の国々で波乱万丈の旅をする。
(狩野文庫)
34) 神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし) 福内鬼外撰 明和7年(1770) 奥書江戸須原屋市兵衛
「福は内、鬼は外」を意味する筆名で書かれた、平賀源内の浄瑠璃台本。南北朝時代に題材をとり、新田義興(義貞の子)が武蔵国矢口渡で謀殺された事件の後日談を語り、新田神社建立の縁起に及ぶ。明和7年1月16日の江戸での初演後、江戸浄瑠璃の代表作となり、寛政6年(1794)以降は歌舞伎でも上演された。
(狩野文庫)
35) 六物新志(ろくもつしんし) 大槻茂質訳考 杉田勤訂 天明6年(1786)序 蒹葭堂版 2巻2冊
「六物」とは、当時蘭方医のあいだで話題となっていた6つの薬物、一角(ウニコウル)、[サンズイ+自]夫藍(サフラン)、肉豆蒄(ニクズク)、木乃伊(ミイラ)、噎蒲里哥(エブリコ)、人魚であり、これらの薬効につき、玄沢が蘭書にもとづいて考証したのが本書である。一角は陸上に棲む犀(サイ)の一種のツノだと考えられてきたが、ここでは一角魚の歯牙であることを明らかにした。また本来没薬の意であったミイラについては人の死屍であることを明らかにしてその保存方法を紹介する。一方で、玄沢は人魚の実在を信じ、その骨は止血に有用な霊薬であるとしている。
(狩野文庫)
36) 万国新話(ばんこくしんわ) 森島中良編 寛政12年(1800) 大坂藤屋彌兵衞印 5巻5冊
本書は好評を博した『紅毛雑話』(天明7年刊)の姉妹篇として刊行された。「図画を交へて万国の珍説を委(くわし)くのぶる」として、アジアの部では、およそ80項目にわたって地理・風俗などを解説している。以後続刊としてヨーロッパ・アフリカ・アメリカの部を予定していたが、これらは広告だけで刊行されなかった。その記事は、イタリアのイエズス会士Giulio Aleniの世界地理書『職方外紀』を訳出・引用したものが多いといわれる。付録として挙げられた「巨銅人之図」はロードス島の巨人像を表したもので、当時好まれ、司馬江漢の『和蘭通舶』(文化2年刊)にも同様の図がある。
(狩野文庫)
37) 桂林漫録(けいりんまんろく) 桂川中良 寛政12年(1800) 江戸山田屋長兵衞等桂林舍版 2巻2冊
中良が日常で見聞きした事柄を飄逸洒脱に書き下ろしたものを、上巻42項目、下巻38項目にて纏めたのが本書である。その項目には、「金沢文庫」「羅漢像」「頼朝公残墨」「天狗」「孟子」「幽霊」「勾玉」「舎利」「瓦偶人」「塩釜鉄燈籠」などがある。親交のあった姫路藩主酒井雅楽頭(うたのかみ)忠道が序文を寄せており、中良が刻苦して医業に励む傍ら、これを怠らないようにしながら書物を読み、知識の足りないのを補って出来た成果であると讃えている。
(狩野文庫)
38) 機巧図彙(きこうずい) 細川頼直撰 寛政8年(1796)序 大坂柏原屋清右衞門 3巻3冊
「からくりずい」とも。著者は細川頼直、通称半蔵。土佐国の郷士として生まれ、寛政の初めに江戸に出て藤田貞資について天文暦術を学んだ。寛政7年幕府に改暦の議が起きると、天文方作暦御用手伝として登用された。本書は首巻、上巻、下巻よりなり、上巻は「茶運人形」など3種、下巻は「品玉人形」など6種のからくり玩具の動作と製作法が説明されている。江戸時代の自動機械について詳述した唯一の文献である。
(狩野文庫)
39) 寐惚先生文集(ねぼけせんせいぶんしゅう) 陳奮翰(大田南畝)撰 明和4年(1767) 2巻1冊
若き大田南畝の狂詩文集。風来山人(平賀源内)の序がある。題材は江戸の四季や大名行列、学術、貧乏、絵草紙、昔話など。東錦絵をとりあげた作品には「春信」の名が見える。
(狩野文庫)
40) 本丁文酔(ほんちょうもんずい) 腹唐秋人(中井董堂)撰 寐惚先生閲 天明6年(1786)跋 6巻1冊
狂詩集。中井董堂は漢詩人で書もよくした。題名は『本朝文粋』(藤原明衡編)による。江戸風景のほか、助六・暫など歌舞伎を題材とした作品が収められている。
(狩野文庫)
41) 遊子方言(ゆうしほうげん) 田舎老人多田爺撰 江戸多田屋利兵衞印 1冊
江戸洒落本の定型を作ったとされる作品。明和7年(1770)頃初版か。題名は『揚子方言』(揚雄撰)のもじり。序文は漢文で書かれ、装丁も漢籍風。
(狩野文庫)
42) 吾妻曲狂歌文庫(あづまぶりきょうかぶんこ) 宿屋飯盛(石川雅望)編 北尾政演(山東京伝)画 江戸耕書堂(蔦屋重三郎) 天明6年(1786) 1冊
狂歌作者五十人の肖像に狂歌を添えた彩色刷絵本。小道具を用いて王朝歌人風に見せるなど、趣向が凝らされている。尻焼猿人(酒井抱一)をはじめとして四方赤良(大田南畝)・手柄岡持(朋誠堂喜三二)・酒上不埒(恋川春町)らの姿がみえる。
(狩野文庫)
43) 天明新鐫百人一首 古今狂歌袋(ここんきょうかぶくろ) 宿屋飯盛(石川雅望)編 北尾政演(山東京伝)画 江戸蔦屋重三郎 1冊
『吾妻曲狂歌文庫』は好評であったらしく、狂歌作者を百人に増やし天明7年(1787)刊行。荒木田守武・長頭丸(松永貞徳)などの古人も含まれる。四方山人(大田南畝)の序に続いて、朱楽菅江らの文章を添えた五節句の絵がおかれている。
(狩野文庫)
44) 万載狂歌集(まんざいきょうかしゅう) 四方赤良(大田南畝)・朱楽菅江編 江戸須原屋伊八 天明3年(1783) 2冊
書名は勅撰集『千載和歌集』のもじり。構成も『千載和歌集』にならって春・夏・秋・冬と続け釈教・神祇で結んでいる。古人の作も収め、同時代人では風来山人(平賀源内)・花道つらね(五代目市川団十郎)らの名もみえる。
(狩野文庫)
45) 徳和歌後万載集(とくわかごまんざいしゅう) 四方赤良(大田南畝)編 江戸須原屋伊八 天明5年(1785) 2冊
序・跋に『万載狂歌集』刊行後狂歌愛好者が増加、編者のもとには大量の作品があふれ、再び本書が編纂されることになったとあり、狂歌流行の様子がうかがえる。なお、展示の『万載狂歌集』・『徳和歌後万載集』には朱筆の書き入れがあるが、これは野崎左文(蟹廼屋)の手になるものという。
(狩野文庫)
46) 江戸生艷気樺焼(えどうまれうわきのかばやき) 山東京伝撰・画 江戸蔦屋重三郎 3巻1冊
黄表紙。天明5年(1785)初版。金持ちの息子・艶二郎が、色男のまねをして、引き起こす珍騒動の数々。黄表紙は全体に絵があり余白に文が書かれている。主人公の特異な鼻の形に注意。
(狩野文庫)
47) 通言総籬(つうげんそうまがき) 山東京伝撰 江戸蔦屋重三郎 天明7年(1787)序 1冊
洒落本。『江戸生艷気樺焼』の「艶二郎」をこの作品にも登場させている。登場人物にはそれぞれモデルがあるという。洒落本は絵は少なく文が主であり、会話で構成されることが多い。
(狩野文庫)
48) 孔子縞干時藍染(こうしじまときにあいぞめ) 山東京伝撰・画 江戸大和田出店版 寛政元年(1789) 3巻1冊
黄表紙。聖人の教えが広まりすぎて、人々は金銀を忌み嫌うようになる。火鉢で焼味噌をやく男もいるが、こうすると金が逃げるからだという。鳳凰・麒麟は聖代に現れるもの。
(狩野文庫)
49) 青楼昼之世界錦之裏(せいろうひるのせかいにしきのうら) 山東京伝撰・画 寛政3年(1791)跋 江戸蔦屋重三郎 1冊
洒落本。「勧善懲悪の微意あり」と、出版取締に対する配慮は忘れていないが、絶版となった。烏の鳴き声や鐘の音の描写に続いて『神霊矢口渡』の引用がみられる。
(狩野文庫)
50) 文武二道万石通(ぶんぶにどうまんごくとおし) 朋誠堂喜三二撰 喜多川行麿画 1冊
舞台を鎌倉時代に設定。頼朝は畠山重忠に命じて鎌倉の武士を文と武に分けさせる。生花・俳諧・小鳥の飼育は文、囲碁・将棋・楊弓は武、といったこじつけもでる。
(狩野文庫)
51) 天下一面鏡梅鉢(てんかいちめんかがみのうめばち) [唐来参和]撰 栄松斎長喜画 3巻1冊
平安時代、聖代とされた醍醐天皇の御代。人々は、盗人もいない世の中になったので、家の戸はいらないと壊している。実は、「打ちこわし」を暗示しているらしい。
(狩野文庫)
52) 鸚鵡返文武二道(おうむがえしぶんぶのふたみち) 寿亭主人春町(恋川春町)撰 北尾政美画 蔦屋重三郎 3巻1冊
題名にも内容にも、松平定信の著『鸚鵡言』をちらつかせている。延喜帝(醍醐天皇)の御代。武芸が奨励されたため、公家も弓をとって瀬戸物屋にならぶ鉢まで矢で射る始末。
(狩野文庫)
53) 百人女郎品定(ひゃくにんじょろうしなさだめ) 西川祐信 京都八文字屋 享保8年(1723) 2巻2冊 墨摺絵本
祐信の初期の作品で、祐信の名を京・大阪だけでなく、江戸にまで知らしめた作品。八文字屋自笑の序に「美女に百の媚(こび)あり」とあり、女帝から遊女・夜鷹まで百人の女性風俗を描いている。高貴な女帝から遊女までをひとつの本に描いたことから、絶版を命じられることになったと伝えられるが、それは同名の別書だったという説もある。この作品には、「大和絵師西川祐信」の署名があり、祐信の自負がうかがわれる。
(狩野文庫)
54) 絵本常盤草(えほんときわぐさ) 中,下巻 西川祐信 大坂毛利田庄太郎 享保16年(1731) 2巻2冊(上巻欠) 墨摺絵本
『百人女郎品定』とともに祐信の優作として知られる。自序に、「浪華書肆来たりて当時所見の艶容を図して梓にせば絵法初心の一助となるらんとひたすら乞おる」と出版のいきさつが述べられている。この作品には「洛陽画工文華堂西川祐信」と署名されている。
(狩野文庫)
55) 江戸おやま絵本 美人福徳三十二相(びじんふくとくさんじゅうにそう) 奥村政信画 2巻2冊 墨摺絵本
おやまとは、上方で遊女のことをいい、おやまを描いた絵をおやま絵という。江戸では政信が最初にこの言葉を用いたという。この作品は、女性の相や業を描いたもので、福相、貴相、富相、威相、寿相、厚相、清相、弧相、徳相、香相、縁相についてその顔かたちや振る舞いの特徴が記されている。この絵は、清相(きよきそう)を描いたもので、「この相心きよくちりに交じりても染らず たとへば玉のごとく蓮のごとし 何事もおだやかにして過ふ及なし純(よき)人相也」とある。
(狩野文庫)
56) 絵本新吉原千本桜(えほんしんよしわらせんぼんざくら) 奧村政信画 江戸山崎金兵衛 [享保19年(1734)] 2巻2冊 墨摺絵本
『金竜山浅草千本桜』ともいう。上巻は、金竜山浅草寺のいわれを絵にしたもの。下巻は、新吉原の風俗を桜にたとえたものである。
(狩野文庫)
57) 絵本小倉錦(えほんおぐらにしき) 奥村政信丹鳥斎画 元文5年(1740) 5巻5冊 墨摺絵本
藤原定家が小倉山荘で選んだという百人一首の和歌にそれを捩った歌を付して描いたもの。絵は当世風に描かれたいわゆる見立絵である。5冊の内の最後の2冊は、源氏物語からの見立である。
(狩野文庫)
58) 蘭奢待(らんじゃたい) 月岡丹下昌信画 江戸吉文字屋次郎兵衛 大坂吉文字屋市兵衛 宝暦14年(1764) 2巻2冊 墨摺絵本
『絵本深見草』ともいう。「古今の序に天地を動し 目に見ぬ鬼神をも哀れと思はせ 男女の中をも和らげ たけきもののふの心をもなぐさむるを 歌の徳なり」と序にあり、歌にちなんだ故事を描いた絵本である。この絵は、数々の故事が伝えられている小式部内侍の部分で、天皇が大事にしていた小松が急に枯れだしたのを惜しんで内侍に歌をよませたところ、松が緑を取り戻したとの故事を描いたもの。その歌は、「ことハりや 枯れてハ いかに姫小松 千代をば君に ゆづれとおもへば」。
(狩野文庫)
59) 絵本操草(えほんみさおぐざ) 月岡丹下昌信画 大坂大野木市兵衛 江戸須原屋茂兵衛 明和3年(1766) 3巻3冊 墨摺絵本
『女武勇粧競』、『画本英雄烈女伝』ともいう。神功皇后、北条政子、静御前、巴御前など古今の勇敢な女性30人を描いている。太い線で優艶な女性が描かれており、狩野派に学んだ昌信らしい。絵は、清水上野の妻で、二俵の米俵を付けた牛が谷に落ちそうになったところを米俵もろとも引き上げたとの故事に基づくもの。
(狩野文庫)
60) 絵本江戸土産(えほんえどみやげ) 西村重長画 京都菊屋安兵衛 安永9年(1780) 1冊 墨摺絵本
宝暦3年(1753)に江戸奥村喜兵衛から3巻本として刊行されたものの再版である。両国橋の納涼、三囲の春色、隅田川の青柳などの江戸名所を紹介したもので、文字どおり江戸土産として当時かなりの売れ行きを見たという。鈴木春信の『絵本続江戸土産』はこの本の続編として企画された。
(狩野文庫)
61) 役者三十六姿 絵本東ノ森(えほんあずまのもり) 下巻 石川豊信画 鱗形屋孫兵衛 宝暦2年(1752) 1巻1冊(上巻欠) 墨摺絵本
役者を描いた絵本で、それぞれの役者を賛辞する歌が添えられている。下巻には、瀬川菊次郎、中村七三郎、尾上菊五郎、松本幸四郎、沢村長十郎、市村亀蔵などがとりあげられている。尾上菊五郎のくだりには、「高砂の をのえの鐘を 菊五郎 みな見物の 目をさましをり」とある。この菊五郎は初代で、宝暦2年に立役になっている。豊信には、菊五郎を描いた細紅摺絵もある。
(狩野文庫)
62) 絵本喩草(えほんたとえぐさ) 石川豊信画 江戸須原屋弥治兵衛等 宝暦2年(1752) 2巻2冊 墨摺絵本
人が心得ておくべき教訓を絵にして説いたもの。万の事、色欲のこと、狐にだまされやすい人、名人と呼ばれる人、酒のこと、疑い深き人、人の大切にすべき宝、うつり安きもの等19の教訓が取りあげられている。
(狩野文庫)
63) 絵本不明乃草(えほんあけぼのくさ) 禿帚子撰 石川豊信画 江戸前川六左衞門 明和7年(1770) 3巻3冊 墨摺絵本
著者の禿帚子(とくそうし)については、大坂の人であるという位しか分かっていないが、『百姓往来』など多くの往来物を著したことで知られている。この本は、ふと「無用の用を思い出し是を童蒙に示さん」と考えて豊信に絵を頼んだものだという。内容は、30の諺とそれを捩ったものを対比。例えば、「虎狼より漏ぞおそろし」に対して「虎狼より守ぞおそろし」。守とは「国のもり 貴人のもり 小児のもり」のこと。
(狩野文庫)
64) 絵本千代の松(えほんちよのまつ) 鈴木春信画 江戸山崎金兵衛 明和4年(1767)3巻3冊 墨摺絵本
春信は錦絵の創始者で、江戸中期を代表する美人画を描いたことで知られるが、この絵本でも繊細な線で描かれた動感のある絵を見ることができる。本書は、春から冬にかけての季節の移り変わりを、初春、立春、霞、鶯、梅、春駒、惜春、野遊、郭公、菖蒲、池五月雨、蝉、鵜舟、蓮、夕立風、蚊遣火、納涼、七夕、月、庭虫、重陽、深夜擣衣、時雨、雪、松上雪の題で描いたもの。序は禿帚子による。
(狩野文庫)
65) 絵本続江戸土産(えほんぞくえどみやげ) 鈴木春信画 江戸奥村喜兵衛 明和5年(1768) 1冊 墨摺絵本
序に「さきに西村重長なるもの江戸みやげとなん題し 三つの巻となし人のめをよろこばしぬ 今ハた是にもれたるをつたなき筆につくり」とあり、重長の『絵本江戸土産』で紹介されなかった日本橋、深川、本所などの江戸名所を描いている。
(狩野文庫)
66) 絵本浅紫(えほんあさむらさき) 北尾重政画 江戸西村源六等 明和6年(1769) 2巻2冊
「なを前編にもれたる根問葉問に童の詞につきて紅翠軒の答の筆にためおかるれば又も二冊子の慰めくさとハなれり」と序にあり、種々の疑問に対する答えを絵とともに記したもの。絵は、蕎麦切のくだりで「蕎麦切ハとりワけ江戸を盛美す 中でも浅草道好庵の手うちそはハ第一の名物なり」とある。
(狩野文庫)
67) 往生要集絵(おうじょうようしゅうえ) 巨勢金岡画 寛政10年(1798) 繁昌写 巻子
巻頭に「比叡山麓東坂本来迎寺什寶往生要集絵巨勢金岡筆十五幅對之内也」とある。来迎寺は現在の滋賀県大津市にある聖衆来迎寺のことで、伝教大師最澄の創設で、恵心僧都によって再興されたと伝えられる。この絵は、不浄想の一部。作者は号(繁昌)から北尾重政と推測される。
(狩野文庫)
68) 女諸礼集大全(おんなしょれいしゅうたいぜん) 北尾雪坑斎辰宣著述 大坂田原屋平兵衛 宝暦5年(1755) 1冊
婚礼の際の礼や婦女が知り行うべき業を集大成したもの。『女諸礼綾錦』ともいう。前絵は、紅絵の手法で描かれている。
(狩野文庫)
69) 女用文章糸車(じょようぶんしょういとぐるま) 北尾辰宣 [竜章堂書] 大坂渋川清右衛門 明和9年(1772) 1冊
宝暦7年(1757)に出版された『女文要悉皆嚢』の再版。女性のための往来物の一種。竜章堂は、京都の書家西川竜章堂(生没年未詳)のこと。最初に、女流書家として名高い光明皇后、蔡苑、佐々木照元、衛夫人、長谷川妙貞が紹介されている。前絵は、紅摺絵の手法による。
(狩野文庫)
70) 嵯峨天皇后壇林皇后廿七歳命終九想之図(さがてんのうきさき だんりんこうごうにじゅうしちさいめいじゅうくそうのず) 栄継画 寛政9年(1797) 巻子 自筆
檀林皇后(786〜850)は、嵯峨天皇の皇后で仁明(にんみょう)天皇の母。仏教を篤く信仰し、檀林寺を創設した。また、子弟教育のために大学別曹のひとつである学館院を創設した。九想(くそう)は、仏教の不浄観のひとつで、肉体に対する執着・情念を除くために青[ヤマイダレ+於]想、膿爛想、虫[口+敢]想等死骸の醜悪な九つの相を観想して、瞑想を断つもの。この巻子は、タイトルから皇后27歳の時の観想を描いたものであることがわかる。作者栄継については未詳。
(狩野文庫)
71) 絵本二十四孝(えほんにじゅうしこう) 鳥居清経画 [安永3年(1774)] 2巻2冊 多色摺絵本
二十四孝というのは、中国に伝わる孝子(親に孝行な子)二十四人の物語で元の郭居敬の編と伝えられている。日本に伝来したのは室町期で、江戸時代に入って孝行を奨励する政策によって普及し、奈良絵本・草子類が多く作られた。浮世絵では見立絵としても描かれた。清経のこの絵は、中国風俗の原作をそのまま描いたもの。二十四孝子とは大舜、漢文帝、丁蘭、孟宗、閔子騫、曾参、老[クサカンムリ+來]子、姜詩、唐夫人、楊香、董永、黄香、王褒、郭巨、朱寿昌、[炎+リットウ]子、蔡順、庚[黒+今]婁、呉猛、張孝・張礼、田真・田広・田慶、山谷、陸續・字公記のこと。
(狩野文庫)
72) 絵本物見岡(えほんものみがおか) 関(鳥居)清長画 江戸伊勢屋吉重郎 3巻2冊 墨摺絵本
初版本は清長熟成期の天明5年(1785)『物見岳(絵本)』2巻2冊。本絵本は9図を加えて中巻とし、中・下巻を1冊にまとめた絵本。吉原の新春に始まり、浅草年の市で終わる江戸名所の風俗を四季順に描いている。
(狩野文庫)
73) 絵本詞乃花(えほんことばのはな) 北川(喜多川)歌麿 大坂和泉屋源七 寛政9年(1797) 2巻1冊 墨摺狂歌絵本
江戸の四季の風俗を描き、画面に関連した狂歌を添えた狂歌絵本。絵画は上巻に7図、下巻に7図の全14図から成り、吉原の花・両国の月・亀戸臥竜梅等、当時の江戸市井の風俗物を描いている。
(狩野文庫)
74) 絵本譬喩節(えほんたとえぶし) 喜多川歌麿画 大坂明石屋伊八 寛政9年(1797) 3巻3冊 墨摺絵本
初版は寛政元年(1789)刊で、本絵本は再版。絵画は上巻に8図、中巻に7図、下巻に8図の全23図から成っている。各図には狂歌が添えられ、いずれも「氏なくして玉のこし」「水心あれば魚こころ」等、諺を主題とした狂歌と風俗景色の絵を描いている。
(狩野文庫)
75) 吉原傾城 新美人合自筆鏡(しんびじんあわせじひつかがみ) 前編 北尾政演画 江戸蔦屋重三郎 天明4年(1784)序 折本1帖 彩色摺画帖
天明2年頃から『青楼名君自筆集』と題され、一枚絵として刊行されていたものを天明4年に画帖として出版した大版画の画帖。絵画は7図で、1図に5、6人の新吉原遊廓の名妓をモデルとし、正月の豪華な晴れ着姿を描き、上部にそれぞれ太夫の自筆とされる和歌等を添えている。
(狩野文庫)
76) 奇妙図彙(きみょうずい) 山東庵京伝撰並画 江戸須原屋市兵衛 享和3年(1803) 1冊 黄・朱・薄墨淡彩画絵本
滑稽な詞書が添えられた、文字絵中心の見立絵本集。最初に大心和尚「人丸」の文字絵と常信画「梅」の文字絵、次に古法として「ヘマムシヨ入道」「御ぞんじ」の虚無僧絵、次から新法として自案の絵「かな小まち」「おいらん」「達磨乃ゝ字」等の文字絵を披露している。
(狩野文庫)
77) 彩画職人部類(さいがしょくにんぶるい) 橘正敏岷江図 江戸高津伊助植村善六 天明4年(1784) 2巻2冊 多色摺絵本
江戸中期当時の手工業に従事する人々の有様を描写した絵本。絵画は上巻に冠師・鏡磨・大工・鍛冶等15種、下巻に扇打・琴師・面打・筆結等13種の全28図から成っている。
(狩野文庫)
78) 絵本江戸桜(えほんえどざくら) 北尾政美 十返舎一九序 享和3(1803)年 2巻2冊 多色摺絵本
江戸の名所を描いた絵本。浅草寺、寛永寺、愛宕山、芝神明宮、洲先弁才天社、富岡八幡宮、法明寺、目白不動堂、亀井戸天満宮など22の名所が描かれている。すべて俯瞰的風景である。
(狩野文庫)
79) 絵本咲分勇者(えほんさきわけゆうしゃ) 川関文思撰 北尾政美画 江戸須原屋市兵衛 尾張永楽屋東四郎 2巻2冊 多色摺絵本
源平の戦いの場面を20枚の絵で描いた絵本。題は、源氏(白)と平氏(赤)を「南枝に開く冬の梅」になぞらえて咲き分けとしたと序にある。序は千差堂川関文思による。武者絵をよくした政美らしい作品である。
(狩野文庫)
80) 人物略画式(じんぶつりゃくがしき) 鍬形寫ヨ紹真画 大坂秋田屋太右衛門等 文化10年(1813) 多色摺絵本
人物略画式は、帚V最初の略画作品である『略画式』(寛政7年)の人物の部分を独立出版させたものといわれる。帚Vは略画を「形によらず精神を写す。形をたくまず略せるをもって略画式という」と、その意図するところを述べているが、特に人物画においてその軽妙洒脱な独特の技法が活きている。この作品には古今の人物のほかに当時の風俗や源氏物語の登場人物も描かれている。もとは寛政11年に江戸の須原屋市兵衛から発行された。須原屋市兵衛は申椒堂といい、蘭学関連図書を多く出版したことで知られるが、林子平の『三国通覧図説』を出版したために重い過料を科せられて次第に衰退、文化年間には出版数も著しく減少して多くの版木が大坂の版元に売られていったという。この本の版木も同じ運命を辿ったものと思われる。この絵は、行列を描いたもので、上から大名、狐、修験者、座頭が描かれている。
(狩野文庫)
81) 山水略画式(さんすいりゃくがしき) 鍬形寫ヨ紹真画 江戸須原屋市兵衛(申椒堂) 寛政12年(1800) 多色摺絵本
略画による風景画で各地の景勝地を描いたもの。鳥瞰図で知られる帚Vらしくすべて俯瞰図で、江戸から東海道を経て京都にいたるまでの70箇所の風景が描かれている。因みに江戸の景勝地として描かれているのは、両国、三圍、亀井戸、妙見、州崎、佃住吉、永代、御殿山、愛宕山、上野、増上寺、真崎、山王、深川八幡、梅若、両国夜景、吾妻橋、白髭、観音、芝神明、王子、多田薬師、目黒、神田明神、駒形、東海寺、浅茅原、目白、海安寺、市谷八幡、駿河町、湯嶋天神、道灌山、梅屋舗、日暮里、飛鳥山、秋葉、牛御前、真乳山聖天、新吉原、大橋三股、忍ケ岡、隅田川全図、日本橋、品川である。
(狩野文庫)
82) 今様職人尽歌合(いまようしょくにんづくしうたあわせ) 新泉園鷺丸編 鍬形紹真画 文政8年(1825) 2巻2冊 多色摺絵本
狂歌絵本で、寫ヨは上下2巻36枚の絵のなかに計72人の職人を描いている。そのなかには漫才、鳥追い、井戸堀り、居合抜など職人らしくない珍しい商売も見られる。狂歌の判者は当時俳諧歌論争で犬猿の仲になっていた宿屋飯盛と鹿都部真顔で、それぞれ序と跋を分担している。
(狩野文庫)
83) 絵本時世粧(えほんいまようすがた) 歌川豊国画並文 式亭三馬閲 江戸和泉屋市兵衛 享和2年(1802) 2巻2冊 多色摺絵本
町家及び遊所を中心に当時の女性風俗を描いた初代豊国画の絵本。絵画は上巻に官女、武家の奥方とその周辺、和歌の師匠他の風俗等18図、下巻に吉原大見世の一階・同二階「仲街茗舎図附リ芸者仁和歌」、「河岸見世」等15図の全33図から成り、遊び女を中心に遊所風俗を描いている。
(狩野文庫)
84) 役者相貌鏡(やくしゃあわせかがみ)(題簽俳優相貌鏡) 浅草市人撰 歌川豊国画 江戸万春堂板 享和4年(1804) 2巻2冊 色摺芝居絵本
当時の人気役者達の似顔上半身像に狂歌の讃を添えた初代豊国画の芝居絵本。この作品は彼が円熟期のものといわれ、彼の役者絵本の中で最高の傑作本と評価されている。絵画は上巻に18図、下巻に15図の全33図から成っている。
(狩野文庫)
85) 東都勝景一覧(あずましょうけいいちらん) 葛飾北斎画 江戸須原屋茂兵衛 寛政12年(1800) 2巻2冊 多色摺絵本
寛政12年版の北斎挿絵の狂歌本「東都名所一覧」の再版普及本。絵画は上巻に品川・梅屋敷・三囲・王子・飛鳥山・日本橋・隅田川・亀井戸天神・両国・三王祭の10図、下巻に湯島天満宮・不忍池・芝神明・新吉原・深川八幡祭礼・目黒・堀之内・愛宕山・境町・神田明神・浅草年市の11図の全21から成っている。
(狩野文庫)
86) 画本東都遊(がほんあずまあそび) 葛飾北斎画 江戸須原屋伊八等 享和2年(1802) 3巻3冊 多色摺画本
寛政10年刊の狂歌本「東遊」の再版本。本絵本は初版の一冊本が上・中・下の3分冊となり、殆ど狂歌が省かれ、主に北斎の絵が収録された画本である。挿図は上巻に芝神明宮春景・日本橋・飛鳥山・隅田川春雪等8図、中巻に浅草海苔・王子稲荷社・駿河町越後屋等10図、下巻に小町桜・日暮里・上野等10図の全28図から成っている。
(狩野文庫)
87) 絵本狂歌 山満多山(やままたやま) 大原亭炭方撰 葛飾北斎画 江戸蔦屋重三郎 享和4年(1804) 3巻3冊 多色摺狂歌絵本
北斎の作品中でも佳作とされている絵入り狂歌本。跋文に「あし曳の山の手なる景地をさくり画ハ北斎老人が例のふんてをふるはし・・・」云々とある通り、主として江戸の山の手の景色を描いたものである。絵画は上巻に11図、中巻に11図、下巻に10図の全32図から成っている。中巻の4丁図左端に「享和亥3年」という文字が有る。
(狩野文庫)
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