創立111周年記念/令和4年度企画展 本をめくる、印をめぐる ―東北大学の蔵書印から―

蔵書印エトセトラ

目 次

-図書館の創設と蔵書印

-東北帝国大学図書館で登録番号「1番」の資料

-受入票からみる横書きの変化

-個人蔵書印いろいろ

-なにかのご縁?

-建築(工)学科図書

図書館の創設と蔵書印

 附属図書館の創設は1911年(明治44年)6月。その最初の購入物のひとつが蔵書印でした。

 当時の記録から、創設の翌月である7月10日に4種類の蔵書印が作成されたことがわかります。 大きいもので「銅材2寸5分」とあり、7.5センチ四方の立派なものでした。

 図書に蔵書印を押す際のエピソードが残されています。ある図書館員の思い出によれば、 押印する際は先輩から

「図書美の観点から綿密な注意を与えられ」
「必ず立って押すことを命じられ、少しでも曲つたりしたらひどく叱られた」

といいます。

【参考資料】
・伊木武雄.“大学図書館の三十年(一) ”.同心.東北大學附屬圖書館同心編輯部編.1949,5,9p.

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当時の帳簿。「銅材2寸5分」の角印を含む数種類の印が作られました。
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蔵書印を押す位置や押し方には細心の注意が払われました。

東北帝国大学図書館で登録番号「1番」の資料

 この企画展の展示のメインテーマは「蔵書印」ですが、「登録番号印(受入印)」も図書館にとって大事な印です。(見た目はちょっと地味ですが・・・)

 登録番号は、現在でいえば資料番号(バーコードラベルの数字)にあたるものです。番号の下にある「甲」は購入を意味し、寄贈された図書の場合は「乙」になります。 現在は410万冊以上の蔵書を有する当館ですが、「東北帝国大学図書館」として最初に登録された「登録番号1番」はどんな資料だったのでしょうか。

 当時の図書原簿(登録した資料の情報を記載する帳簿)によると、“Annalen der Physik.”という1854年(安政元・嘉永7年)にドイツで刊行された物理学の雑誌でした。「洋甲」の登録番号1番にあたります。ちなみに、その他の「1番」は以下の通りです。

【和甲1番】「鐡と鋼」 明治44年(1911年)9月2日受入
【洋乙1番】「Annual report on reforms and progress in Korea」 明治44年(1911年)9月15日受入
【和乙1番】「鉄道院年報」 明治44年(1911年)9月15日受入

 1冊1冊、番号を積み重ね、図書館は成長してきたのですね。

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「Annalen der Physik.」の標題紙
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洋甲「登録番号1番」を表す受入印

受入票からみる横書きの変化

 ふたつの受入票を比べてみると、「第弐高等中学校図書」は右→左、「第弐高等学校図書」は左→右、と横書きの方向が変化しています。

 1894年(明治27年)の「高等学校令」発令により「第二高等中学校」は「第二高等学校」に 改称されましたが、横書きが左→右へと変わったのは、この受入票が高等教育機関で使われるものであったということが 関係しているかもしれません。
 ※旧制高等学校は、高等教育機関として帝国大学予科としての側面ももち、第二高等学校には帝国大学への進学コース(本部)に加え、専門医師の養成コース(医学部)も置かれていました。旧制高校の廃止により、第二高等学校は新制東北大学に包摂されています。

 左横書きは江戸時代後半の外国語学習関係で見られ始め、その後何らかの西欧文化や様式と接触のある 界隈から広がっていったようです。明治・大正・昭和と時代が下るにつれ、次第に左横書きが社会に浸透していき、 1932年(昭和7年)に国語審議会で「国語ヲ横書ニスル場合ハ左横書トスル」という答申が出されたものの、社会に定着したといえるのは第二次世界大戦後のことになります。
 新聞を例に見ると、読売新聞は1945年(昭和20年)12月31日に 「題字、横字の左書き統一」の記事が掲載され、翌日元旦から書き方が変わっており、朝日新聞(東京) は1947年(昭和22年)1月1日の朝刊から左横書きになっています。「第弐高等学校図書」の受入票が左横書きになるのが早かったということがわかります。

 このようないち早い横書き方向の変化から、事務的な面でも新しい概念を取り入れようという高等教育機関としての姿勢を読み取ることができそうです。

【参考資料】
・紀田順一郎.日本語大博物館:悪魔の文字と闘った人々.ジャストシステム,1994.
・屋名池誠.横書き登場:日本語表記の近代.岩波新書 新赤版 863.岩波書店,2003.
・題字、横字の左書き統一 元旦紙上から本紙の編集革新(社告).読売新聞.1945-12-31.ヨミダス歴史館,
https://database.yomiuri.co.jp/rekishikan/,(参照2022-10-25)
・加藤諭ほか.”展示記録「蛮カラ学生の学び舎~片平キャンパスと旧制二高~」展”.東北大学史料館紀要.2019,14,p.113-135.
http://hdl.handle.net/10097/00126879,(入手2022-10-27)
・文部科学省.”学制百年史:二 高等中学校から高等学校へ”.文部科学省ウェブサイト.
https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317633.htm(参照2022-10-27)

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「第弐高等中学校図書」受入票:文章の方向が右→左
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「第弐高等学校図書」受入票:文章の方向が左→右

個人蔵書印いろいろ

 展示パネルでご紹介した他にも、地質学古生物学研究室では個性的な蔵書印が使われていました。

 小高民夫先生の前任の畑井小虎(はたい ことら)先生の個人蔵書印です。小高先生の蔵書印は巻貝でしたが、こちらは畑井先生が研究されていた腕足類がモチーフとなっています。

 ちなみに、畑井小虎先生のお父様は東北帝国大学理学部生物学科初代主任教授の畑井新喜司、奥様は日本画家の畑井美枝子です。美枝子氏の作品は北青葉山分館などに寄贈されています。

※腕足類:
 腕足動物門に属する、シャミセンガイやホオズキガイ などを含む動物群。海産。からだは背腹に付いた非相称 の二枚の石灰質の殻に包まれ、肉質の柄で他物に定着 する。軟体は二枚の外套膜に包まれ、口の両側方に二個の 触手を担う台座がよく発達し、複雑な腕となり、そこに 触手列が見られる。雌雄異体。現生の種類は古生代の 地質から発見される化石と大きな変化はなく、 「生きた化石」の一つとされている。
<引用>”わんそく-るい【腕足類】”,日本国語大辞典,JapanKnowledge,https://japanknowledge.com,(参照 2022-10-25)

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畑井文庫蔵書印

なにかのご縁?

 図書館の本は書店から購入する以外にも、様々な来歴で蔵書となります。古い本には来歴不明ながら学外組織と思われる蔵書印が押されていることもあり、工学分館では「中島飛行機三鷹研究所」と記された印が押された資料が見つかっています。

 この印で記された「中島飛行機」は、1917年(大正6年)に設立された民営の「飛行機研究所」を前身とした航空機、航空エンジンメーカーと推測されます。かつては日本最大規模の航空機メーカーであり、戦闘機等を製造していました。敗戦後は解体・分割され、その一部は現在のSUBARU(旧:富士重工業)へと繋がります。

 この他にも学外組織と思われる印が図書館で見つかっています。図書館の本をめくれば、本がめぐってきた意外な歴史が蔵書印から垣間見えるかもしれません。

【参考資料】
・富士重工業株式会社社史編纂委員会編.六連星はかがやく:富士重工業50年史1953-2003,富士重工業,2004,334p.
・上岡一史.”中島知久平(中島飛行機):第11章軍需産業の発展”.企業家に学ぶ日本経営史:テーマとケースでとらえよう.宇田川勝,生島淳編.有斐閣,2011,p.150-164.

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上から紙のようなものが貼られているが、「中島飛行機三鷹研究所」の文字が見える

建築(工)学科図書

 工学部の「建築工学科」は、1957年(昭和32年)に「建築学科」へと改称されています。

 改称後に使われていた蔵書印は2種類あるのですが、ひとつは「建築工学科図書」印とサイズも字体も同じなのです。もしかしたら、改称後も以前の蔵書印を(「工」の部分に細工して?)使っていたのかもしれません。

 こうした「もしかして…?」な過去を推測することができるのも、蔵書印をみる楽しみのひとつだったりします。

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「建築工学科」時代
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改称後[1]
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改称後[2]