平成14年度 東北大学附属図書館企画展

江 戸 の 終 焉

‐黒船・開国‐


1.近世から近代へ
2.国防・技術
3.幕末の錦絵

1.近世から近代へ


(概要)

 18世紀後半のヨーロッパ世界は大きく変貌をとげ、産業革命と市民革命を起点とする波が、世界市場形成と植民地拡大という形で全世界に及んでいった。欧米の船がしきりに到来する中で、東アジア世界の秩序も動揺をきたした。日本においても、江戸幕府は対外関係の明確化と国防体制の確立が避けられない課題となった。

 近世中期以降、日本においても商品生産や流通の発展が進み、農村における貧富の差の拡大と都市への人口流入が進行した。幕府や藩は、経済構造の変化に由来する社会変動に直面し、対策をとる必要が生じた。とりわけ天保期の飢饉は、社会の矛盾を表面化させた。相続く一揆や打ちこわしは社会矛盾の端的な現われであり、有効な対策を欠く中で幕臣までもが反乱を起こすに至った。

  こうした国内・国外の課題に対応するため、幕府においても諸藩においても「天保の改革」が行われた。幕府における水野忠邦の改革は、種々の統制強化と幕府権力伸長を図るものであったが、充分な基盤を得ることなく進められたため強い反発をうけ頓挫した。一方、薩摩・長州などの諸藩においては、より弾力的な体制で経済と軍事を強化した結果、一定の成果を収め政局への発言力を獲得していった。

 ペリーの黒船に代表される外圧に屈し開国せざるを得ない事態に陥ったとき、幕府と諸藩の関係も変化した。国際化する政治状況の中で国益を守る強力な中央政府が求められ、徳川家独尊の幕藩体制では対応できないことが明かになった。井伊大老暗殺後の尊王攘夷運動は、公武合体運動から倒幕運動に進み、戊辰戦争の硝煙の中で近代日本が誕生した。


(展示資料解説)
1) 新見正路記録(しんみまさみちきろく) 写本


新見家は代々の旗本の家柄で、8代目の正路(1791-1848)は大坂西町奉行として名を挙げた。正路は、天保2年(1831)以降は江戸に移り、遠山景元や江川英龍らと天保改革を支える一方、鳥居耀蔵一派に対抗した。東北大学では新見家の記録を、正登−正路−正典の三代にわたり約500冊所蔵しており、同時代の幕府内部の様子を知ることのできる一級の資料である。展示している箇所は天保8年2月28日条で、「大坂からの来状」について「平常之注進とも違ひ非常之事ニ付」と述べられる。実はこの月の19日に、大坂で大塩平八郎が決起している。(狩野文庫)

2) 大塩平八郎徒党企一件(おおしおへいはちろうととうくわだていっけん) 写本 (『異説謾草』第五冊)


 大坂町奉行所で先祖代々与力を勤めてきた大塩後素(1793-1837、通称は平八郎)は、中斎の号で知られる高名な学者でもあった。37歳で隠居した後は、その私塾である洗心洞において教育活動と著述に日を送り、代表作の『洗心洞剳記』(天保4年成立)で陽明学者としての学説を展開している。天保8年(1837)2月、前年からの飢饉に苦しむ人々を放置し、大商人と結託して汚職を続ける役人に憤激した平八郎は、門弟を率いて挙兵した。乱は半日で鎮圧されたものの、幕府内部からの反乱は大きな反響を呼び、後の人々にも影響した。本書はその記録であり、展示の箇所は、「四海困窮いたさば」に始まる有名な檄文の写しである。(狩野文庫)

3) 日光御祭礼奉行留(にっこうごさいれいぶぎょうとめ) 三宅康直 天保4年自筆本


 三河国田原藩(藩庁は現在の愛知県渥美郡田原町)では、文政10年(1827)に藩主三宅康明が死去し、後継をめぐる争いの中で姫路藩から養子を迎える。新藩主となった康直は、文政13年に幕府から日光祭礼奉行を命じられ、その時の記録が本書である。この奉行職は譜代大名の公役の一つで、4月17日の家康命日に鎧武者100人、長柄槍100本等を用意し、将軍の名代として日光に参詣するもので、多額の費用を要した。その後の康直の乱費もあり、田原藩財政は破局に瀕した。天保3年(1832)に至り、当時40歳の渡辺登(1793-1841、崋山と号す)が年寄役末席に引き上げられ、藩政再建にあたることとなった。(狩野文庫)

4)一掃百態(いっそうひゃくたい) 渡辺崋山画 明治17年(1884)大倉孫兵衛等


 江戸の市井の風俗を描き画論をも展開した書。崋山26歳の文政元年(1818)に完成した。内容は、鎌倉時代から江戸時代半ばまでの風俗を写した10図、江戸後期の風俗を描いた41図などから成る。自序では道徳的目的のもとでの写実を唱え、浮世絵を世に媚びるもの、文人画等を技術軽視として批判している。崋山は17歳の時に谷文晁に師事し、貧しい家計を絵の内職で支えていた。(狩野文庫)

5) 慎機論(しんきろん) 渡辺崋山撰 写本


 天保8年(1837)、日本人漂流民4名を送還するという人道的立場でイギリス船モリソン号が浦賀や鹿児島に来航したが、無二念打払令(1825-1842)にもとづく砲撃をうけ、目的を遂げられなかった。翌年、オランダ経由で真相を知った幕閣は動揺し、民間でも高野長英の『夢物語』など、幕府の対応を批判する声があがった。崋山は田原藩の海防担当者として、蘭学者たちと交際し西洋事情に通じていたことから本書を著し、国際道義の立場から世界情勢を論じ、幕府の攘夷政策を批判した。未定稿であったが、蛮社の獄に際し押収され、崋山処罰の原因となった。(狩野文庫)

6)渡辺登吟味書付(わたなべのぼるぎんみかきつけ) 嘉永3年(1850)箭島忠恒写本


 緊迫する国際情勢の中で非武装のモリソン号を攻撃したことは、幕閣の負い目となった。老中の水野忠邦(1793-1851)は江戸湾防備体制強化の必要性を感じ、天保9年(1838)12月に江川英龍(韮山代官)・鳥居耀蔵(目付)両名に沿岸調査を命じた。蘭学に通じ江川と親交の深い崋山は、調査をめぐる対立の中で鳥居の憎悪するところとなり、翌年5月に同志数名等と無実の罪で告発され逮捕された。この蘭学者等弾圧事件を蛮社の獄といい、本書はその判決文などを載せている。崋山に下った判決は国元蟄居であったが、累が主家に及ぶことを恐れた崋山は、ついに49歳で自殺するに至った。(狩野文庫)

7)言志録(げんしろく) 佐藤担撰 弘化3年(1846)江戸和泉屋吉兵衛


 佐藤坦(1772-1859、一斎と号す)は、公的には朱子学者であるが私塾では陽明学を講じ、両学の調和を目指した。本書は彼の代表作である『言志四録』4巻のうち、もっとも早く成立した1巻である(文政7年〈1824〉跋)。彼の門下からは安積艮斎、佐久間象山、横井小楠などの個性的な人材が輩出し、著作は西郷隆盛など幕末の志士に影響を与えた。崋山も弟子の一人であったが、蛮社の獄に際し、もう一人の師松崎慊堂が病身を押して老中に嘆願書を提出し崋山の弁護に努めたのに対し、一斎は林家の塾頭という立場もあり、積極的には動かず保身を図ったと伝えられる。(狩野文庫)

8)鴉片始末(あへんしまつ) 斎藤馨撰・月性考異 双松館主人写本


 18世紀の末、イギリスは中国(清朝)との貿易にアヘンを用いるようになった。中国はアヘンの害と銀の流出防止のため、林則除を派遣しアヘン没収等を処置した。反発したイギリス政府は天保11年(1840)に宣戦布告し、敗戦が続く中国は同13年8月に屈辱的な南京条約締結に追い込まれた。西洋列強の軍事力に衝撃を受けた日本の幕閣は、無二念打払令を廃止するなど対外政策の再検討を迫られた。本書は、古賀=庵の主張に沿ってアヘン戦争の経緯を広く人々に伝え、幕末の対外観を形成した書で、作者の斎藤馨(1815-1852、竹堂と号す)は陸奥国遠田郡沼辺邑(現在の宮城県遠田郡田尻町)の人、「考異」を付した月性(1817-1858)は吉田松蔭らと交わり勤王僧として知られた人物である。(狩野文庫)

9)海寇漫筆(かいこうまんぴつ) 写本


 アヘン戦争以後、西洋船が次々と来航し、開国を要求するようになった。日本開国は必至と考えたオランダも、弘化元年(1844)に開国勧告を行うが幕府は受け入れなかった。本書はそのような緊迫した時代状況の中で、老中阿部正弘に提出された筒井正憲(海防掛)や江川英龍(韮山代官)たちの上申書、オランダからの情報、などを収録している。(狩野文庫)

10)浦賀湊異国警固図(うらがみなといこくけいごのず) 写本


 三浦半島東端の浦賀(現在の神奈川県横須賀市)は、江戸湾を制圧し得る軍事上の要所である。江戸幕府は享保5年(1720)に伊豆国下田港から船改番所を移し、浦賀奉行を置いて廻船検査を命じた。浦賀奉行は、江戸時代後期はたびたび外国船を追い返し、ペリー来航の際にはその応接を担当した。本図はアメリカ船の入港と、その警護の様子を示した図である。(狩野文庫)

11)開港日記(かいこうにっき) 日下百枝編 自筆本 35冊


文政8年(1825)の無二念打払令発布に始まり、文久3年(1863)の下関事件などに至る、約40年間の対外事件の記録。とりわけ、嘉永6年(1853)にアメリカのペリーが浦賀に来航し、翌年日米和親条約が締結され「鎖国」が終わりを告げる事態を詳しく記述している。(狩野文庫)

12)魯国使節来朝図(ろこくしせつらいちょうず) 写本


 アメリカと競うように、ロシアも日本に開国を迫った。嘉永6年(1853)長崎に来航したロシア使節がEvfimii Vasilievich PUTYATIN(1803-1883)プチャーチンであった。本図はプチャ−チン艦隊の編成について説明し、プチャーチン一行の姿を図示している。また、ロシア皇帝国書とプチャーチンの添状を収録している(いずれも漢文)。その後プチャーチンは、日本との間で北方領土の国境を確定し、安政元年12月(1855年2月)に日露和親条約を締結した。(狩野文庫)

13)海外人物輯(かいがいじんぶつしゅう) 永田南渓画 安政元年(1854)序刊本


 世界各地域についての概説と人物像(風俗画)を提示。北方地域については、韃靼・兀良哈などについての記載あり。(狩野文庫)

14)外蕃容貌図画(がいばんようぼうずが) 東春堂老人編 安政元年(1854)刊本


 アジア・ヨーロッパ各国の彩色人物画、気候風俗を記す。韃靼、兀良哈(オランカイ)、際苦私(セイクス:旧モンゴルの注記あり)、ロシアが採られている。(狩野文庫)

15)Narrative of the expedition of an American squadron to the China seas and Japan : performed in the years 1852, 1853, and 1854, under the command of Commodore M.C.Perry, United States navy, by order of the government of the United States.


 アメリカ東インド艦隊司令長官Matthew Calbraith PERRY(1794-1858)ペリーの日本遠征の公式記録。ペリーは航海に出発する前から記録編纂の準備を進めており、それを受けてアメリカ議会は1854年12月に日本遠征隊諸資料の出版を決議し、編年的に収集した公文書・日誌・報告類については、客観性をもたせるためニューヨークの牧師Francis L. HAWKSホークスに編集を委ねた。本書には、大量に資料を購入し、捕鯨船長や貿易商人への聞き取りなどで日本を調査した努力の末、種々の困難を克服し対日交渉で成果を挙げた様子が記されている。

16) 横浜外国人住宅細見(よこはまがいこくじんじゅうたくさいけん) 文久元年(1861)江戸丸屋徳蔵


 安政5年(1858)の日米修好通商条約締結により、神奈川開港が決定した。幕府は宿駅を避けるため、当時一漁村に過ぎなかった横浜に急遽市街を建設した。本図には、安政年間に通商条約を結んだオランダ・アメリカ・イギリス・ロシア・フランス、それにポルトガルも加えた国々の商館の位置や旗が描かれている。(狩野文庫)

17)東北遊日記(とうほくゆうにっき) 吉田矩方撰 松下村塾刊本 2巻2冊


 吉田矩方(1830-1859、松蔭と号す)は、6歳で長州藩の兵学師範となり、幼少から儒学や山鹿流兵学を学んだ。その後、藩主の供として江戸に出た松蔭は、嘉永4年(1851)12月に他藩の友人宮部鼎蔵らとの約束を果たすため、藩の許可を得ず東北地方へ旅行に出かけた。本書はその旅行の記録で、嘉永4年(1851)12月14日から翌年4月5日まで、仙台では藩校の養賢堂に訪れ、水戸では会沢正志斎に会見するなど、各地で見聞を広める様子が描かれている。松蔭は江戸に戻った後、藩の処分により家禄を失うに至ったが、翌年に許しを得て再度江戸に赴き、佐久間象山の弟子となって蘭学や砲術を学び、安政元年(1854)3月27日、海外視察を志してペリーの黒船に密航を企てる。(狩野文庫)

18)照顔録・坐獄日記(しょうがんろく・ざごくにっき) 吉田矩方撰 松下村塾刊本


 ペリーに密航を拒絶された松蔭は、翌日幕府に自首し、9月に故郷の萩の野山獄に送られる。松蔭はその後、許されて私塾(松下村塾)を開き思想家・教育者として活動するが、尊王攘夷運動に関わり、安政の大獄に連座して捕らえられ、江戸に送られて刑死した。安政6年(1859)30歳の春、萩の野山獄において著したのが『坐獄日記』で、そこでは日本の国体や君臣道徳が論じられている。5月22日、江戸に送られる3日前に著されたのが『照顔録』で、故人の名言を摘録しコメントを付している。松蔭は刑場の露と消えたが、彼の門下生の高杉晋作、伊藤博文らは、倒幕運動を進め明治政府を作り上げていった。(狩野文庫)

19)省=録(せいけんろく) 佐久間象山撰・勝海舟校 明治4年(1871)序刊本
 信州松代藩士の佐久間啓(1811-1864、象山と号す)は、江戸に出て佐藤一斎に儒学、江川英龍に砲術を学び、ついで私塾を開いた。安政元年(1854)に門下生の松蔭がアメリカ密航を企てたため、連座して象山も獄に下った。その時の省察を後にまとめたのが本書で、明治になって初めて刊行された。「罪の有無は本質的に自己が認めるもので、他者の判断を憂うものではない」と説くことに始まり、儒学者としての立場と西洋科学精神の統合を図る内容を持つ。校訂者として名の見える勝海舟は、象山の門下生であり義兄でもある。(狩野文庫)

20)キリシタン制札(きりしたんせいさつ) 慶応2年(1866) 板額


 近世初期、キリスト教は「鎖国」と共に禁止され、開国の後も日本人が信仰することは禁止され続けた。江戸幕府や、後には明治政府も信徒を弾圧し、浦上キリシタン3千余名流刑の悲劇と諸外国の非難を経て、明治6年に至りようやく禁教が解かれた。この高札も、キリスト教の禁止、信徒密告の奨励と報奨金、名主・五人組の連座などが記され、開国して10年以上経ても信仰の自由が認められなかった様子を示している。

21)霊能真柱(たまのみはしら) 平田篤胤撰 文化9年(1812)序刊本 2巻2冊


 霊魂や世界観に関して独自の概念を示す篤胤(1776-1843)の代表作。上巻では天・地・泉(よみ)の生成について説き、下巻では三世界の相互関係と魂のあり方について論じている。死後の魂は、穢れた黄泉に行くのではなく大国主神の治める幽冥に行くのだと説くなど、師の本居宣長とは異なる見解を打ち出している。宣長の古道説を踏まえ宗教性を強調した篤胤説は、地方の神官や豪農に広まり、尊王攘夷思想が流布する上で大きな役割を果たしたといわれる。(狩野文庫)

22)日本外史(にほんがいし) 頼襄撰 弘化元年(1844)頼氏刊本 22巻22冊


 頼襄(1780-1832、山陽と号す)による漢文の日本通史。源平両氏から徳川氏に至る武家の盛衰を、『史記』にならって家別に記し、政権が武家に帰した経緯を記述する。文政10年(1827)に松平定信に献呈され、以後少なくとも20組の版木を摩滅し尽くし、外国語訳も含め100種を超える諸本が刊行されたという。歴史的事実の客観性には難があるが、簡潔・平易な漢文と尊王思想にもとづく独自の史論が受け入れられ、幕末の尊王思想流行に大きく寄与した。(狩野文庫)

23)新論(しんろん) 会沢安撰 安政4年(1857)江戸山城屋佐兵衛 2巻2冊


 水戸藩儒者の会沢安(1782-1863、正志斎と号す)が攘夷と改革を説いた書。文政8年(1825)に完成した。外国船の来航が盛んになった情勢に対し、「国体」を明らかにし政治改革を断行して、上下必戦の決意をもって時局に当たるべきとする。水戸藩は徳川光圀以来の尊王論の伝統を持つが、中でも『新論』は尊王攘夷思想の代表的著作とされ、幕末に広く流行した。なお本書は、安積艮斎の書き入れ本である。(狩野文庫)

24)烈公書簡(れっこうしょかん) 折本 5帖


 幕末の水戸藩当主となった徳川斉昭(1800-1860、烈公と称す)は、会沢正志斎や藤田東湖らに支えられ藩政改革を進めるとともに、藩校の弘道館を中心に水戸学の精神を振興した。ペリー来航時は老中阿部正弘に迎えられ幕政に参与したが、幕閣と合わず辞し、14代将軍をめぐる争いでは実子一橋慶喜を推して大老井伊直弼と鋭く対立した。本書は、史局彰考館や藩校弘道館で水戸藩の文教を担い『大日本史』編纂を支えた青山延于(1776-1843)・延光(1807-1870)の父子に宛てた斉昭の書簡268通から成る。(狩野文庫)

25)安政地震錦絵(あんせいじしんにしきえ) 刊本 巻子


 安政2年(1855)10月2日、マグニチュード6.9の直下型地震が江戸を襲った。倒壊や火災により、1万人近くの死者が出たと伝えられる。小石川の水戸藩邸では藤田東湖が圧死し、吉原に売られた高野長英の娘も被災死したという。地震を知らせる瓦版は400種にのぼり、地震を引き起こすと考えられたナマズ退治を主題とする鯰絵が多数印刷された。(狩野文庫)

26)斬奸趣意書(ざんかんしゅいしょ) 文久2年(1862)牧野康済写本


 幕府大老の井伊直弼は、勅許を待たず日米修好通商条約を締結し、第14代の将軍に自らの推す家茂を就けたことで、諸藩連合を目指す大名たちや尊王攘夷を唱える志士たちと完全に対立した。安政6年(1859)に井伊は反対派を大弾圧するが(安政の大獄)、翌万延元年に水戸藩浪人たちが井伊を暗殺し(桜田門外の変)、政局は不安定さを増した。さらに文久2年(1862)には老中安藤信正が、水戸藩浪士たちに襲われ負傷した(坂下門外の変)。本書は坂下門外の変の折の弾劾状の写しで、幕府への異心は毛頭無いこと、朝廷を尊み夷狄を憎むべきこと、などを主張している。(狩野文庫)

27)戊辰戦争関係書簡(ぼしんせんそうかんけいしょかん) 写本


 幕末の政治の混乱は、薩摩・長州を中心とする倒幕派と幕府の争いに収斂した。第15代将軍徳川慶喜は、新たな政体の中で徳川が主導権を握ることを狙い、慶応3年(1867)10月に政権を朝廷に返還した(大政奉還)。薩長勢力はこれに対抗し挑発するため、朝廷から徳川慶喜に官位と領地の返還を要求させた。こうした経緯を経て、翌明治元年1月に大坂・京都間で薩長派と徳川派の本格的戦闘が始まると(鳥羽伏見の戦い)、東北地方の大半の藩は徳川方として奥羽列藩同盟を形成した。本書は薩長派に抵抗して戦う会津藩・新発田藩等の間で交わされた書簡11通を集成したものである。結局、会津藩以下は薩長派に降服し、明治2年5月の函館陥落により両派の戦争(戊辰戦争)が終結し、日本は近代を迎える。

28) 大日本土佐国漁師漂流記(だいにほんとさのくにりょうしひょうりゅうき) 鈍通子撰 滄浪軒刊本


 土佐国中浜村(現在の高知県土佐清水市)の漁師だった万次郎(1828-1898、通称「ジョン万次郎」)は、14歳の時に出漁中に遭難し、鳥島に漂着したところをアメリカの捕鯨船に助けられた。ハワイを経てアメリカに渡った万次郎は、西洋の教育を受けた後帰国し、ペリー来航の際に江川英龍配下として幕府に用いられ、開国の必要性を説いた。本書は、漂流から帰国までの記録である。万次郎は維新後は英学を広め、開成学校(後の東京大学)の教授となった。(狩野文庫)

29) 英米対話捷径(えいべいたいわしょうけい) 中浜万次郎訳 安政6年(1859)知彼堂刊本


 開国後、多くの人々がオランダ語に代わって英語を習う必要を感じ、英語の辞書が盛んに求められた。本書は万次郎の訳による簡単な日常会話集で、英語・日本語訳・発音のカタカナ表記が組み合わされている。(狩野文庫)

30)和英接言(わえいせつげん) 尚友堂主人校 明治元年(1868)序高知海援隊刊本


 海援隊は、坂本龍馬(1835-1867)の統率した貿易商社で、坂本暗殺後は振るわず、明治元年12月に土佐藩の命令により解散した。本書序文では、開国により外国人と接触する機会が増え、互いに言葉と文字を理解することが必要になったことを説き、本文では日本の文字(楷書・行書)と英語(活字体・筆記体)を対応させ示す。単語どまりで文章は無い。最終丁には海援隊の印と共に、「天下治安之基」の書き入れがある。(狩野文庫)

31) 万国公法(ばんこくこうほう) (美国)恵頓撰・丁韓良訳 同治3年(1864)北京崇実館刊本 4巻4冊
32) 官版万国公法(ばんこくこうほう) 慶応元年(1865)江戸万屋兵四郎 4巻6冊


 アメリカの法学者Henry Wheatonホイートンが著した国際法の教科書Elements of International Law(初版1836年)の翻訳。同国宣教師W・マーチンが漢訳した北京版は、日本で残されているのは狩野文庫本のみと言われる。全12章551節から成る大著であり、需要に輸入が追いつかなかったため幕府開成所が翻訳し、訓点・振り仮名を付けた和刻本が作成された。慶応2年には将軍に献呈され、幕末の人々に熱心に受け入れられたという。ピストルより万国公法を重んじたという逸話で知られる坂本龍馬は、暗殺される半年前に、海援隊で『万国公法』を出版するため準備を進めていた。(共に狩野文庫)

2.国防・技術 「士族の洋学」


(概要)

 幕末の洋学は黒船の到来やアヘン戦争による清国開国などの危機的状況を反映して、これまでの蘭医による医学・博物学中心の理知的な学問から兵書・兵学中心の実践的な学問へと変化していった。その担い手は洋学塾に多数入門し来った士族の子弟であり、彼らは内憂外患の時代に接して洋式艦船、反射式溶鉱炉、大砲鋳造、砲術・操兵術・築城技術などの先進的な技術を素早く吸収し体得した。いちはやく洋砲を採用した薩摩藩や高島流洋砲術を奨励した越前大野藩などの諸藩に遅れて幕府も重い腰を上げ、蕃書調所、長崎海軍伝習所などの施設制度を充実させる。そして当初はヨーロッパの先進的兵器というハードウェア(たとえばゲベール銃、モルチール砲など)に注目していた士族たちもやがてそれを支えるソフトウェア、すなわち戦術戦略や兵力装備配置、またナポレオンの国民兵により革命的に示された組織的用兵とその訓練の必要性に気付くに至る。しかしその操兵術は、かつて幕府批判の廉で投獄し死に追いやった高野長英らによりすでに先見的に示されていた。また対外防備のための砦であった五稜郭が戊辰戦争の最終局面において内戦の舞台となったこともこの変転の時代の一つの象徴であった。


(人物紹介)

高野長英(たかのちょうえい) 文化1〜嘉永3(1804〜1850) 蘭学者、陸奥国水沢の人。

 文政3年、江戸に出、杉田伯元、吉田長淑に師事。文政8年、長崎に遊学しシーボルトから蘭学と医学を学ぶ。文政11年、シーボルト事件のため長崎を脱出、各地に潜伏した後、天保元年に、江戸麹町に医院を開業し、傍ら翻訳に取り組む。この間、小関三英(こせきさんえい、1787〜1839)、渡辺崋山(わたなべかざん、1796〜1841)らと親交を結ぶ。天保9年、アメリカ船モリソン号の来航に際し『夢物語』を著したことで、天保10年、幕政批判の罪で永牢に処せられる。しかし弘化2年、牢舎の火災(一説によれば長英主犯の放火だとされる)に乗じて脱獄、その後、米沢、江戸等に潜伏する。江戸に潜伏中、長英に隠れ家を提供したのは田原藩の兵学者、鈴木春山(すずきしゅんさん、1801〜1846)であり、またこの時期には、宇和島藩主伊達宗城に招かれ伊東瑞渓と名を偽って蘭学を教授したりもしている。しかし嘉永三年、江戸に戻り青山百人町で沢三伯と称して医業を営むところを幕吏に襲われ自害した。


(展示資料解説)

33)夢物語 高野長英撰 天保10年友部士正写


 1837年、マカオ駐在のアメリカ商社は漂流民送還を口実に商船モリソン号を日本へ派遣した。しかし浦賀奉行は「異国船打ち払い令」に基づき砲撃を加えたため、同船は空しく退去しなければならなかった(モリソン号事件)。   事件を知った長英は『夢物語』を著し、(漂流民護送を掲げた船が)「打払いにあいなり候わば、理非もわかり申さざる暴国と存じ、不義の国と申し触らし、義国の名を失い…おそれながら国家のご武威も損じ候ようにもあいなり候わんか」と警告したため、幕政批判の罪で捕らえられた(蛮社の獄)。  長英は夢の中で伝聞した話としてこれを著し、幕政批判の意図を和らげようとしている。しかし本書は伝写され広範に流布し、『夢物語評』、『夢々物語』などの批評書も出るなど、大きな社会的反響を呼んだ。

34)兵学小識 14冊(6、11、12、13冊欠) 鈴木春山・高野長英撰 校合本写本


 本書は、アヘン戦争で清国の敗北を知り危機感に駆られた鈴木春山が複数の兵書から抜粋し、翻訳・編集したものであり、高野長英との共訳である。学門14巻、術門30巻から成る(ただし一部は未完)。この中で長英が翻訳を担当したのは、巻八「附録銃砲之編」、巻九「附録銃砲之編」、巻十「附録戦砲放発法四則(小銃之部)」である。

35)Taktiek der drie wapens, infaterie, kavallerie en artillerif / Heinrich von Brandt, door J.J. van Mulken, Breda, 1837
36)三兵答古知幾(さんぺいたくちいき) 附序目 37巻附1巻 15冊 刊本


 『三兵答古知幾』は、プロイセンの軍人ハインリヒ・フォン・ブラントの戦術書(Heinrich von Brandt; Grundzuge der Taktik der drei Waffen, 1833.)を、オランダ人ミュルケンが蘭訳したのを(J.J. van Mulken; Taktiek der drie Wapens, 1837.)、長英が翻訳したものである。「三兵」とは歩兵・騎兵・砲兵を指し、「答古知幾」はTaktiekの音訳である。原書は、当時のヨーロッパでは最も斬新でかつすぐれた戦術書と評価されるものであった。  ミュルケン本は、アヘン戦争が終結した天保13年にはじめて日本にもたらされた。これを「三兵活法」の題名で鈴木春山が翻訳していたが病没したため、代わって長英が翻訳にあたった。  『三兵答古知機』は、『兵学小識』とともに、長英が脱獄後の潜伏期間中に訳出したものである。アヘン戦争における清国の全面的な敗北は同時に日本の危機をも意味しており、開明的な諸侯たちは競って蘭学者を雇ったりまた彼らに兵書の翻訳を依頼するなどした。一方長英は兵書を翻訳することによって脱獄後の生計を支えていたのである。

37)遠西武器図略 杉田成卿参閲 市川兼恭訳解 嘉永6年


洋学者市川兼恭(いちかわかねのり、1818-99)がJ.P.C. van Overstraten, Handleiding tot de Kennis der Artillerie, voor de Kadetten van alle Wapenen, Breda, 1850の附図、図解を訳出したもの。二四斤青銅カノン砲、鉄製カノン砲、臼砲、歩兵銃、一八二五年式騎兵銃、一八二〇年式ピストル、サーベル、攻城砲台などの図版が収められ、弾道の説明もある。後述の『砲術訓蒙』も同図を使用。市川は緒方洪庵、杉田成卿の塾で蘭学を修め、幕府天文方蕃書和解御用出役、蕃書調書教授手伝出役などを歴任し、蘭学以外にもロシア語、ドイツ語の修得に努め、電信機、活版印刷術なども研究・活用した不世出の才人であった。(狩野文庫)

38)小銃略図 山脇正民著 講武塾蔵梓 安政3年 折本


講武塾とは山脇正準(やまわきまさのり、1809-1871)が嘉永4年江戸赤坂に開いた越後流兵学の教範所であり、門下生3千人を数えたといわれる。奥書によれば山脇正民は、「当今西洋砲術日々に開け月々に盛んなり、然りといえども旧習に拘泥しなお火縄銃を墨守し新制の利もっとも大なることを知らず未だその名を聞かずその形を見ざる者もまた世に多し」と嘆き、この小冊子を作成し頒布することを思いついたという。いわば兵科入門者の学習教材であった。本書には大別してヤーゲル銃(腔綫の刻まれた猟銃)、カラベイン(騎兵)銃、ピストル(拳銃)3種の携行銃が紹介されている。(狩野文庫)

39)新法火術図 高島舜臣秋帆 写本


長崎町年寄であり出島の砲台受持であった父に従い砲術を学んだ高島秋帆(たかしましゅうはん、1798-1866)は、台場(砲台場)のオランダ人について西洋砲術・西洋銃陣を修得し高島流砲術を立てた。折しもアヘン戦争により大清帝国がイギリスに敗北すると幕府は焦燥感を募らせ高島を呼んで天保12年(1841)5月9日に江戸郊外の徳丸原(板橋区高島平)にて洋式銃隊調練を実施させた。本図はその演練の様子を描いたものであり、中央で指揮を執るのが高島本人である。歩・騎・砲の三兵式用法も見られ、幕末期ヨーロッパ軍事技術導入の記念すべき出来事であった。(狩野文庫)
40)Handleiding tot de Kennis der Artillerie, voor de Kadetten van alle Wapenen / door J.P.C. van Overstraten, Breda, 1863.


佐久間象山門下、蕃書調所出役教授手伝、木村軍太郎が翻訳し安政元年(1854)に刊行した『砲術訓蒙』の原書である。木村は佐倉藩より洋学修得を命じられて杉田成卿の塾に入り蘭学を学んでいたが、その後象山塾に入門して砲術を学び嘉永2年に佐倉藩高島流砲術員長となった。安政元年にアメリカ船渡来の報を聞き浦賀に赴くと吉田松陰とともにこれを実見した。かねてより房総海岸の警備にあたっていた佐倉藩ではこれ以後洋式砲術にもとづく軍制改革が行われた。(狩野文庫)

41)Prove eener Verhandeling over de Kustverdediging / door J. M. Engelberts, Gravenhage, 1839.


エンゲルベルツ著『海岸防御法』。武田斐三郎(たけだあやさぶろう、1828-80)を責任者とする五稜郭の築造のもとになったものである。武田は伊予大州藩の下級武士の出であったが、嘉永6年(1853)のロシア艦隊長崎入港をきっかけに「魯西亜船御用取扱」を命じられ箱館に滞留し、溶鉱炉建設、砲台建造の任にあたるかたわら防御の本拠として五稜郭を築造した。ヨーロッパの城郭都市をモデルとしたわが国初の西洋式築城であった。5つの稜堡が星形に突き出ており、稜堡に砲を置くことで援護射撃により死角を最小限にすることができる。(狩野文庫)

(参考展示:『箱館五稜郭』一鋪 写本 彩色(狩野文庫))
42)海上砲術全書 和蘭カルテン撰 宇田川榕庵・箕作阮甫訳 第1編・第11編 4巻2冊 写本


徳丸原での洋式銃隊調練に衝撃を受けた幕府は、急遽天文台訳員を総動員してオランダ兵書の翻訳を開始した。それがカルテン(Calten, J.N.)の 『海軍砲術入門』Leiddraad bej het Onderrigt in de Zee-Aritilleri, Delft, 1832初版であった。当初は原書が一冊しかなく、これを解体して訳者に分けたという。訳者は宇田川榕庵、箕作阮甫、品川梅次郎、竹内玄同、杉田成卿、杉田立卿の6名。天保14年(1843)成稿。刊本は安政元年に大野藩より発行された。1−5発端・火薬・熕砲、6−8熕車、9−13弾丸装薬用付器・熕砲使用、14−16火料、17−21射放擲放、22−23帯仗、24−26築堡、27−28海岸攻守の28巻からなる。ちなみに杉田立卿は杉田玄白の実子であり馬場佐十郎に蘭語を学んだ眼科医であった。(狩野文庫)

3.幕末の錦絵


(概要)

 ここには、嘉永から明治初期までの、東海道五十三次を描いた錦絵を展示した。
 動揺する時代の状況をほとんど感じさせないのどかな風俗・風景を描いたもの、蒸気船などいち早く新奇な事物を描き込んだものなど、そのあり方は多様である。複数の絵師が分担した作品においては、様々な画風を見ることができ、西洋画の影響も認められる。


(展示資料解説)
43) 東海道張交図会 歌川広重画

44)五十三次名所図会 歌川広重画 [安政二年 蔦屋吉蔵]
広重の東海道五十三次といえば保永堂版のものがよく知られているが、その他にも数多くの作品があり、それぞれ異なった趣がある。『東海道張交図会』は、一枚に複数の宿をとりあわせ、風景ばかりではなくその土地の伝説や名産品なども描いている。『五十三次名所図会』は、縦長で、俯瞰的な構図のものが多い。

45)東海道名所風景 [文久三年]


「文久三年は当時の排外熱の絶頂に達した年である。かねて噂のあつた将軍家茂の上洛は、その声のさわがしい真最中に行はれた。……この京都訪問は、三代将軍家光の時代まで怠らなかつたといふ入朝の儀式を復活したものであり、……」(島崎藤村『夜明け前』) 『東海道名所風景』は、文久三年の将軍上洛を描いたものとされている。数人の絵師の分担により、通常の五十三次以外の名所や京都における行事なども取り上げられている。
46)末広五十三駅図会 (末広五十三次) [慶応元年]


「将軍は遂に征長のために進発した。往事東照宮が関ケ原合戦の日に用ひたといふ金扇の馬印はまた高くフ(かか)げられた。……その盛んな軍装を観たものは幕府の威信がまだ全く地に墜ちないことを感じたといふ。」(島崎藤村『夜明け前』) 慶応元年、将軍家茂は長州再征のため上洛した。『末広五十三駅図会』は、この事件を描いたものとされ、馬印の扇が「末広」に示されているらしい。風景の中にものものしい行列が見える。この作品も数人の絵師の分担による。

47)書画五拾三駅 [明治五年] 沢村屋清吉


「書」と「画」をとりあわせた五十三次。明治初期の作品で、多くは伝統的題材によっているが、日本橋の三井組ハウスなど、新時代の風景も見られる。

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