東北大学附属図書館 夏目漱石ライブラリ |
■6月29日 雨は依然として、長く、密に、物に音を立てゝ降つた。二人は雨の為に、雨の持ち来す音の為に、世間から切り離された。同じ家に住む門野からも婆さんからも切り離された。二人は孤立した儘、白百合の香の中に封じ込められた。 「先刻表へ出て、あの花を買つて来ました」と代助は自分の周囲を顧みた。三千代の眼は代助に随いて室の中を一回した。其後で三千代は鼻から強く息を吸ひ込んだ。 「兄さんと貴方と清水町にゐた時分の事を思ひ出さうと思つて、成るべく沢山買つて来ました」と代助が云つた。 「好い香ですこと」と三千代は翻がへる様に綻びた大きな花瓣を眺めてゐたが、夫から眼を放して代助に移した時、ぽうと頬を薄赤くした。 「あの時分の事を考へると」と半分云つて已めた。 「覚えてゐますか」 「覚えてゐますわ」 「貴方は派手な半襟を掛けて、銀杏返しに結つてゐましたね」 「だつて、東京へ来立だつたんですもの。ぢき已めて仕舞つたわ」 「此間百合の花を持つて来て下さつた時も、銀杏返しぢやなかつたですか」 「あら、気が付いて。あれは、あの時限なのよ」 「あの時はあんな髷に結ひ度なつたんですか」 「えゝ、気迷れに一寸結つて見たかつたの」 「僕はあの髷を見て、昔を思ひ出した」 「さう」と三千代は恥づかしさうに肯つた。 (『それから』十四の八)
(『漱石全集』 第6巻)
※「それから」は、東京朝日新聞に明治42年6月27日から10月14日まで連載された。 ※『それから』 ※参考文献 |
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