(展観目録第65号)
「ひのえうま」に関する図書展観目録
 
日 時  昭和41年1月12日(水)13日(木) 各12時から16時まで
場 所  東北大学附属図書館会議室
 
○ ひのえうま(丙午)の由来大略
 午(十干の第三位)は、炳と同じく、火のように明らかなこと。五行から云えば火、方位は南、季節は夏。午(十二支の第七位)は、五行では火。方位は正南、時刻は正午、月は五月、動物は馬等の説が漢代の人々によって説かれた(説文一、十部。爾雅釈天。論衡三、物勢篇。釈名一、釈天。漢書律暦志等) 馬が太古から人間社会に密接していたことはいなめない事実で、それ故にこそ十二支獣にとり入れられたのである。然しながら丙午の説はまだ見られなかったところが宋代になって、丙午丁未の年には大変災があるとの説が唱え出された(何遠の春渚紀聞 1定陵兆応や陳亮の上書等)。これは史乗に照してこの両年には変災が大であるというのであるが、人の生まれ年には言及していない。この説を唱えた張邁は嘉泰2年(1202)に80才で卒しているが、その容斎随筆(丙午丁未説は彼の晩年、未定稿と思われる五筆に見える)の明版は江戸時代に伝っており、其節に基いたらしい丙丁亀鑑五巻は柴望(本書は淳祐6年-1246-上表。これにより彼は下獄)作。この書を江戸時代に書写した者もあるが、塩谷余弘の丙丁烱戒録は是をまねたもの。この丙午説を敷街した五雑俎は明の謝肇□の作これは寛文元年(1661)に和刻され、其後、寛政、文化等、幾度か再版され、又は書写された程であるから、広くよまれ従来の丙午説に一つの根拠を与えたものと思われる。柳もわが国では早くからシナの陰陽五行説を受入れていろいろの迷信が行われたが、丙午は徳川時代に入ってから盛になったようである。
 わが国では丙をヒノエ(火の兄)。丁をヒノト(火の弟)と読んだ(伝菅原道真撰紫門色教横巻2)。そこで丙午の年は、火に火を重ねた形で、この年生まれの人は勢強く、好ましくないという説が生れた。ここに丙午生まれの男は三人の妻を殺す(月堂夜話下に「伝教大師指神占法ニ男ヲ殺ス女三人アリ、乙丑壬子丙申。女ヲ殺ス男三人アリ。丙午、癸酉、庚亥ナリ」と。国民百科大辞典)という迷信が生まれたらしい。ところが天和2年(1682)12月、八百屋お七の狂恋放火が起った。お七は丙午生まれだというので、火の焔魔だとされ、従来にまして女性に分が悪いこととなり、丙午といえば、丙午生れの女性の代名詞のようになり、「丙午は亭主八人を食い殺す」という諺も生れ、特に八百屋お七は小説や芝居、浄瑠璃に演ぜられ、川柳にもよまれるに至って、尚一層社会の隅々まで、この迷信が浸透していった。それにしても、年の災から、火の災となり、転じて縁談の方にまで援用されるに至ったのは、シナの丙午山の故事によるという。其は或人が此山に牝馬ばかり飼っていたが、或時一匹の牝馬がここに紛れ込み、牝馬に蹴殺された(鈴木編続故事ことわざ辞典)のによるという。然しこの話は信用がおけない。第一丙午山というのは丙午にちなんだ名のようであり、又そうゆう山があるとはきかない。かつ早く発達したシナの諺にも、丙午のは見当たらない。ただ丙不蔵日(天候諺。丙の日はよくないとのこと)というのが、それも瓜州農諺に見えるだけである。(但し丙午の語はシナの古代にもある)八百屋お七事件の5・6年後に出た小説には、世の人の嫌う丙午といっているから、その迷信の根強さは、もはやぬき難いものとなっていた。本朝俚諺(正徳4-1714-刊)にも、丙午の迷信なることを指摘し、燕石雑志(文化8-1811-刊)には、ヒノエが嫌われるなら、ミズノエ(壬。十干の第九位。安永元年壬辰2月江戸大火。滝水子は明和大火行を作った。水災でなく火災)も水災で、嫌われねばならないのに、このことは言わない。丙午説は全くでたらめなものと弁明これ努めたが何の効果もなかった。弘化2年(1845)には翌年の丙午を見越して和州東福寺の詮海が、丙午さとし文や丙午歳生れ子のさとし事というパンフレットを出したが、これも逆効果であった。
丙午より丁末の方が災禍が惨憺だというが、特に丙午がいい張られているのは、うまは人間社会と共に育ったもので親しみがあり、川柳にも語呂がよく、その上性生活にも連想されたためであろう(江戸の秘話には、丙午は強□の女としている。その意味の川柳が残っている。
なお、丙午の文芸に表われたのは、寛文2(1662)序刊、山岡元隣の身の楽千句に、すごきは丑の時参りして、丙午ならずとも男喰なましが初見という)かつて丙寅(丙寅の女も、夫に乗り勝つとか、七本塔婆といって忌んだ。此は山梨県西八代郡に行われた諺、丙寅の娘のある家では、七本の塔婆を簟笥に入れておく。又はその絵を嫁ぐ際もたせてやったという。聟も丙寅生れを嫌った)も丙午のように嫌われたが、それも明治半頃以後は、沙汰やみとなってしまったというから、この丙午もこの辺で総決算したいものである。
 
目   録
○ 丙午の文字及びことば
1. 丙の午 古□篇 14, 77 釈名1釈天 論衡3 物勢篇 漢書律暦志
2. 火の兄 火の弟(伝菅原道真撰 紫門色教横巻 一名 紫門和語類集2 写本)
○ 丙午丁末災異説
3. 上孝宗皇帝第一書 宋 陳亮撰(竜川先生集要1)
4. 容斎随筆五筆10 宋 洪邁撰 乾隆59(1794)重刊
5. 丙丁亀鑑五巻 宋 柴望撰 続一巻 明 銭土昌撰(宝顔堂秘笈広集1)
6. 五雑俎1 明 謝肇制撰 清 [ 田 ] 勲註 写本
7. 丙丁烱戒録二巻 塩谷世弘撰 写本
8. 秉穂録1 岡田挺之撰
○ 梧窓漫録上 太田錦城撰
○ 鬼園小説下 滝沢馬琴撰

9. 梧窓漫録下
○ 翁草 神沢貞幹撰
○ 燕石雑志1 滝沢馬琴撰 文化8(1811)刊
○ 文政年間漫録
○ 丙午の女
10 衰志編 楫取魚彦撰
○ 月堂夜話2 [ 榊原昭成 ] 撰 写本
○ 勇漁鳥2 北山久備撰
○ 本朝俚諺八下 井沢長秀撰 正徳4(1714)刊
○ 八百屋お七
11. 八百やお七恋桜 紀海音撰 享保3(1718)刊(浄瑠璃)
12. 八百屋お七加羅操狂言三巻 栄邑堂邑二撰 長喜画 享和3(1803)刊(黄表紙)
13. 八百屋お七江戸紫三巻 鳥居清満画 [ 青本 ]
○ 丁未災異
14. 弘化丁未信濃国大地震山川崩激之図二折 平昌言撰 刊本
15. 弘化丁未地震録 写本(弘化丁未は同4年(1847))
16. 信州地震書留 写本
○ 迷信
17. 丙午迷信の科学的考察 小林胖生撰(啓明会講演集62)
18. 迷 信 中村古峡撰(日本風俗史講座15)
19. 迷信の実態−日本の俗信−1, 2, 3. 迷信調査協議会編 昭和27・30
○ お年玉の図案から迷信を生むエトを除け 毎日新聞 昭和40・11・5
○ 新年切手の忍駒 毎日新聞 昭和40・11・28
○ うま
○ うま年の歴史 −文化的で戦乱は少い− 河北新報 昭和29・1・12
○ みちのく馬の談議1 河北新報 昭和29・1・3
○ うまの絵
20. 驪黄物図 二巻 主馬尚信原画 三浦義信模写 巻子本(彩色)
  尚信は木挽町狩野家開組 慶安3(1650)卒 44 松屋筆記105 73参照
21. 大江戸絵馬集 [ 斎藤 ] 月岑編画 写本(彩色)
22. 十二支画帖午の巻一帖 岩谷 [ 季雄 ](小波)編 大正7刊
23. 千馬帖
○ 競馬
24. 競馬装束 写本(天保10(1839)宮崎 [ 巨勢 ] 金峰写) 巻子本
25. 馭家必用 沼田美備編 写本
26. 競走馬外貌学 英リツクツツピー、イー撰 石橋正人訳 昭和12刊
27. 競走馬調教法 東京競争倶楽部編 昭和13刊
○ 野馬
28. 馬出所野馬焼印書 写本(安政6−1859−中津建豊写)(彩色)
29. 馬諸国名 写本(慶応2−1866−写)
30. 野馬焼印之図并考 [ 安西 ] 政峯撰 写本(末記安政6(1859))
31. 諸国馬出所地名 写本(外題、諸国馬出所地名鏡)
○ 牧場
32. 百馬毛色並諸国牧馬焼印 写本(天保8−1837−写)
33. 佐倉七牧見取絵図面一枚 写本(彩色) 外題「佐倉牧場七所図」
34. 下総国柳沢牧開墾場之図一枚 写本(彩色)
35. 開牧五年紀事二巻 広沢安任撰 明治12刊