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東北大学附属図書館/本館 平成13年度企画展

 

展示資料一覧

倉持文書
《東北大学附属図書館創立90周年特別出陳》

 倉持文書は、鎌倉御家人足利氏の被官(家来)、倉持氏によって伝来された文書群である。全部で36通からなる。足利尊氏を初めとする歴代の主人から倉持氏に下された命令書・辞令書類が含まれている。そのうえに、倉持氏の歴代当主から後継の子孫に手渡された譲状類(財産相続の証文)ほかが含まれている。
 足利氏は、鎌倉御家人の雄として、下野国足利荘を始め、全国各地に所領を展開していた。それらの所領を効果的に管理するために、大勢の被官を代官として派遣していた。鎌倉には、それの所領群を集中管理するための事務所を設けて、大勢の被官を奉行人として勤務させていた。そのような所領展開と所領管理のありかたを端的に教えてくれる他に類例のない貴重な文書(「足利氏所領奉行番文」)も、倉持文書のなかに含まれていた。
 倉持文書に対する学界の関心は、高まる一方である。倉持文書がなければ、足利尊氏の天下取りを支えた経済的な基盤が分からないと、評価されるまでになっている。国宝・重文に列せられたとしても、何の不思議もない。
 東北大学附属図書館に倉持文書が納められたのは、1958年のことであった。それまでは、陸奥国加美郡内、いまは宮城県中新田町内に伝来されてきた。加美郡は、足利氏所領の代官として、倉持氏が最初に赴任した由緒ある場所であった。
 
 
文化の花

1)江戸名所花暦(えどめいしょはなごよみ) 岡山鳥編 長谷川雪旦画 守不足斎 文政10年(1827) 3冊
春夏秋冬の4巻から成り、四季それぞれの名所を記したもの。「花暦」という名称であるが植物ばかりではなく、鳥や月・雪の名所も取り上げられている。上野の桜、両国橋の納涼、隅田川の雪などが、挿絵とともに紹介されており、当時の行楽の様子が偲ばれる。(狩野文庫)

2)牽牛花水鏡 前編(あさがおみずかがみ) 秋水茶寮痩菊撰 濃淡斎洞水画 文政元年(1818) 1冊
文化・文政頃に流行した変わり咲き朝顔の、栽培方法を説明した書。土の選び方や種の取り方などを初心者向けにやさしく書いている。様々に変化した花と葉の図をならべ、名称を記す。序文は伊沢蘭軒。森鴎外の『伊沢蘭軒』にも当時の朝顔流行についての記述がある。(狩野文庫)

3)朝顔譜 秋水茶寮撰 濃淡斎画 文化15年(1818) 1冊
文化14年に催された朝顔の花合せに出品された変わり咲き朝顔を中心に作られた図譜。微妙な花のありさまを彩色は用いずに墨の濃淡で表現している。序文は蜀山人(大田南畝)。(狩野文庫)

4)滑稽五十三駅(東海道中膝栗毛)(こっけいごじゅうさんつぎ(とうかいどうちゅうひざくりげ)) 十返舎一九 23冊
展示は享和2年(1802)刊行の初版を改版したものである。粋を気取るが野暮天で、悪事を働くが実は小心者、江戸神田八丁堀裏長屋の住人、弥次郎兵衛と喜多八の珍道中。正編の弥次・喜多は、東海道を上り伊勢参宮をし、京から大坂へと至る。道中の失敗談、滑稽談、奇行、珍行、悪ふざけを重ね、その間に見聞する旅人や街道筋の人々の滑稽模様が、地口、軽口、洒落、狂歌、皮肉や頓知、機知、風刺、様々な笑いの内に描かれる。(狩野文庫)
 
5)続膝栗毛(ぞくひざくりげ) 十返舎一九 初至一二編 文化7年(1810)序 文政5年(1822)序 19冊 駿河生まれの自称「江戸っ子」弥次・喜多は、相変わらずの奇行・珍行ぶりを存分に発揮しつつ、金毘羅、宮島、善光寺、草津温泉と辿り、中仙道を経て江戸に帰り着く。
弥次・喜多は道化者を意味する普通名詞になる程の人気者であり、読者の圧倒的な支持を受けて20年にも渡って書き継がれた、ロングセラーであった。(狩野文庫)

6)素人庖丁 一・二・三編  浅野高造直隆編 法橋玉山画 大坂河内屋茂兵衛等 享和3年(1803)至文政3年(1820)    3冊
題名の趣旨は、専門の料理人ではなく、素人の料理書ということ。横長の小ぶりの本であるが、料理の様子や行事などを描いた挿絵が興味深い。(狩野文庫)

7)江戸流行 料理通大全(りょうりつうたいぜん) 初至四編 八百善亭主人編 [文政5年(1822)]至天保6年(1835)    2冊
江戸の代表的な料理屋八百善の料理書。四季の献立に料理法が添えられている。八百善には多くの文人が訪れ、本書によせられた蜀山人(大田南畝)・酒井抱一・谷文晁らの絵や文章が、当時の趣を伝えている。(狩野文庫)

8)餅菓子即席増補手製集 (十返舎一九)    文化10年(1813)序 1冊
各種の餅・饅頭・煎餅・羊羹・飴などの作り方を紹介した本。挿絵には、菓子作りや菓子を売る店が描かれている。(狩野文庫)

9)手造酒法(てづくりしゅほう) (十返舎一九) 1冊
『餅菓子即席手製集』の姉妹編。みかん酒・梅酒・菊酒・甘酒などの作り方が書かれている。その他に麺・菓子・味噌類の製法を追加。(狩野文庫)

10)夢想兵衛胡蝶物語(むそうびょうえこちょうものがたり)前編並後編 曲亭馬琴撰  一柳斎豊広画  文化6・7年(1809・1810)序    9冊
主人公夢想兵衛が夢で、子供しかいない少年国、酒ばかり飲んでいる強飲国などの異国を巡り、教訓を得るというはなし。いかにもかたくるしそうであるが、和漢の古典のパロディーを交えた文章、挿絵もまたおかしい。空想上の異国のこととされているのは、当時の日本の現実でもある。(狩野文庫)

11)四十八癖(しじゅうはちくせ) 初至四編    式亭三馬撰 歌川国直等画  4冊 
初編文化9年(1812)刊、四編文政元年(1818)刊。「女房をこはがる亭主の癖」「蔭で舌を出す人の癖」「金をなくす人の癖」など、世間の人々のさまざまを活写。「酔醒の薬なら三馬が製る金勢丸をのむがいゝ」「癪にさはらば三馬が名方黒ぐすり」といった登場人物のせりふがみえる。三馬は売薬店を営んでいた。 (狩野文庫)

12)浮世風呂(うきよぶろ) 式亭三馬撰 歌川国直画 丁子屋平兵衛・美濃屋甚三郎 8冊
文化6年(1809)に前編初版が刊行され、文化10年(1813)に後編が刊行された。江戸町人の社交場であった銭湯を通じて庶民の生活や行動を活写した滑稽本。会話文を特徴としており、人物の言葉使いから方言までを的確に描き分け当時の口語が細密に描写されている。類型的で誇張された性癖描写が読者の笑いを誘う。初編・四編が男湯で、二編・三編が女湯である。(狩野文庫)

13)無而七癖 酩酊気質(なまえいかたぎ) 式亭三馬撰 歌川豊国画 文化2年(1805)序 3冊
「悪たい上戸」「りくつ上戸」「さわぎ上戸」など、さまざまな酔っぱらいが登場する。せりふが中心で、「一向したの廻らぬやうに」「はなのつまりたる声にて」というように、声の調子についても指示がある。凡例には物真似芸の名人であった桜川甚幸に与えたとあり、このような芸能との関連があるものと考えられている。(狩野文庫)

14)当世七癖上戸(とうせいななくせじょうご) 式亭三馬撰 歌川国貞画 江戸西宮平兵衛等  文化6年(1809)序   3冊
『酩酊気質』の続編であるが、こちらでは複数の酔っぱらいがからみあう。また、せりふやしぐさばかりではなく、その場の情景の描写も細かい。「今はむかし何国にやありけん住荒たる裏屋のありさま」「其光景を見るに藁だわしは蚫貝に乗て日向にほこり草箒は犬の椀に竝で日蔭に立てり」。(狩野文庫)

15)俳優素顔 夏の富士(なつのふじ) 山東京山讃 歌川国貞画 江戸森屋治兵衛等 文政10年(1827)序 2冊
安永9年(1780)刊『役者夏の富士』(勝川春章画)に倣った絵本。「夏の富士」とは、雪化粧をしていない夏の富士山のような、素顔の歌舞伎役者という意味。舞台裏や行楽の場での役者の姿を描いている。(狩野文庫)

16)劇場訓蒙図彙(しばいきんもうずい) 式亭三馬撰 勝川春英・歌川豊国画 江戸上総屋忠助 文化3年(1806)求板 8巻5冊
享和3年(1803)初版。歌舞伎事典の形式をとりながら、芝居の世界を異国に見立て、日本のとはだいぶん違う、とふざけてみせる。巻七は万国人物図に見立てた役者の似顔絵で、豊国の手になり、もとは色刷であった。(狩野文庫)

17)偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ) 初至三八編 柳亭種彦撰 歌川国貞画 59冊
文政12年(1829)に初版が刊行された。「源氏物語」を下敷きに足利将軍家の御家騒動を歌舞伎調に描いたものである。「源氏物語」と不即不離の翻案の妙、推理小説的な物語展開、原典の和歌を俳諧に置き換えるなどの細かい配慮、画工・歌川国貞の艶やかな挿絵の魅力などが様々に相俟って、女性読者からの圧倒的な支持を得た。しかしその物語世界が、当時の将軍・徳川家斉の大奥生活を模したものとの風評が立ち、またその余りに華美な装丁のせいもあってか、天保の改革により罰せられ、天保13年(1842)に発禁処分となった。種彦も取調べを受け物語は未完のままに死亡した。病死とも自殺とも言われる。(狩野文庫)

18)南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん) 初至九輯 曲亭馬琴撰 柳川重信等画 106冊
文化11年(1814)に肇輯(初輯)が刊行され、以来、天保13年(1842)に完結するまで、およそ30年にも渡り書き継がれた馬琴畢生の大作であり、また江戸読本を代表する作品でもある。安房の里見義実の愛娘・伏姫(ふせひめ)と、飼犬・八房(やつぶさ)との宿業からもたらされた、「仁義礼智忠信孝悌」の八つの水晶玉は、関八州の異なる土地で生まれ育ち牡丹形の痣を持つ八人の犬士たちを邂逅させる。中国の長編小説「水滸伝」に範を取る壮大な物語展開と緻密な構成、場面に応じた魅力的な描写で読者を浪漫的な伝奇の世界へと誘うとともに、仏教・儒教・武士道等から抽出醸成された、勧善懲悪的世界観を表現する。「八犬伝」は貸し本屋を通じて全国津々浦々で競って読まれ、その人気は広く老若男女にまで及んだ。馬琴は「八犬伝」完結を目前にして盲目となり、終結部は息子の妻・路の口述筆記によって完成された。(狩野文庫)
 
 
 
 
異国の影

19)東蝦夷ウス場所絵図面(ひがしえぞうすばしょえずめん) 写本
蝦夷地では18世紀前期に、従来の商場知行制にかわり、松前藩から経営を請け負った和人商人がアイヌを使役する場所請負制が成立した。和人商人たちは安い労賃でアイヌを酷使し、大量の自然資源を収奪した。本図は東蝦夷地ウス場所(現在の北海道伊達市付近)の彩色図面で、道を朱で描き、新道・古道・本道の区別がされている。産物、有珠善光寺、漁小屋、休所などが記されている。(狩野文庫)

20)悦贔屓蝦夷押領(よろこんぶひいきのえぞおし)恋川春町撰・北尾政美画 天明8年(1788)江戸蔦屋重三郎 3巻3冊
源義経主従が蝦夷地を平定する物語。義経の渡海伝説は室町時代の御伽草子『御曹子島渡』などに見られ、『続本朝通鑑』(1670年成立)あたりから知識人世界に広まった。昆布と数の子を大量に獲得し鎌倉の繁栄をもたらしたという本書の記述には、北前船貿易で蝦夷地の物産が盛んに取り引きされていた江戸時代後期の時代性が感じとられる。(狩野文庫)

21)蝦夷方言藻塩草(えぞほうげんもしおぐさ) 文化元年(1804)序鈴驥園 2巻2冊
アイヌ語の語彙や熟語を収録したアイヌ語辞書。源義経、弁慶なども掲載。坤巻には附録として切口上、掛け合いの実例、ユーカラの一部を収録する。(狩野文庫)

22)万国一覧図説(ばんこくいちらんずせつ)古屋野意春撰 文化7年(1810)備中倉敷香山楼社中 2巻2冊
世界地誌の書。北方地域についてはカムチャッカ、満州、韃靼などに触れる。「壷の碑」が記す靺鞨や、阿部比羅夫が討ったという粛慎を満州に比定する。源義経の渡海伝説にも言及する。(狩野文庫)

23)親敵善和鳥の俤(おやのかたきうとうのおもかげ)山東京伝撰・歌川豊国画 文化7年(1810)江戸鶴屋喜右衛門 6巻1冊
将門伝説に題材をとった敵討ち物語。陸奥国外が浜の住人善知保方は謀反を企てる将門の子息を諫めて殺害される。保方の忘れ形見である千代童が、父の仇を討つため両親の霊に守られて活躍する。なお、善知鳥(うとう)は北方の海鳥で、本州最北端(外が浜)のイメージを喚起する存在として知られていた。(狩野文庫)

24)柯素武都奇保辞(かすむつきほし)菅江真澄撰 写本
菅江真澄(1754-1829)は秋田を拠点とする近世の国学者・地誌作者として知られている。本書はその文化3年(1806)2月21日から3月26日の日記で、能代近辺の北奥羽を巡るなかで、むかし蝦夷人が居住していたと推測している。また古代・中世の北奥で勢力を振るった秋田安藤氏の祖先(高星・月星)に関する故事を収録し、題名の由来としている。

25)雄賀良能多奇(おがらのたき)菅江真澄撰 写本
真澄の文化4年(1807)5月の日記。山本郡岩館から能代を経て、米代川をさかのぼり雪沢に至る。各地の名刹を廻り、慈覚大師の伝承や好学の修験般若院(綴子)の記事などが見られる。同年4月以降に発生したロシア船襲撃事件を記録し、秋田藩出兵の様子も描かれている。

26)魯西亞人物並船之図(ろしあじんぶつならびにふねのず) 写本
レザーノフ(Rezanov,Nikolai, Petrovich, 1764-1807)を対日全権使節、クルーゼンシュテルン(Kruzenshtern, Ivan Fyodorovich, 1770-1846)を運航司令官、とするロシア使節団が、文化元年(1804)9月、長崎に来航し、通商を求めた。本書は、そのときの様子を伝えるものである。ときの幕府の全権は、目付の遠山景晋(名奉行として知られる金四郎景元の父)であった。(狩野文庫)

27)奉使日本紀行(ほうしにほんきこう) (露)クルーゼンシュテルン撰・青地盈訳・高橋景保校訂 写本 2巻2冊
ロシア海軍大尉クルーゼンシュテルンが、1803年から行った約3年間にわたる世界一周大探検の成果と、長崎の日露外交交渉の経緯を報告した公式記録『世界周航記』の邦訳である。探検隊長は、対日全権使節のレザーノフ、運航司令官はクルーゼンシュテルンであった。文政9年(1826)にシーボルトから貰い受けたオランダ語版を底本として、幕府通詞青地盈が訳し、高橋景保が校訂したものである。

28)漂客記聞(ひょうかくきぶん)大槻茂質問・津太夫等答・志村弘強記 写本 4巻首1巻2冊
文化元年(1804)長崎に来航したレザーノフに伴われ帰国した、仙台藩漂流民の津太夫たちの口述書。同3年(1806)に成立し、別名「環海異聞」という(全15巻)。大槻茂質(1757-1827、通称「玄沢」)は杉田玄白・前野良沢の愛弟子であり、当代一流の蘭学者として有名で、仙台藩医の職にあった。本書の詳細なロシア事情の記述は、その学識の賜物といえる。(狩野文庫)

29)蝦夷日記(えぞにっき)堀田正敦撰 写本 2巻2冊
長崎で日本との通商を拒否されたレザーノフ配下のロシア船は、文化3年(1806)から翌年にかけ報復として蝦夷地各所を襲った。衝撃をうけた幕府は、奥羽諸藩に北方警備を命じると共に、若年寄の堀田正敦(1758-1832)等を派遣した。本書は堀田の手になる6月から10月までの紀行文である。実父が仙台藩主(伊達宗村)であった関係で、堀田は大槻玄沢ら蘭学者との交流があり、自身博物学者としても名高い。本書は各所に和歌を挿入するなど、文人大名の雰囲気をもっている。(狩野文庫)

30)蝦夷紀行(えぞきこう)飯野瑞光撰 文化5年(1808)定所主人写本
享和2年(1802)、東蝦夷地(北海道東部・南部地域)の永続的幕領化が決定し、戸川安論・羽太正養の2名が箱館奉行に任じられた。本書は、戸川安論(やすとき)に従って赴任した幕府医師の紀行文(文化4年成立、抄写本)で、南部領を出発し箱館・オシャマンベなどを経由して宗谷に至るまでを記述している。(狩野文庫)

31)休明光記(きゅうめいこうき)羽太正養撰 写本 10巻10冊
蝦夷地の前期幕領期に箱館奉行を勤めた羽太正養(はぶとまさやす 1752-1814)の蝦夷地経営記録。文化4年(1807)来島した若年寄堀田正敦が序文を記している。羽太が関わった公務の内容やロシア人の情報を記し、幕府蝦夷直轄の顛末を知ることのできる第一級の資料である。(狩野文庫)

32)遭厄日本紀事並附録(そうやくにほんきじならびにふろく) (俄羅斯國)瓦西利兀=老尹撰・馬場貞由重譯・杉田豫補譯・青地盈補訳・高橋景保校 写本 20巻10冊
ゴローヴニン(Golovnin,Vasilij Mikhajlovich, 1776-1831)は、海軍士官として、1809年カムチャッカへ赴任し、以来、沿岸調査に従事していたが、文化8年(1811)クナシリ島で松前藩士に捕らえられて函館に送られ、2年3ヶ月の長期にわたって監禁された。本書は、この松前・函館における幽囚生活の克明な記録の邦訳であり、原本は、ロシア語で1815年に雑誌に分載され、その翌年に刊本とされた。邦訳は馬場貞由らがオランダ語訳本から行い、文政8年(1825)に訳了した。彼が拉致監禁された原因は、レザーノフ一味の武力攻撃に日本政府が過剰反応したことによる。ロシアへの不信は、文化10年(1813)9月、ゴローヴニン拉致の報復として1年余ロシアに捕らえられていた高田屋嘉兵衛が帰国し、日露両政府間を調停したことで解消された。以後、以前のような平和が戻り、幕府の北方警備も後退した。(狩野文庫)

33)蝦夷草紙(えぞそうし)最上徳内撰 写本 3巻3冊
最上徳内(1755-1836)が、天明5年(1785)から翌年にかけての幕府蝦夷地調査に参加した際の見聞をまとめた記録で、寛政2年(1790)9月の自序がある。アイヌの風俗、蝦夷地の地誌などを詳述する。当時、アイヌに和人の風俗(月代を剃るなど)を強制する動きがあり、最上は後にそれを批判している。(狩野文庫)

34)辺要分界図考(へんようぶんかいずこう)近藤守重輯 写本 7巻8冊
近藤守重(1771-1829、通称「重蔵」号「正斎」)は19世紀前半の北方探検家。文化元年(1804)の自序を持つ本書では、北方地域の地理・沿革を考証している。和漢洋78種の文献と幕府調査隊の見聞に基づき、カラフト島・千島列島・中国東北地区・ロシアについて記述している。題箋などに「近藤蔵書」の印が押されていることから、近藤氏旧蔵書と思われる。(狩野文庫)

35)外蕃通書(がいばんつうしょ)近藤守重撰 写本 全27巻目録1巻のうち12冊分
日本と世界各国の国書等を収集整理した書。シャムやルソンなど東南アジアの国々に関する記載が多く、所々に「守重按ニ」などと自らの見解が示されている。第27冊目録と第28冊が合冊されており、その裏表紙見返しに「近藤守重自筆本」と記されていることから、自筆原本と思われる。(狩野文庫)

36)蝦夷島奇観(えぞとうきかん)村上島之允撰 安政3年(1856)写本 巻子2軸
蝦夷地の地誌やアイヌの風俗を描いた画集で、寛政11年(1799)成立。村上(1764-1808)は本名を秦檍丸(はた あわぎまる)といい、伊勢の神官の子で脚力に優れ、近藤重蔵の配下として北方調査に参加した。(狩野文庫)

37)新巧暦書(しんこうれきしょ) 巻21 写本
幕府天文方高橋至時(よしとき、1764-1804)は、寛政の改暦に関わったのち、享和3年(1803)に見たラランデの『天文学』が精密を極めていることを知り、その後この書にもとづいて惑星運動論の研究に没頭した。至時は41歳の若さで没したが、これを嗣子・景保が引き継ぎ完成した。本書は、その稿本である。天保13年(1842)の改暦は本書により行われ、明治5年に至るまで用いられたわが国最後の太陰太陽暦「天保暦」を生んだ。(狩野文庫)

38)Lalande, J.-J. le Francais de, 1732-1807.
Astronomia of sterrekunde; naar den 2. druk uit Fr. vertaald door A.B. Strabbe. Deel 1-4. - Amsterdam, 1773-1780. 8 Bde. (8vo)
ランデはフランスの天文学者。パリ天文台長の要職にあり4万7千個の恒星を含む恒星表を完成するなどしている。本書『天文学』蘭訳版は享和3年(1803)に舶載され、小出長十郎の『蝋蘭垤訳暦』、高橋至時の『ラランデ暦書管見』を生むなど、当時の日本の天文学界に大きな影響を与えた。とくに至時は5惑星の楕円運動論に注目している。(狩野文庫)

39)日本経緯度実測(にほんけいいどじっそく)伊能勘解由撰 写本
伊能忠敬(1745-1818、通称「勘解由」)は江戸時代の地理学者で、隠居後に高橋至時に師事して学問の道に入り、当時としては驚異的に正確な日本全図を作成した。本書は経緯度の記録を中心とする地理書で、寛政12年(1800)に作成され、各地の北緯度数や京都を中心とした東経・西経などが記されている。(狩野文庫)

40)蝦夷日記(えぞにっき)間宮林蔵述 写本 巻子
間宮林蔵(1775-1844)は北方探検家として著名で、間宮海峡の発見で知られている。地理を村上島之允、天文を伊能忠敬に学んだ。本書はカラフトの地理、カラフトアイヌの風俗、カラフトの動植物、山丹貿易の概要について、間宮が口述したものを後の人がまとめた『銅柱余録』の写本と思われる。(狩野文庫)

41)東韃紀行(とうだつきこう)  間宮林藏倫宗 写本 3巻1冊
文化6年(1809)、間宮林蔵は樺太が島であるか、半島であるかを再確認するため、樺太西海岸へ探検に出た。本書はそのときの紀行文である。その後文政9年(1826)、幕府天文方の高橋景保は、シーボルトからクルーゼンシュテルンの『世界周航記』のオランダ語版、ゴローヴニンの『日本幽囚記』のオランダ語版等を貰い受けた。高橋は返礼として、本書と『北蝦夷図説』、伊能忠敬の日本輿地全図などを進呈したと伝えられる。そして、この進呈品が後のシーボルト事件へと繋がっていく。(狩野文庫)

42)北蝦夷図説(きたえぞずせつ、一名「銅柱余録」) 間宮倫宗述・秦貞廉編・橋本玉蘭齋畫 安政2年(1855)江戸播磨屋勝五郎 4巻4冊
全樺太の地勢、産業、交易、住居、冠婚葬祭など風俗万般にわたり、カラフトアイヌ、スメレンクル、オロッコの人種を包括して、図入りで説明した地誌である。これは『東韃紀行』と同様、間宮林蔵が行った文化6年(1809)の樺太西海岸調査に基づいて作成されたものである。(狩野文庫)

43)北蝦夷草木譜(きたえぞそうもくふ) 写本
カラフト島の植物図鑑。描かれた植物の写生場所、名称(アイヌ語・和語)、効用などが書き込まれている。(狩野文庫)

44)北夷考証(ほくいこうしょう)高橋景保撰 写本(『野作雑記』所収)
中国・ヨーロッパで作成された東北アジア地域の地図と、文化5年(1808)に行われた間宮林蔵・松田伝十郎の北方探検の成果とをあわせて検討し、カラフト近辺の地名の考証を行った書。高橋景保(1785-1829)は、父至時の跡を継いで幕府天文方に勤め各方面の情報に通じていたが、シーボルトに伊能忠敬作成の日本図などを渡した罪で入牢し獄死した。(狩野文庫)

45)Catalogus librorum et manuscriptorum Japonicorum a Ph. Fr. de Siebold collectorum. - Lugduni-Batavorum : Apud Auctorem, 1845.  35, 16 p. ; 40 cm. (fol.)
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(Siebold, Philipp Franz van, 1796-1866)による『日本収集図書目録』。125部限定で印刷された私家版の1冊である。

46)閑(しずか)なるあまり 松平定信撰 元治元年(1864)版本
松平定信(1758-1829)の海防論。定信は老中首座として寛政の改革を主導する中で、『海国兵談』で江戸湾防禦などを提言した林子平(1738-93)を処罰した。また蝦夷地についても、不毛の地とすることでロシアの進攻を防げるという非開発論に与し、時代遅れの政治家と見なされがちである。だが実際は、自ら江戸湾調査を実施し、開国も検討するなど、海防に深い関心を持ち現実的対応を模索していた。(狩野文庫)

47)防海策(ぼうかいさく)佐藤信淵撰 鶴峰戊申写本
近世後期の経世家である佐藤信淵(1769-1850)の国防論。本多利明(1743-1820)の議論を換骨奪胎する形で、ヨーロッパ諸国の情勢を分析し、むしろ日本が近隣諸地域に交易や軍事的進出を行うべきと説く。特にロシアとの対抗上、カムチャッカ領有を主張している。林子平以来明治まで続く、中国・ロシアを仮想敵国と見なす海防論の一つと言える。

48)海防秘策(かいぼうひさく)乾巻 鶴峰戊申撰 写本
近世後期の国学者として知られる鶴峰戊申(1788-1859)の経世論。諸国より江戸に流入する人々を蝦夷地に移住させることで、国内外の懸案解決を図る。前半部は国家のあり方、後半部は海防の具体策を記述する。佐藤信淵同様、本多利明の影響が見られる。

49)蝦夷漫画(えぞまんが)多気志楼主人撰 安政6年(1859)同人版
幕末から明治期の探検家で「北海道」の命名でも知られる松浦武四郎(1818-1888)が描くアイヌの風俗画。蝦夷の地誌や風俗、産業などにも言及している。松浦は精魂傾けた蝦夷地踏査により場所請負制の実態を暴き、アイヌの窮状打開を幕府、その後明治政府に期待したが、ことごとく期待を裏切られ続けた。(狩野文庫)

50)漂荒紀事(ひょうこうきじ) 写本 3巻5冊 英國魯敏遜嶇瑠須撰 和蘭某訳 [黒田麹廬]重訳
ヨーロッパ近代文学の中でわが国で最初に翻訳されたもののひとつが『ロビンソン・クルーソー』である。原著は1719年に刊行され、各国語に翻訳された。わが国には1778年頃に舶載され、その最初の邦訳が黒田麹廬による抄訳『漂荒紀事』となった。ただし、ここではキリスト教関連の文章はすべて削除され、漢文調の簡潔な文体となっている。(狩野文庫)

51)魯敏遜漂行紀畧(ろびんそんひょうこうきりゃく) 横山由清訳 安政4年(1857)刊
『ロビンソン・クルーソー』のわが国2番目の邦訳。国学者横山由清が安政4年に自費出版したもの。その和文調の流麗な訳文を洋学者箕作阮甫が『今昔物語集』に比較しながら激賞している。底本はオランダ語の絵入り民衆本であるとされる。(狩野文庫)

52)Defoe, Daniel, 1661?-1731.
The further adventures of Robinson Crusoe / written by himself [i.e. Defoe]. - London : Printed for W. Taylor, 1719. 373 p. : ill., map ; 20 cm.
デフォー著『ロビンソン・クルーソーのその後の冒険』ロンドン、1719年刊。本書は第1部「ロビンソン・クルーソーの生涯と冒険」と同じ年に執筆された第2部の初版である。(中野文庫)
 
 


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