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東北大学附属図書館/本館 平成13年度企画展

 

北方情報と大江戸

〜 文化4年エトロフ島事件を巡って 〜

講師: 菊池 勇夫(宮城学院女子大学教授)
 
はじめに
 19世紀はじめ 文化・文政期 大江戸の都市文化が爛熟した時代
   しかし、幕藩体制をゆるがし、その解体に導く要素がさまざまに出てきている時代
  とくに、対外的な外からの危機の問題がクローズアップされてきた
 対外的危機(危機として認識された対外問題)は日本の北方からやってきた
  赤蝦夷・赤人と呼ばれた18世紀後期以降のロシア人の千島列島南下
 日本(幕府)に対するロシアの通商要求
 ロシア人と日本との交渉のもつれから生じたのが文化4年のエトロフ事件
  日ロ間における最初の軍事的衝突 その衝撃の大きさはどのようなものであったの   か
 ここでは、エトロフ事件の情報が江戸にどのようにもたらされ、受けとめられたのかを
 中心に述べ、この段階の対外的危機意識の質、内実について考えてみたい
 北方で起きていたことと、天下泰平を誇るかにみえる江戸との対比、ギャップ

1 エトロフ事件とは―その歴史的背景と真相―
(1) 日ロ関係の歴史
 ロシアはカラフトからではなく、まず千島から
  アムール川流域・カラフトは清朝の支配化・影響下 
  18世紀毛皮(ラッコの皮)を求めて千島列島を南下 北千島・中部千島を支配化に
 ラッコ猟をめぐるウルップ島事件 明和8年(1771)発生
  ウルップ=ラッコ島 エトロフアイヌとロシア人の衝突
 ロシアの日本に対する通商の期待 食料・薪水の補給
  使節ラックスマンの来航 寛政4年(1792)
 一方日本側も松前藩よるアイヌ交易
  北海道東部のアッケシ、キイタップからネムロ、クナシリ島に伸びていく。
  寛政元年(1789)クナシリ・メナシのアイヌの戦い発生
  松前藩から交易を請け負った飛騨屋久兵衛の経営が引き起こす
  アイヌの戦いの背後にロシア人がいるか、幕府危惧
 寛政改革期の幕府における蝦夷地直轄論の登場
  松前藩委任論・蝦夷地放置論(松平定信)と蝦夷地の幕府直轄支配論(本多忠籌)
  北国郡代(奉行)の青森・三厩創設の動き だだし定信の退陣で頓挫
 寛政11年(1799)東蝦夷地の仮直轄 享和2年(1802)永直轄・箱館奉行設置
  ロシアへの対抗 エトロフ場所の開発 千島列島のアイヌ世界の分断を招く
 今日は主題とはしないが、日本とロシアの出現が千島のアイヌに何をもたらしたのか
  歴史を見る視点として不可欠 日本とロシアの関係・交渉史では北方史は完結しない

(2)エトロフ事件の経過
 エトロフ事件の直接の原因
  ラックスマン長崎入港の許可証をもらって帰国 定信は許容する考え持つ
  その後レザノフそれをもって文化元年(1804)に長崎来航 しかし幕府によって通商
  要求を拒絶される 幕府の対応に対する憤激 レザノフの部下による報復へ
 文化3年(1806)9月 カラフト南部アニワ湾クシュンコタン運上屋襲撃・焼き払い
  越年番人富五郎ら4人連行 当時のカラフトは松前藩管轄(幕府直轄令は翌年3月)
  この事件の情報 すぐには伝えられず 翌年3月に松前藩の役人がシラヌシに渡海し
  同地のアイヌに聞いたのが最初で、4月に松前藩を通じて箱館奉行に注進
 文化4年4?5月 エトロフ島襲撃 ロシア船2艘(人員64人くらい)
  4月24・25日ナイボ番屋焼き払い 五郎治・佐兵衛ら5人連行 
  4月29?5月3日シャナ会所攻撃 幕府役人、盛岡藩・弘前藩の勤番、越年番人ら300
  人前後の和人滞留、幕府役人の最高責任者菊地惣内は箱館行きで不在
  29日のロシア人上陸(20数名程度) 砲撃・銃撃で会所混乱 その夜抗戦を断念し
  シャナ放棄を決定 ルベツへの逃避行中、戸田又太夫が自害
  また負傷離脱した盛岡藩火業師大村治五平、シャナでロシア人に捕まる(『私残記』)
  会所・陣屋焼き払い、物資を略奪して退去 ロシア人側に死傷者ありとする証言ある
  が取り繕いの虚言か
 その後、カラフト・リイシリなど襲う 五郎治・佐兵衛以外はリイシリで解放
  シベリア連行の五郎治、種痘法を学んで帰国
 アイヌはこの事件をどのようにみていたか
  竹槍・弓矢で防御に駆り出される 交戦前ロシア人出迎えの支配人の伴をしたアイヌ
  撃たれ死亡 幕府役人らの混乱ぶりをみて山中に退避 逃げさる日本人を笑う
  アイヌにより支配人の子負傷、番人一人殺される フウレベツ退去のさい幕府役人ら
  包囲される 「新シャモ」化政策に対する不満・反発
 以上、現地にいて事件に巻き込まれた人たちの証言 自己保身・責任転嫁もみなけら ばならないが、相互に付き合わせることで事件の輪郭かなり復元できる 
 
2 誇大に伝えられた事件情報
(1)事件がどのように幕府に伝えられたか 公式ルートの伝達
 箱館奉行への報告 戸田又太夫の書状 ナイボ番屋襲撃 5月14日届く
  関谷茂八郎の書状 5月18日 シャナ会所襲撃・戸田自害 5月18日届く
  関谷手紙は現地から18日箱館に帰還した久保田見達一行がもたらしたか
 箱館奉行の幕府報告書の作成 当時箱館にいたエトロフ詰責任者菊地惣内、およびエ  トロフ経験の長い山田鯉兵衛が帰還者から事情聴取して急遽まとめる 19日に箱館  発
 報告書が描き出した事件像 『休明光記付録』
  ロシア大船2艘会所前浜に押寄せ大勢上陸 撃ち合いの戦争となる 支配人陽助負  傷したがほかに怪我人なし 上陸ロシア人700人ほど 日本側総勢230人ほど ロシア
  人5?6人を撃ち殺す 防戦かなわずルベツへの立ち退き決める 戸田はロシア人に
  追いかけられ、捕虜になるのは外聞にかかわるとして自害
  大村によると事件当事者がルベツで辻褄合わせの相談 逃亡・自害を取り繕う
  ことの真相とはかけはなれる 誇大に事件を描いてしまった
 箱館奉行・幕閣はこのような虚像認識で早急な対策を打ち出していく(次節)
 
(2)非公式なさまざまな伝達ルート
 平田篤胤『千島の白波』 エトロフ事件に関する公私の文書を集めて一冊
  事件に巻き込まれた当事者の報告・証言 箱館詰の幕府役人が書き送った書状 仙  台藩・薩摩藩・若狭藩など藩の風聞探索書 蝦夷地寺院の本寺への報告 松前町人  あるいは松前出店の商人による手紙 廻船の船頭がもたらした情報
 江戸に集まる情報 当初語られていた風聞 『我衣』(江戸の医者加藤曳尾庵の筆記)
  数千人のヲロシャ大石砲を打ちかけ夜討 日本人多く傷者となり擒となる者もいた    が、多くは手軽く引き取り 蝦夷の者多く擒になる ヲロシャ人6?7人打ち取るが、わ
  ずか300に足りず日本人敗走 「剛勇の人」戸田はヲロシャ人6?7人を切り倒す し
  かし八方取り囲こまれてしまい、終いに立腹を切って失せた 目ざましい働きに、こ
  の頃の諸説に戸田を美讃しないものはない 戸田の子息は召し出され本領安堵され  た
 全国を飛び交う風聞 日本海廻船を通した西回りの情報ルート
  たとえば6月17日大津に敦賀から届いた書状(『玉尾家永代帳』)では エトロフ島異
  国船に乗っ取られ クナシリ島に陣取った日本勢と砲撃戦 クナシリの日本勢はアイ
  ヌを含め700人ほど打ち殺された
 情報がどんどんエスカレートし、事実から遠くなっていくさま
 幕府による情報取締り 江戸では「蝦夷地の騒動むさと申すまじき旨御触出る」(『我
 衣』) 京都でも6月町奉行、「浮説」を言いたてた者は処罰するとの町触
  
3 幕府の対応と仙台藩の出兵
(1) 箱館奉行の対応
 エトロフの次ぎにはクナシリ・ネモロ・アッケシを攻撃するか、という帰還者の話
  ロシア人の蝦夷地侵入を防ぐ 防備隊の派遣
 東蝦夷地直轄下の勤番 盛岡藩・弘前藩 定式250人 箱館詰の両藩役人に増人数促 す
 5月18日 秋田藩・鶴岡藩に対して臨時人足の派遣を求める書簡送る
 その結果、4藩で3000人 箱館・サワラ・ウラカワ・アッケシ・ネモロ・クナシリ・松
 前・エサシ・ソウヤ・シャリに分遣・越冬 道東・オホーツク海沿岸に防御線展開
 箱館奉行から直接奥羽大名に指示(幕閣・老中を介さない) その根拠はどこに
  箱館奉行宛下知状 異国船不慮着岸のさい盛岡・弘前両藩へ増人数の要請できる
  しかし、秋田・鶴岡はその規定外 寛政3年(1791)書付 異国船漂着のさいには向
  寄大名に人数・船を出させることができるとする法令が根拠か

(2) 幕閣の対応
 幕閣は箱館奉行とは違った方針をもつ
  6月1日 仙台藩500人・秋田藩300人の人数用意を命じ、箱館奉行の要請次第出兵 
  6月4日は八戸藩へも出兵の命 幕閣は仙台藩を中心とした防備を考える
  ただし箱館奉行および秋田藩・鶴岡藩からの報告を受け、それを容認
  二つの指揮系統交錯 この場合は現地の判断を優先
 若年寄堀田摂津守正敦(近江堅田藩主)の派遣決める 6月6日
  堀田は仙台藩の伊達家から養子に入る 当時の藩主政千代の大叔父 堀田には伊 達従う家老以下総勢336人 大目付中川飛騨守忠英、目付遠山左衛門尉景晋らも派  遣
  6月21日江戸出立 7月26日箱館着 ウス・松前・江差を廻り9月12日松前出帆
 箱館奉行報告書の虚偽性暴かれる
  リイシリで解放された番人7人・大村治五平の箱館での事情聴取 
 11月箱館奉行羽太正養以下、エトロフ関係役人の処罰 羽太は奉行罷免・小普請入り  山田は役儀召し放ち・御目見以下小普請入り押し込め 自殺した戸田は宛行・屋敷   没収関谷・児玉は重追放 菊地は事後エトロフ島に渡ったが江戸着後山田と同様の  処分
  事件について相違の申し立て 監督不行き届きが理由
 『我衣』加藤曳尾庵も「段々風説を聞に、大に相違也」と記す 千余人の人数とされた
  ロシア人わずか61人 解放された捕虜の証言で「左程の事にてもなき事、明白に知れ
  ける也」

(3) 仙台藩のクナシリ・エトロフ出兵
 文化5年(1808)盛岡・弘前両藩に加え、仙台藩・会津藩動員される
  文化5年2月の松前奉行(箱館奉行改称)の派遣予定 エトロフ・クナシリ・ネモロ・
  ホロイズミ・サワラ・箱館・カラフト・シャリ・テシホ・ルルモッペ・マシケ・熊石・ 
  松前に合計4000人 文化4より増強 エトロフ・カラフトへの派遣
 仙台藩の場合 エトロフ700人 クナシリ500人 箱館800人の予定
  実際にはエトロフ、御備頭日野英馬以下623人 クナシリ、御備頭高野雅楽以下523
  人 箱館、御備頭芝田兵庫以下431人・御備頭斎藤徳蔵以下394人 合計1971人
 多くの犠牲者を出したクナシリ派遣隊 八〇人余が腫病・紫斑病により死亡
  従軍した医師高屋養庵の日記に様子詳しい 他にシャリ派遣の弘前藩も犠牲者多数
 戦争死ではない犠牲者 過剰反応が生み出した悲劇?

4 エトロフ事件における危機意識の諸相
(1) 高ぶる危機意識
 シャナ会所を放棄した戸田又太夫らに対する非難
  箱館在住の田中伴四郎 「死ても死様悪しき故、何にもならす犬死」「日本国の大恥」  国家的な自尊心が傷つけられたと受けとめる
 性急なロシア排撃論の登場
  兵学者平山行蔵 無頼の族・盗賊博徒・禁獄の者による「軍兵」派遣 「蛮夷を以蛮
  夷を攻る」 
 しかし世論はロシア敵対で凝り固まったわけではなかった
  杉田玄白 今は弱兵、戦うのは回避 ロシアに交易を許し軍兵を調練すべし
  松前奉行 ロシア側が非を詫びるならば交易を許可してもよい
  松平定信 武威のかたちがつけば交易を容認してもよい
 幕府は狼藉を謝罪したうえで交易を願い出るべしとの手紙 ロシア船来ず渡されず
  ロシアに交易の道をひらく可能性がエトロフ事件にもかかわらず残っていた
  まだ「鎖国」の攘夷主義とは多少距離があるというべきか

(2) 危機感の落差 東北地方と江戸のギャップ
 文化4年5月18日津軽鰺ヶ沢入港の竜徳丸船頭吉五郎の見聞(『千島の白波』)
 鰺ヶ沢・八戸・三厩辺の漁師、百姓、町人 ロシアが攻めてくるかと立ち退きの準備
  今来た、それ来た」と大変動揺している様子
 これはエトロフ事件の情報と、松前・箱館沖に出現したアメリカ船とを混同
  アメリカ船 ボストンのイクリプス号 広東より帰帆 4月27日長崎来航 薪水・食
  物を願い与えられる 5月2日出帆 日本海を北上し、津軽海峡を抜ける
 東北諸藩の出兵や幕府役人の通行 人馬継立の負担も増え難渋
 いっぽう、江戸ではどのような状況であったか
 船頭吉五郎 江戸表も大騒ぎかと思って江戸に戻ると、予想外の安穏さに驚く
  花火・涼船のにぎにぎしさ 江戸の民衆にとっては僻遠の地のできごと 
 『我衣』(江戸の医者加藤曳尾庵の筆記) 「此時江都の諸説紛々として安き心もなかり
  し。されども太平の有難さには諸商売、さして替る事もなし」 太平の世を謳歌

(3)落書のなかのエトロフ事件 
 江戸の落書の題材としてのエトロフ事件
 『藤岡屋日記』に書きとめられた落書 「四十九労凶」「碁の詞」「堀田摂津守五大力」
  「文化四丁卯夏蝦夷騒動之節評書」「外国舞」「流行いたこぶし」「仮名手本忠臣蔵九  段目」「めりやす五大力」「蝦夷鹿子むだ手道成寺」「忠臣蔵九段目之内」「老中庵御   列座小田原評議」「火伝鉄砲御丸薬」「堀田大か座くり」「蝦夷の噺し」「ヲロシャ人奥   蝦夷江来りし時五音相通」「異国物大早利」「荒増油断付け、左ニ申上候」、ほかに漢  詩・狂歌・連歌の類  ※『落書類纂』
 ここから何を読み取るべきか 諷刺・諧謔・批判精神 不安が生み出したものであるが
 緊迫感乏しい 

おわりに
 文化4年の江戸の話題
 「討死と落死をする蝦夷と江戸 それハ箱だて是ハはこ崎」(『藤岡屋日記』)
 「討死と落死とする海と川 蝦夷は箱館江戸は箱崎」(『一話一言補遺』) 
 「遠近のえの字尽くしは恐ろしや えぞにエトロフ江戸に永代」(『文政雑説集』)
  エトロフ事件と並んで永代橋の橋が落ちたこと 落書の恰好の題材となる
 深川八幡宮祭礼 8月15日雨天 19日に延引 本祭で山車・練りもの渡り 
  ますます見物大勢群集 そのため昼9ツ時ころ永代橋崩れ落ちる
  水死・怪我人多し 死傷者千数百名 死者400人余りの大惨事
 祭礼に集まる群衆 大江戸の遊楽文化 市民社会化を物語る事件
 エトロフ事件もこのような江戸文化にかき消されてしまう
 北辺の変事と江戸庶民のくらしとの間には、まだ大きなへだたり 
 
 
 


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