展示資料解説集

1.近世社会のはじまり

 1-1)京童(きょうわらべ)

 中川喜雲撰 明暦4年(1658) 京都平野屋佐兵衛刊

 神社仏閣・名勝を中心に洛中洛外87ヶ所の由来・伝説を記した京都の名所案内記。京都で出版された地誌としては『洛陽名所集』とともに最古のもので、後続の地誌風の仮名草子に多大な影響を与えた。医師で俳人である著者を少年が案内するという趣向をとり、著者自身による狂歌・俳諧などが挿入されている点で娯楽的読み物としての側面を持つ。しかしながら『京雀』(1665年刊)、『京羽二重』(1685年刊)と時代が進むにつれて娯楽性は希薄となり、実用的地誌へと転換していくことになる。(狩野文庫)

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 1-2)江戸惣鹿子(えどそうがのこ)
 松月堂不角撰 元禄6年(1693)刊 7巻6冊(巻1欠)

  江戸においても、『江戸名所記』(1662年刊)から『江戸雀』(1677年刊)にかけて、実用の側面が強調された。『京羽二重』にあやかり、関東特産の鹿子しぼりにちなんで名づけられたのが貞享4年(1687)刊の『江戸鹿子』で、本書はその増補版か。名所紹介風の記述は薄れ、各町内の地誌を中心に職業別電話帳方式を取り入れるなどして、総合的な情報を提供している。著者の不角は、平明・通俗的な俳風で多くの門人を集めた俳人。(狩野文庫)

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 1-3)難波雀(なにわすずめ)

 水雲子撰 延宝7年(1679) 京都小島長右衛門・大坂古本屋清左衛門刊

 大坂の経済・文化や町制などを概観できる実用的な地誌。大坂の袖珍本案内記としては現存最古のもの。『京雀』(1664年刊)、『江戸雀』(1677年刊) とともに「三雀」と称される。大坂城代・町奉行以下の諸奉行・代官、大名屋敷、諸問屋・諸商人、医師・俳諧・諸芸師、年中行事、芝居など、150項目が収められている。同時期の『江戸鹿子』『京羽二重』よりも成立が早く、充実した内容を持つと評される。(狩野文庫)

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 1-4)人倫訓蒙図彙(じんりんきんもうずい)

 蒔絵師源三郎画 元禄3年(1690) 江戸村上五郎兵衛等刊 7巻7冊

 公卿から庶民にいたるまで、各階層の人物や道具を簡潔な説明と 470余の挿絵をもって解説した図解便覧。高い評判を得た『訓蒙図彙』(初版は寛文6年序刊)をもとに各種の訓蒙図彙が出版された。京都の状況を中心に書かれているが、項目によっては大坂・江戸の代表的店舗なども挙げている。元禄期前後の風俗・生活を知るうえでの貴重な資料である。蒔絵師源三郎は、井原西鶴の挿絵画家でもある。 図説は農民、職人、商人を中心に上は大臣・公卿から武士、僧侶、歌人、学者、医者、さらに遊女、勧進聖、門付の類にまで及ぶ。(狩野文庫)

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 1-5)女用訓蒙図彙(おんなようきんもうずい)

 奥田松柏軒編 吉田半兵衛画 元禄元年(1688) 京都武田治右衛門等刊 5巻5冊

  江戸前期の女性の心得を記した往来物。『人倫訓蒙図彙』巻一に「女道具略す、女用訓蒙図彙にみえたり」とあるように、婚礼に関する儀式や道具などが図解されている。このほか日常の礼儀作法や一般教養について、道徳的立場から述べられている。(狩野文庫)

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 1-6)町人嚢 附町人嚢底拂(ちょうにんぶくろ)

 西川如見撰 享保4年(1719) 京都小川多左衛門刊 7巻7冊

  天領長崎の有力な町人(地役人)で、同地の生んだ最高の知識人ともいわれる西川如見(1648-1724)の晩年の著作。如見は早くから朱子学を身につける一方、地の利を生かして最新の天文・暦学を学び、後年江戸に上って渋川春海・新井白石らと並称された。本書は、豊富な学識を駆使して民衆の守るべき心得を記述したもので、朱子学的人倫にもとづく身分秩序を強調する一方、儒者にありがちな中国至上主義や愚民観から脱却していく合理性が認められる。(狩野文庫)

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 1-7)オランダ連合国東インド会社遣日使節紀行

 モンタヌス著 1669年 アムステルダム刊

Denkwurdige Gesandtschaften der Ost-Indischen Gesellschaft an unterschiedliche Kayser von Japan, mit sieben Kupferstiche.- Amsterdam: [J. Meurs], 1669. - 11-443 p., plates; 30 cm.

 モンタヌス(Montanus, Arnoldus, 1625-1683)はオランダの宣教師、著述家であり、彼自身は日本を訪れていないが、イエズス会の日本通信、平戸・長崎の商館記録などをもとにして本書を編纂した。その内容は、織田・豊臣時代から徳川初期にかけての約1世紀におけるわが国の主要な事件をヨーロッパ人の眼を通して眺めたもので、当時の地理、風俗・習慣ならびに信長から秀吉、家康にいたる覇権の推移を事実に忠実に詳細に述べている。挿絵については、かかる記述をもとにかの地で描かれたために我々の眼からは奇異の念を禁じ得ないものも多いが、わが国をヨーロッパに総体的に紹介した書物としてほぼ最初のものである。ラテン語初版の刊行後、はやくも翌年には各国語に翻訳された。本書はその独訳版。

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 1-8)ゑ入 江戸大絵図(えいり えどおおえず)

 貞享元年(1684) 江戸表紙屋市郎兵衛刊 [デジタル展示]

 17世紀中頃までの近世初期の地図は大形図が多く、遅れて小形の懐中図、やがて切絵図等が作られていく。江戸地図は、寛文10年(1670)遠近道印作・経師屋刊が実測図のはしりで、その後中村市郎兵衛、林吉永といった版元からも大形図が次々に刊行された。その背景として、年々成長を続ける江戸の町の変化の激しさが挙げられる。この表紙屋刊の図は、林吉永刊図などとよく似た構図で、貞享末年まで発行された。武家地が6割を占める城下町の様子や、明暦大火以後作られた火除地や広小路の所在が示されている。(狩野文庫)

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 1-9)京大絵図(きょうおおえず)

 貞享3年(1686) 京都林吉永刊  [デジタル展示]

 京都の都市図は、皇都として江戸・大坂に先行し寛永年間に出版が始まった。版元の林吉永は「御絵図所」と自称し、この地図の高い評価によって業界に君臨した。本図は元禄文化を先取りしたような華麗さに特徴を持ち、手彩色で余白を地誌で埋めた観光図である。豊臣秀吉の都市政策による寺町の寺院群や御土居の残存、三条大橋から東へ東海道が伸びていく様子などが明瞭に見える。(狩野文庫)

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 1-10)遍歴記(へんれきき)

 ピント著 独訳初版 1671年 アムステルダム刊

Wunderliche und merkwurdige Reisen Ferdinandi Mendez Pinto, welche er inerhalb ein und zwanzig Jahren, durch Europa, Asia und Africa und deren Konigreiche und Lander... - Amsterdam: Bey Henrich und Dietrich Boom, 1671. - [4], 392 p.,illus.; 20 cm.

 ピント(Pinto, Fernao Mendes, ca. 1509-83)はポルトガルの旅行家。流浪して海賊に捕らえられ、奴隷として売られるなどの体験をした。東インド渡航船で故国を去り、アフリカ、アジアを遍歴、日本にも4度訪れた。彼みずから語るところによれば、1543年のポルトガル船による種子島鉄砲伝来者の一人であった。わが国に初めてキリスト教を伝えたサヴィエルと会見し、多大な影響を受けて回心した。本書の日本に関する記述もサヴィエルを主人公とする宣教物語となっている。ピントは、のちにイエズス会を脱会したため、あらゆる歴史記述からその名を抹消され、著書は荒唐無稽な冒険譚として扱われたが、近年再評価が行われつつある。初版は1614年に刊行された。

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 1-11)ウイリアム・アダムス書簡(1598年5隻の船によるオランダから東インドへの旅行と日本におけるアダムスの身辺事情に関する2通の書簡) 

 アダムス著 和蘭訳版 1706年 ライデン刊

Twee Brieven van William Adams; wegens sijn reys uyt Holland na Oost-Indien, met vijf Schepen, Anno 1598 en vervolgens. En wat ontmoetingen hem in Japan overgekomen zijn. Nu alterst uyt Engelsch vertaald. - Te Leyden: By Pieter Vander Aa, 1706. - 24, [2] p., map. 1 illus.; 18 cm.

 慶長5年(1600)オランダ船リーフデ号の船長としてわが国に漂着した最初のイギリス人、ウイリアム・アダムス(Adams, William, 1564-1620 三浦按針)が、これまでの航海と家康との謁見などの事情を記して、1611年、故国の同胞に送った書簡と、1605年彼の妻に送った書簡のオランダ語訳である。1598年6月、5隻の艦隊で出帆した彼は、マゼラン海峡から太平洋に出たのち、1600年2月暴風雨に遭遇し、彼の船艦だけが臼杵湾に漂着した。生存者は僅か24名、うち動ける者は5名にすぎなかった。アダムスが家康に顧問として重用されたことは、その後のイギリス・オランダの日本進出にとって大きな機縁となった。

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 1-12)東北韃靼諸国図誌 野作雑記訳説(とうほくだったんしょこくずし えぞざっきやくせつ)

 ニコラース・ウィッセン撰・馬場貞由訳 文化6年(1809)序 6巻2冊 写本

 1643年にオランダ船2隻が日本の北方地域を調査し、報告書が1677年に、地理学者ウィッセンによりNoorden Oost Tartaryenの題名で出版された。長崎の蘭語通詞馬場が長崎奉行の命により、その1785年版のエゾに関する部分を翻訳し註を付けたもの。(狩野文庫)

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 1-13)坤輿萬國全圖(こんよばんこくぜんず)

 マテオ・リッチ(利瑪竇)作 慶長7年(1602)刊 図彩色 2舗 写本 [デジタル展示]

 イタリア人のイエズス会士、マテオ・リッチ(Matteo Ricci, 1552-1610)が、中国でのキリスト教伝道にあたって作製した世界図。鎖国時代の日本にも舶載され、新井白石の『采覧異言』など、江戸中期の世界認識に絶大な影響を与えた。リッチは、1584年にヨーロッパ製地図を漢文に移した最初の世界図を作製しているが、これは現存せず、明の高官・李之藻の力添えで1602年に作製した「李之藻版」が「坤輿萬國全圖」である。原本は単色であるが、伝来した版本から何本かの写本が作られており、その際彩色が施されるとともに地名の一部は書き改められ、仮名が振られた。また、版本は六幅より成るが、この写本は東西に大きく2つに分割されている。(狩野文庫)

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 1-14)蝦夷乱紀事(えぞらんきじ)

 中西勘右衛門述 写本

 寛文9年(1669)シャクシャインを中心とするアイヌが蜂起した事件は、幕藩領主に大きな衝撃を与えた。当時、幕府首脳は蝦夷地と清国が陸続きと誤認しており、アイヌが清国の先兵となって日本侵略を開始したと誤解したのである。乱自体はただちに鎮圧されたが、軍事動員された東北諸藩に強い印象を与えた。本書は当事者の口述を記録したものであり、のちに6代将軍の側近で、しかも日本を代表する知識人であった新井白石は、こうした資料をもとに『蝦夷志』を編纂したといわれる。(狩野文庫)

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 1-15)琉球軍記(りゅうきゅうぐんき)

 作者未詳 5巻2冊 写本

 関ヶ原の敗戦後、慶長7年(1602)に本領を安堵された薩摩藩は、同14年に至って幕府の了解のもとに琉球国へ進攻し、圧倒的な武力によって制圧した。本書はその侵攻を描写した軍記である。翌年、国王尚寧は島津家久に伴われて駿府で徳川家康に拝謁し、以後琉球国は日本の支配下に入る。(狩野文庫)

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 1-16)華夷変態録(かいへんたいろく)

 林春勝(鵞峰)編 写本

 延宝元年(1673)に、「抗清復明」を旗印とする明の遺臣による反乱(三藩の乱)が発生した。江戸幕府は琉球に対し反乱軍への硫黄供給を命じるなど、間接的な支援を行う。こうした中で幕府の儒官であった鵞峰(羅山の子で林家を継ぐ)が、それまで長崎来航の中国船に提出させてきたレポート(唐船風説書)を集大成したのが本書である。延宝2年(1674)6月8日付の鵞峰の序文には、幕府の意向に沿って清(夷)の滅亡と明(華)の復興を願う文章がある。それだけに、1681年に三藩の乱が鎮圧されたことは、幕府に深い危機感を与えた。

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 1-17)大学或問(だいがくわくもん)

 熊沢了介(蕃山)撰 天明8年(1788) 大坂泉本八兵衛等刊 2巻2冊

 貞享4年(1687)ころ成立した時務策の書。清国を「北狄」と蔑称し、鎌倉時代のモンゴル襲来のような事態を予想して「来年の春夏…寄せ来らんには、当年八九月より用意」が必要と説く。一般論ではなく、その時その場所での必要な対策を重視した蕃山らしさが示されている。しかしながら、為政者にしてみればこの種の知識人は煙たい存在に違いなく、あるいは蕃山がこの年の暮に幽閉されるに到る一因であったかもしれない。(狩野文庫)

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 1-18)国性爺合戦(こくせんやかっせん)

 [近松門左衛門原作] 鳥居清満画 3巻1冊 刊本

 正徳5年(1715)に人形浄瑠璃として初演され、爆発的な人気をうけて後に歌舞伎でも上演されたものが絵本となった書。主人公の和藤内は、明の遺臣鄭芝龍と日本人の母との間に生まれ、台湾を拠点に反清活動を行った鄭成功がモデル。韃靼(清)に滅ぼされた明国再興のため日本から中国に渡海し、異母姉の協力を得てはなばなしく出陣する。(狩野文庫)

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 1-19)日本年報(にほんねんぽう) 1588.2.20(天正16.1.24)付 

 フロイス著 独訳初版

 Jahrbrieff auss Japon geben zu dem ehrwurdigen Herrn General der Societet Jesu, den 20. Feb. 1588., [1590.] - 151 p., 16 cm.

 ポルトガルのイエズス会士で、フランシスコ・サヴィエルの後を承け、永禄6年(1563)来朝したルイス・フロイス(Frois, Luis, ca.1532-1597)が、日本伝道の状況や当時の国情などを記して、有馬からローマのイエズス会総長に送った報告の集録。その最初のドイツ語版である。禁教の嵐の前触れのなかでフロイスは、迫害にあって殉教した日本人修道士を悼み、先を争い国外に脱出を図る宣教師や、自分自身の逃亡にも似た生活を嘆いている。また、その一方で、あらゆる教義に通じた聡明な女性、細川ガラシャ夫人について感慨をもって報告している。日本が鎖国にいたる最後の瞬間である。

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 1-20)小加呂多(しょうかろた)

 写本 [デジタル展示]

 豊臣秀吉が本格的に実施した朱印船貿易は、徳川政権の初期に全盛期を迎える。政府公認の多くの日本商船が中国南部から東南アジア方面に進出し、生糸や砂糖などを輸入し金属や硫黄、樟脳などを輸出した。朱印船が用いた海図の現物は革製だったといわれる。その様子を伝える資料は、現在20点程度しか所在が確認されていない。本図はその1つとして、当時の日本人の地理認識を示す貴重な資料である。(狩野文庫)

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 1-21)島原記(しまばらき)

 作者未詳 宝永元年(1704) 大垣平流軒利兵衛刊 3巻3冊

 寛永年間は、寺請制度が全国的に普及し、とりわけキリスト教徒へ厳しい迫害が行われた。そんな中で寛永14年(1637)、長崎県の島原半島で益田時貞(1623-1638、=天草四郎)を中心に大規模な一揆が起こり、一時は幕府軍を撃退して気勢を挙げた。本書は、その戦闘の様子を描いたものである。結局、老中松平信綱が率いる幕府軍によって、一揆は翌年に平定されてしまったが、幕藩領主のキリシタンに対する恐怖と敵意は、時間をかけて日本中に広がり定着させられた。そして、キリスト教徒弾圧を目的の一つとして、海禁政策の完結や寺檀制度の確立が図られた。(狩野文庫)

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 1-22)天草島図(あまくさしまず)

 写本 [デジタル展示]

 島原の一揆は、寺沢堅高を藩主とする天草諸島にも及び、一揆軍の頭目益田時貞の出身地大矢野島を中心に幕府軍への抵抗が見られた。一揆鎮圧後寺沢領は没収され、以後おおむね天領として明治に到った。一揆に加わった人々に対する激しい弾圧などにより農地は荒廃し、石高も3分の2ほどに減少したと伝えられる。本図は寛文元年(1661)の年記を持ち、一揆後の島の様子を示している。(狩野文庫)

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 1-23)朝鮮国権[チョク]筆語(ちょうせんこくけんちょくひつご)

 石川大拙(丈山)編著 天和2年(1682)京都丁子屋源兵衛刊

丈山(1583-1672)は曾祖父以来の徳川家臣の家に生まれたが、大坂夏の陣に際し軍令違反により家康の勘気を蒙り、一時を除いて京都近辺に隠棲し文人として知られた。寛永14年(1637)正月、朝鮮通信使の帰還途次、京都で会見を果たした折の筆談の記録が本書である。丈山は、できることなら通信使に随って朝鮮、中国まで渡りたいと嘆息し、また自作の詩に対する批評を依頼している。友人の羅山や堀杏庵の話題も出ている。学士権[チョク]は丈山の詩を「日東の李杜」と賞賛し、その話がやがて広く喧伝され丈山の名を高めた。その4年後、丈山は郊外一乗寺村に移り、詩仙堂主人として一生を終えた。(狩野文庫)

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 1-24)東照宮大権現縁起(とうしょうぐうだいごんげんえんぎ)

 天海ほか撰 5巻1冊 写本

 3代将軍徳川家光が幕府の威信をかけて遂行した日光東照宮の大改築が、寛永13年(1636)に完成した。それは、将軍家始祖徳川家康を祀る幕府の聖地誕生を意味していた。同年江戸に到着した朝鮮通信使一行は、予定になかった日光への参詣を要求され、詩文の製作までを強要されたのである。幕府はそうした手段によって、東照大権現家康の威光が東アジアの国々にまで及んでいることを演出した。本書の原本は寛永17年(1640)の家康25回忌に際して東照宮に奉納された縁起絵巻で、重要文化財に指定されている。(狩野文庫)

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 1-25)日本誌(にほんし)

 ケンペル著 独語初版 1779年 レムゴ刊

 Geschichte und Beschreiburg von Japan. Aus den Originalhandschriften des Verfassers hrsg. von Christian Wilhelm Dohm... Zweiter und letzter Band, mit Kupfern und Charten. - Lemgo: Verlage der Meyerschen Buchhandlung, 1779. - [4-]478 p., 26 cm.

 エンゲルベルト・ケンペル(Kampfer, Engelbert, 1651-1716)は、ドイツ人の旅行家・医師・博物学者。長崎出島のオランダ商館付医師として元禄3年(1690)より2年間滞日、この間2度にわたって江戸参府に同行し、帰国後、その体験をもとに日本の歴史、地理、政治、宗教などを記述した。その手稿類が著者没後、スイス人博物学者ショイヒツァーによってまとめられ、1727年に出版されたものが『日本誌』である。勤勉で誇り高く礼儀正しいといった紋切り型のイメージも少なくないが、ヨーロッパ人による徳川時代前半の記事としては最も精確なもので、ヨーロッパにおける日本理解に多大な影響を与え、その影響は19世紀後半に至るまで続いた。また、1729年に蘭訳版が出版されるとわが国にも相当数が舶載され、かの渡辺崋山のごときも入手している。本書附録の一篇は、享和元(1801)年、長崎和蘭通詞志筑忠雄によって『鎖国論』として訳出されたことでつとに有名である。

 2. 知と文化の広がり

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 2-1)伊勢物語 

 慶長13年(1608) 嵯峨本 五色紙刷

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 2-2)つれつれ艸(徒然草) 嵯峨本 雲母刷

 嵯峨本

 嵯峨本は、その優雅な名称にふさわしく、書体・料紙ともに配慮の行きとどいた美しい刊本である。印刷は近世初期日本に導入された新技術である活字によるものとされているが、二字・三字の連続活字を用い、写本のような続け字の流麗さを出している。展示の資料には手擦れや書き込みがみられ、飾り物ではなく実際に昔の人の読書生活を彩ったのではないかと想像される。(狩野文庫)

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 2-3)仁勢物語(にせものがたり) 刊本

 仮名草子。『伊勢物語』のパロディーで、王朝の恋物語が、近世の食物・金銭といった卑俗なはなしに置きかえられ、その落差が笑いをさそう。キリシタン禁制や島原の乱など当時の事件が取込まれているのも注目される。(狩野文庫)
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 2-4)なくさみ草(慰草)

 慶安5年(1652)跋 刊本

 『徒然草』の注釈書。絵入の刊本注釈書としては早い時期のもの。各段の趣旨や論評などを記した「大意」がこの書の特色とされる。これは松永貞徳の見解を示したものであるが、自己の体験談も含まれているのが興味深い。

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 2-5)改正頭書 つれつれ艸絵抄(徒然草絵抄)

 元禄4年(1691)版

  本文の上の欄に収められた絵が注釈の役割を果たしている。

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 2-6)業平昔物語(なりひらむかしものがたり)(伊勢物語ひら言葉)

 紀暫計和述 菱川師宣画 [延宝6年(1678)]跋 柏屋与市郎

 『伊勢物語』をやさしく説き直した書。跋文に「さすがに和歌の秘する所の伊勢物がたりの面影をかくいやしきことのはに述べやはらぐる事空おそろしき事に侍れど」とあるが、それほど甚だしい通俗化がなされているわけではない。(狩野文庫)

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 2-7)百人一首像讃抄(ひゃくにんいっしゅぞうさんしょう)

 菱川師宣画 延宝6年(1678) 江戸鱗形屋三左衛門刊

 百人一首の絵入注釈書。作者の肖像に、和歌の内容や詠まれた状況を説明する絵が添えられている。(狩野文庫)

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 2-8)やまと絵づくし 

 菱川師宣画 延宝8年(1680) 江戸鱗形屋三左衛門刊

 古典文学・説話等を題材とした絵を収める。(狩野文庫)

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 2-9)岩木絵つくし 

 菱川師宣画 天和3年(1683) 江戸鱗形屋刊

 風俗画のほか、花鳥を描いた絵を含む。 (狩野文庫)

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 2-10)和国百女 

 菱川師宣画

 当時の女性の様々な姿を描く。「百」は「多数」の意味。(狩野文庫)

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 2-11)好色一代女 

 明治23年(1890)写 写本

 近代に入り、西鶴が再評価されるようなった頃の写本。書写に関わった人物の名は何故か墨で塗りつぶされているが、蔵書印から尾崎紅葉及び大橋(渡部)乙羽の旧蔵書と考えられている。尾崎紅葉は熱心に西鶴の作品を書写していたようであるが、彼自身の作品にも西鶴の影響が見られるという。(狩野文庫)

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 2-12)世間胸算用 

 元禄5年(1692)刊

 西鶴の代表作の一つ。副題に「大晦日は一日千金」とある通り、成功譚を多く収める『日本永代蔵』とは対照的に、大晦日をいかに乗り切るかで泣き笑い奮闘しまた捨て鉢にもなる普通の人々の話。(狩野文庫)

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 2-13) 西くはくをきみやげ(西鶴置土産) 

 元禄6年(1693)

 西鶴の遺稿集。西鶴の肖像と辞世の句「浮世の月見過しにけり末二年」が掲げられている。西鶴は元禄6年に「人間五十年」より二年多い五十二歳で亡くなった。(狩野文庫)

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 2-14)風流源氏ものかたり(ふうりゅうげんじものがたり)

 都の錦撰 元禄16年(1703) 京都河勝五郎右衞門・江戸升屋五郎右衞門

 『源氏物語』の桐壺・帚木巻を通俗化したもの。和歌には傍注を、特殊な語彙には割注をつけるという学術書めいたところと、登場人物の羽目を外した言動や近世のそれとしか思われない風俗の描写が同居している。ちなみに、本書が刊行された元禄16年は赤穂浪士が切腹した年である。都の錦の著した『元禄大平記』には西鶴に対する強い対抗意識がうかがえる。(狩野文庫)

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 2-15)播磨椙原(はりますぎはら)

 宍戸鉄舟撰 宝永5年(1708)成 写本

 題簽に朱筆で「都之錦作」とある。赤穂事件を題材とした作品。目録にも朱筆で「忠臣蔵」との関係についての見解が書き付けられている。(狩野文庫)

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 2-16)太平記大全(たいへいきたいぜん)

 西道智編著 41巻50冊 万治2年(1659)刊

 慶長の末から元和年間にかけて、中世成立の『太平記』にもとづきながらも、それを近世的に改変し現実性・功利性を重視した「太平記読み」が流行した。さらに出版業の展開によって、太平記講釈の刊行が始まった。代表的な書が、本書と『太平記綱目』(原友軒編、1672年自序刊)である。その結果、17世紀前半までは御伽衆の口から上層武士に講じられることの多かった太平記講釈が、より広く受容されるようになり、社会の各方面への影響力を強めていったとされている。(狩野文庫)

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 2-17)羅山先生文集(らざんせんせいぶんしゅう)

 林羅山撰 林鵞峰など編並校 147巻60冊 寛文2年(1662)奥書 家刻刊

 功利でなく道徳の実現を目指した青雲の志に反し、羅山(1583-1657)が幕府で与えられた仕事には兵書や戦記の講釈などが多く含まれていた。近世初期の武家社会では、儒学の高邁な政治論より、御伽衆の語る太平記講釈などが人気を博したのである。羅山の一生は、文書事務を担当しつつ林家の家格を上昇させることに費やされたが、政権内にとどまっての宮仕えは「曲学阿世」の謗りをうけ、時として「余が如き者…天地の間の一廃人なり」の歎きを抑えがたかったようだ。しかしながら、彼が外交文書や諸法度の起草、史書の編纂などで果たした功績は、近世の学問などを考える際に見落とせない。本書は羅山の死後、子息の鵞峰と読耕斎が編集したものである。(狩野文庫)

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 2-18)本朝画史(ほんちょうがし)附画印

 狩野永納撰・黒川道祐補 元禄6年(1693)京都丸屋源兵衛 吉野屋惣兵衛刊 5巻附1巻6冊

  永納(1631-1697)は絵師狩野派のうち京狩野と呼ばれる一派の代表的画家である。本書は2年前に刊行された『本朝画伝』の改訂版で、大和画と漢画が狩野派の手で合流・統一されたことを説く。独特の画論や405名の画家伝など、日本絵画史研究の上で最も重要な著作の1つと言われる。永納は本書に序文を寄せられるなど林鵞峰と親交があり、伊藤仁斎とも交流があったらしく、さらに水戸光圀を中心とする『大日本史』編纂事業にも関わっていたことが指摘されている。当時の文化人たちのジャンルを越えた交流を背景に本書のような成果の生まれたことが考えられる。(狩野文庫)

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 2-19)三十六歌仙(さんじゅうろっかせん)

 秋田実季筆 狩野永納画 折本 写本

 見開きごとに在原業平、小野小町など著名な歌人の絵と歌一首づつを記した華麗な絵本。詞は以前より、秋田県の戦国大名であった秋田実季(1576-1659)の自筆と伝えられてきた。さらに近年の調査の結果、画については狩野永納の手になることが確認された。永納の三十六歌仙図は他に東京国立博物館などに残されており、表現や印章等の比較から永納の作と考えられている。(秋田家蔵品)

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 2-20)垂加翁神説(すいかおうしんせつ)

 山崎嘉(闇斎)説 跡部良顕編 享保9年(1724) 松宮俊仍(観山)写 3巻1冊

 闇斎(1618-1682)は、朱子学の中の華夷を峻別する側面を強調して日本神道と結合させ、垂加神道の一派を建てた。本書は、彼の著書や文集から神道に関係あるものを選んで編集したもので、宝永4年(1707)に49歳の跡部良顕がまとめている。良顕は正親町公通より垂加神道を継承し、56歳の時『垂加文集』を出版するなど、江戸における闇斎一門の代表的存在だった。一方、書写を行った観山は北条氏長門下の兵法者で、垂加神道や和歌、和算をも嗜んだことで高名な人物。本書は希少な写本として、村岡典嗣により岩波文庫に翻刻された。(狩野文庫)

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 2-21)聖教要録(せいきょうようろく)

 山鹿高興(素行)撰 3巻1冊 写本

 素行(1622-1685)は若年にして羅山に儒学を、北条氏長らに兵学を学び、承応元年(1652)から9年間赤穂藩主浅野長直に仕えた。その学問は、職分を重視し士道を強調する特色を持つ。本書は自己の学説の要点を抜粋収録した書で、当時幕府内外で流行していた朱子学に従わないことを宣言し、宋学(朱子学)以前の古い正統の教えに戻るべきことが説かれている。寛文5年(1665)に成立したが、当時幕府の最高実力者であり朱子学を闇斎に学んだ保科正之の逆鱗に触れ、播州赤穂に9年間流されることとなった。山鹿流兵学は津軽藩や平戸藩に伝えられ、赤穂事件を経て世に広く知られるに到った。(狩野文庫)

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 2-22)語孟字義(ごもうじぎ)

 伊藤維驕i仁斎)撰 元禄8年(1695) 江戸須原屋茂兵衛刊 2巻2冊

 仁斎(1627-1705)は、形而上学より実践倫理を重視する立場に立ち、朱子学の説く理気二元論に対し気一元論を主張した。本書は、儒教の根本経典である『論語』『孟子』の字義を解釈する中で、自己の思想を表現した書。稲葉正休(当時若年寄)の依頼により天和3年(1683)に一応完成する。仁斎の生前に刊行された唯一の著作といわれるが、仁斎自身の許可を得ないでの刊行であった。(狩野文庫)

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 2-23)徂徠集(そらいしゅう)巻十・巻廿

 荻生茂卿(徂徠)撰 鷹見正長写

 近世中期に儒学者として世に知られ、柳沢吉保に仕官し将軍綱吉や吉宗の諮問を度々受ける一方、古文辞学を提唱し近世の学問を飛躍させた荻生徂徠(1666-1728)の詩文集。本書は徂徠の死後、遺命をうけた高弟の服部南郭を中心に編纂が進められ、享保20年(1735)以降に詩・文・書の三部に分け全部で30巻17冊が刊行された。その最終段階の稿本類の多くは慶応義塾大学に残されている。この2巻も同様の性格を持ち、刊本で削除された「猗蘭宛書簡」を含むなど、『徂徠集』の編纂過程を知ることのできる一級資料である。(狩野文庫)

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 2-24)割算書(わりざんしょ)

 毛利重能撰 元和8年(1622)刊

 毛利重能(生没年未詳)は、算用担当として豊臣秀吉に仕え、一説では明に留学したという。算盤を得意とし、京都の二条京極で「天下一割算指南」の看板を出し、吉田光由らを指導した。本書は序文にアダムとイヴの話を引き、禁断の果実を夫婦二人で分けたのが割り算の始まりと説く。現在確認されている和算書の中では『算用記』(龍谷大学所蔵、1600年前後成立)に次いで古く、他に日本大学所蔵本等が知られる稀覯書でもある。(岡本文庫)

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 2-25)竪亥録(じゅがいろく)

 今村知商撰 寛永16年(1639)刊

  今村知商(生没年未詳)は毛利重能の弟子で、和歌の形式で算術を記した『因帰算歌』(1640年刊)で一般に親しまれた。その前年に刊行された本書は、逆に狭く門弟を対象とし、必要事項のみに限った公式・法則を集成したものである。林文庫本は、銅活字を使用した百部限定版で、他に見られない稀覯本といわれている。(林文庫)

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 2-26)塵劫記(じんこうき)

 吉田光由撰  寛永4年(1627)序刊

  吉田光由(1598-1672)は京都の豪商角倉の一族。家業を通じ、中国明代の算書である『算法統宗』(程大位撰、1593年刊)を入手し、それを種本として実用的な計算から数学遊戯までの問題を扱ったのが本書である。絵入りで分かりやすく解説されていて、武士階級だけでなく町人や農民にまで読まれた。近世を通じて何度も版を重ね、同じ表題の書が多く著わされた結果、「ぢんかう」と言えば数学書のことを指すようになった。(岡本文庫)

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 2-27)新編塵劫記(しんぺんじんこうき)

 吉田光由撰 寛永18年(1641)刊

  吉田光由はこの寛永18年版に到り、12の問題を出し解答を収録せず、広く読者に問いかけることを始めた。これを遺題と称す。これ以後、出された問題について別の著者が解答を示し、さらに新たな問題を出すという、出版を通じた発題−解答の仕方が流行した。遺題を通じ学者の間で切磋しあった結果、近世中期以降の和算は飛躍的に発展したといわれる。(岡本文庫)

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 2-28)算俎(さんそ)

 村松茂清撰 寛文3年(1663) 江戸西村又右衛門刊 5巻4冊

 村松茂清(1608-1695)は常陸国出身で赤穂藩浅野長直に仕えた和算家である。江戸詰で、数学教育に従事した。本書は算盤テキストの集大成で、正五面体から十六面体までの辺の長さを算出したり、円周率を小数点以下7桁まで求めるなど、後に関孝和によって和算が発展する基礎となった。茂清の養子秀直とその子の高直は、後に赤穂浪士に加わり吉良邸討ち入りに参加している。(岡本文庫)

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 2-29)古今算法記(ここんさんぽうき)

 沢口一之撰 寛文9年(1669)序刊

 中国元代の算書である『算学啓蒙』(朱世傑撰、1299年刊)が豊臣秀吉の時代に日本に入ったことで、日本でも天元術(算木を用いて高次方程式を解く)が発達した。本書は天元術を完全に使用した最初の書である。著者沢口一之(生没年未詳)は橋本正数門下の和算家と伝えられるが、実は橋本・沢口ら京阪和算家の共同研究の成果が本書とも言われている。『算法根元記』(佐藤正興撰、1669年刊)の遺題150に対し、天元術を駆使して解答し、さらに巻末に15の遺題を提示している。(岡本文庫)

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 2-30)発微算法(はつびさんぽう)

 関孝和撰 写本

 『古今算法記』の15の遺題は、普通の天元術では解けないものだった。関(1640?-1708)は、算木を使用せず筆算による計算法を編み出し、解答に到った。題名の「発微」とは、「微意を発す」(小さな志を公にする)の意味で、関の謙譲の気持ちを表す。『発微算法』延宝2年版は、関の生前唯一の刊本であり、本書はその筆写本である。筆算式代数学の創始によって、関は和算史上最大の偉人として実態以上に聖化された。(林文庫)

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 2-31)発微算法演段諺解(はつびさんぽうえんだんげんかい)

 建部賢弘撰 貞享2年(1685)刊

 建部賢弘(1664−1739)は、関孝和に師事して才能を伸ばし、幕府旗本として8代将軍徳川吉宗の改暦事業などに従事した。本書は著者22歳の時の作で、師の著作『発微算法』の詳細な注釈書である。しかし実は、関の独創と伝えられる演段術が実際に公表されている最初の出版物である。演段術とは、未知数のほかに補助の未知数を用いて二つの方程式を作り、これからを消去してのみの方程式を得るのが一般的形式である。(岡本文庫)

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 2-32)綴術算経(てつじゅつさんけい)

 建部賢弘(不休)撰 写本

 本書は、正確な円周率を求めて小数点以下40桁まで計算し、さらに円周率の自乗の公式に挑戦して、世界で初めて解明したものである。師の関孝和さえ到達できなかった成果を得たことについて、自分は師のような天才ではないが努力と執念によって発見に到った、と記されている。和算史上最も有名な書の一つであり、著者59歳の享保7年(1722)に完成し将軍吉宗に献上された。(狩野文庫)

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 2-33)神聖比例論(しんせいひれいろん)

 パチョーリ著 1509年 ヴェネツィア刊

 De divina proportione; opera a tutti glingegni perspicaci e curiosi necessaria oue ciascun studioso di philosophia: prospectiua pictura sculpura: architectura: musica: e altre mathematice: suauissima: sottile: e admirable doctrina consequira: e delectarassi: co varie questione de secretissima scientia. M. Antonio Capella eruditiss. recensente.-[Venezia:] A. Paganius Paganinus characteribus elegantissimis accuratissime imprimebat. [1509.] -35, 27p., illus.; 30 cm.

パチョーリ(Pacioli, Luca, ca.1445-ca.1520)は、イタリアの数学者・修道士。ローマで数学を教授した。彼は、数学と比例は神の秩序を事物の数量・重量・容量の3つの構成要素の組み合わせにおいて純粋に例証するものと信じていた。ミラノのスフォルツァ公の宮廷に滞在中、ユークリッドの「幾何学原論」の講義を通じてレオナルド・ダ・ヴィンチと知り合い、本書執筆を計画した。著書は1497年に完成し、1509年には活版印刷によって出版されている。ダ・ヴィンチのデザインした遠近法に関する図形が描かれており、また、初期イタリック体のめずらしい活字を見ることができる。

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 2-34)貞享暦(じょうきょうれき)

 渋川春海作 原本

 貞享2年(1685)から宝暦4年(1754)までの70年間用いられた、日本人の手による最初の暦法。中国元朝の授時暦を模範としつつ、日本と中国との経度差を考慮して、京都を中心とするように改編されている。渋川春海(1639-1715)は、江戸時代中期の暦学者で、幕府の初代天文方を務める一方、闇斎に神道を学んだといわれる。和算家の関孝和も改暦のため作業を進めていたが、春海が一足早く完成させた。(狩野文庫)

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 2-35)後藤艮山先生口授(ごとうこんざんせんせいくじゅ)
 後藤艮山説 門人某筆記 写本

 17世紀中頃から、従来の五行説・運気論にもとづく医学に対し、「親試実験」を提唱する古医法の一派が現れた。後藤艮山(1659-1733)は、体内の気の流通が妨げられることによって病気が発生するという「一気留滞説」を説き、投薬等の対症療法よりも全身の自然治癒力を重視すべきことを主張した。熊胆、唐辛子の服用や灸、温泉療法を推奨したため「湯熊灸庵(ゆのくまきゅうあん)」とも称される。生涯を通じて著作が少なく、主に門人の筆録で説が流通した。本書もそうした写本の一つと思われ、現在日本思想大系に収録されている『師説筆記』と多くが重なる。艮山の医学思想は門下生に継承され、香川修庵の医学説や山脇東洋の解剖図を生み出す。(狩野文庫)

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 2-36)訓蒙図彙(きんもうずい)

 中村タ斎撰 寛文8年(1668)刊 20巻7冊

 江戸時代前期の図解百科事典。学問は物の名と形を学ぶことから始まる、それには図解が早道という趣旨にもとづき、各丁に上下4図を載せ、そのものの音読みと訓読みおよび短い注釈を付す。全体を天文・地理・居処・人物・身体・衣服・宝貨・器用・畜獣・禽鳥・龍魚・虫芥・米穀・菜蔬・果[ラ]・樹竹・花草の17に分類して図解している。学問的な考註と精確な図によって高い評判を得、以後「○○訓蒙」と称する著書が続出した。寛文6年序の初版に続き、最も広く流布した第2版が本書で、ケンペルの『日本誌』の動物図などのもとになった。(狩野文庫)

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 2-37)本草綱目(ほんぞうこうもく)

 李時珍撰 稲生宣義(若水)校 正徳4年(1714) 京都唐本屋八郎兵衛等刊 52巻45冊

 中国(明)で1596年に刊行され、以後中国でも日本でも、本草学(薬物研究を主目的とする博物学)の基本文献として広く用いられた。日本へは江戸時代の始まりと共にもたらされ、林羅山によって慶長12年(1607)に、駿府の徳川家康のもとに初版金陵本が届けられている。この金陵(=刊行地である南京)本も本館で所蔵しているが、ここで展示するのは数ある和刻本の中でも最も充実した内容を誇る正徳4年版である。本書は、単なる誤植訂正にとどまらず、金陵本以来の欠落を他書によって補うなど、校訂が行き届いていることで知られる。実際、校訂者の若水(1655-1715)は、同時代の貝原益軒と並んで実証性を重んじると共に、文献渉猟も疎かにしなかった碩学と評されている。(狩野文庫)

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 2-38)大和本草 並附録 諸品図(やまとほんぞう)

 貝原益軒撰 宝永6年(1709) 京都永田調兵衛刊 20巻10冊

 日本人による最初の本格的本草書。本編は宝永5年(1708)に完成し翌年刊行されたが、諸品図のみ遅れて正徳5年(1715)の刊行である。著者貝原益軒(1630-1714)は、儒者として「格物致知」の標語から出発したが、独自の思想展開を経て本草家、経世家、教育者としても高名を得た。本書は『本草綱目』を基礎としながらも、日本固有種を多く取りいれ独自の配列を行い、また啓蒙のため漢文でなく和文で記述されている。内容的に博物学の書でありながら、題に「本草」(薬物学の書)の語を付すところに『本草綱目』の影響の強さが窺われる。しかしながら、「自らの観察を根拠」としたという著者の言には、日本的な科学思想の形成を感じ取ることができる。(狩野文庫)

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 2-39)農業全書(のうぎょうぜんしょ)

 宮崎安貞撰 貝原楽軒閲 元禄10年(1697) 京都小川多左衛門刊 11巻11冊

 木版本として最初に刊行された農書である。著者は元福岡藩士で、帰農後40年の農業経験の蓄積と、近畿地方等の遊歴で見聞した先進技術の知識、貝原益軒との親交で得た国内の本草学や中国農書の研究成果にもとづいて、本書を作成した。校閲者の楽軒は益軒の兄である。農民の立場に立った技術書であること、特定の地域だけでなく全国的視野のもとに体系づけられていることにより、多くの版を重ねると共に後世の農書に大きな影響を与えた。(狩野文庫)

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 2-40)金属について(きんぞくについて)

アグリコラ著 独訳版 1621年 バーゼル刊

 Bergwerckbuch: darinnen nicht allein all empter instrument gezug vnd alles so zu disem handel geh[oe]rig mit figuren vorgebildet vnd kl[ae]rlich beschrieben: sondern auch wie ein rechtverst[ae]ndiger bergmann seyn soll vnd die g[ae]ng ausszurichten seyen... - Getruckt zu Basel in verlegung Ludwig Konigs. Im jahr M DC.XXI [i.e. 1621]. p.l., ccccxcj, [5]p.,illus., diagrs. double pl.; 32 cm.

 アグリコラ(Georgius Agricola, 1494-1555)は、ドイツの鉱山学者、地質・鉱物学者。ライプツィヒ大学で哲学、神学、言語学を学び、人文学者として有名になった後、医学に転じてイタリアで修業し、ベーメンの鉱山町で医者を生業とするかたわら、鉱山、地質、鉱物の研究を始めた。本書は彼の死後出版されたものであり、全12巻(合本1冊)からなる、当時の鉱山、冶金、鉱物、岩石、地質等に関する知識の集大成である。273枚の木版画による豊富な挿絵により、実用書として18世紀に至るまで近代産業の勃興に大きな影響を与えた。

 3.赤穂義士関連

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 3-1)赤穂義士随筆(あこうぎしずいひつ)

  山崎美成撰 橋本玉蘭画 安政2年(1855)跋 江戸大和屋喜兵衛等 刊本

  山崎美成が嘉永7年(1854)に刊行した義士の伝記を中心とする『赤穂義士伝一夕話』の補遺として編纂した書。義士の遺品・書簡・肖像などを収載。(狩野文庫)

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 3-2)刃傷録(にんじょうろく)

 写本

 江戸時代に起きた刃傷事件の記録の集成。浅野と吉良の事件のほか、天明4年(1784)佐野政言が田沼意知を切った事件などがみられる。(狩野文庫)

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 3-3) 赤穂記彩色絵
(あこうきさいしきえ)(赤穂実録彩色絵)

 卷子3軸 写本

 赤穂事件を絵巻としたものであるが、事件の流れからやや逸脱して多様な身分・職業の人物を自由に描き込んだ部分もかなりの割合を占めている。(狩野文庫)

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 3-4)吉良家屋鋪之図(きらけやしきのず)

 弘化4年(1847) 島田泰幸写 2舗 写本

 吉良邸の絵図は数種が伝わっているが、展示の資料はそのうち二種類が一袋に収められている。(狩野文庫)

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 3-5)赤穂義士切腹之図(あこうぎしせっぷくのず)

 安政2年(1855)・文久元(1861)年島田氏写 2枚 写本

 討入の後、赤穂浪士四十六人は四家に分かれて御預けとなり、元禄16年2月に切腹した。これはその状況を記録した図で、長府毛利家及び細川家におけるものと考えられる。(狩野文庫)

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 3-6)赤穂四十六士論苑(あこうしじゅうろくしろんえん)

 岡田嘉祐編 慶応元年(1865)写 写本

 赤穂義士に関する論評を集めた書。編者は芸藩(広島藩)の人で、同藩の関係者の論も少なくない。(狩野文庫)

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 3-7)仮名手本増補忠臣蔵(かなでほんぞうほちゅうしんぐら)

 晋米斎玉粒編 歌川豊国画 文政8年(1825) 江戸山本平吉

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 3-8)仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)

 三亭春馬作 歌川国貞画 江戸蔦屋吉蔵

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 3-9)家内手本用心蔵(かなでほんようじんぐら)

 唐来参和作 子興画 寛政10年(1798) 江戸蔦屋重三郎刊

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 3-10)仕懸幕莫仇手本(しかけまくなしあだてほん) 前編

 小金あつ丸撰 葛飾北斎画

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 3-11)忠臣蔵即席料理(ちゅうしんぐらそくせきりょうり)

 山東京伝作 [北尾重政]画  [寛政6年(1794) 江戸鶴屋喜右衞門刊]

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 3-12)忠臣店請状(ちゅうしんたなうけじょう)

 十返舍一九作 五雲亭貞秀画 天保4年(1833) 江戸山口屋藤兵衞刊

 「忠臣蔵」関連の黄表紙・合巻・洒落本等

 これらは「忠臣蔵」に基づいた作品で、芝居を本のかたちにしたようなものから、教訓を前面に押し出したもの、全くのパロディーなど多彩である。小さな本ながら、それぞれに思いがけないほどの趣向が凝らされている。(狩野文庫)

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 3-13) 仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)

 錦絵 一猛斎芳虎画 江戸山田屋版 12枚

 (狩野文庫)

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