貴重資料展解説集


1 国宝、中尊寺経等の貴重書

1-1) 国宝 類聚国史(るいじゅこくし) 巻第二十五 菅原道真撰 平安末期写 巻子本

類聚国史は、菅原道真(845〜903)が勅を奉じて六国史の記事を神祇・帝王・後宮・人・歳時・音楽などに分類して時代順に配列したもの。全二百巻のうち六十一巻が残存するが、これはその中の一巻で、最古写本とされる。巻第二十五は、帝王部第五にあたる。昭和16年に国宝に指定された(昭和27年に再指定)。(狩野文庫) ” もどる

1-2)国宝 史記(しき) 孝文本紀 第十 (前漢)司馬遷撰 (劉宋)裴いん集解 延久5年(1073)写 巻子本

史記の注釈書のひとつである南朝劉宋裴いん(はいいん)の「史記集解」の写本。我が国に伝わる写本のうちで最も古いものの一つで、奥書に「延久五年四月四日受訓了 延五二七夜於灯火書了 同年同月九巳尅点合了 学生大江家国之本」とある。家国は、大江朝綱の玄孫。別筆で大江家行、時通の追記があり、文章博士大江家に伝承されたものであることが知られる。昭和16年に国宝に指定された(昭和27年に再指定)。(狩野文庫) もどる

1-3)称讃浄土佛摂受経(しょうさんじょうどぶつしょうじゅきょう) (唐)釈玄奘訳 巻子本 中尊寺経

中尊寺経は、平泉の中尊寺に伝来する奥州藤原氏三代の奉納した写経をいう。これは最も古い藤原清衡(1056〜1128)の発願により奉納された一切経のなかの一巻。紺の地に金と銀の字で一行ごとに書きわけられたもの(紺紙金銀字交書)で、表紙と見返にも金銀泥で絵が描かれている。この一切経は、もとは五千巻以上あったとされるが、現在その殆どが高野山金剛峰寺にあるといわれる。もどる

1-4)妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう) 巻第八 後秦釈鳩摩羅什訳 巻子本 中尊寺経

清衡の子藤原基衡(生没年未詳)が亡父清衡の供養のために発願したもので、紺の地に金字で書かれた紺紙金字法華経である。奥書に「保延六(1140)年千部一日経云々」とあり、法華経千部の書写を発願したことが知られる。 もどる

1-5)臨顧ト之女史箴巻(りんこがいしじょししんかん) 小林古徑、前田青邨摸 巻子本

留学生として渡欧していた小林古徑(こばやしこけい 1883〜1957)と前田青邨(まえだせいそん 1885〜1977)の両人が大英博物館にある顧ト之(こがいし 東晋の画家)の「女史箴図」を模写したもの。「大正十二年英京に於て小林古徑君と共に五十余日にわたり本図を模写す」という青邨の書付がある。もどる


2 奈良絵本等

2-1)ふんしやう 3冊 奈良絵本 大型縦本

御伽草子。庶民の出世物語。常陸の国鹿島神宮の大宮司に仕える文太が、暇を出された後、塩焼きから長者「文正」(ぶんしょう)になり、願をかけて授かった二人の娘も二位の中将と帝のきさきに迎えられ、また文正夫婦も位を得て、長寿したという物語。結構ずくめの物語であるため、女性の嫁入本としても作成された。本学所蔵本は、金箔の見返と極めて美しい色彩の挿絵をもつ豪華本である。19図の挿絵が含まれている。(狩野文庫)もどる

2-2)竹とり 3冊 奈良絵本 中型縦本

古くからあるよく知られた物語。竹から生まれた女の子は、竹取の翁に育てられ、美しさゆえにかぐや姫と呼ばれたが、多くの求婚者や帝の申し出も断り月に旅立つという物語。15図の挿絵が含まれている。(狩野文庫)もどる

2-3)たまみつ 2冊 奈良絵本 中型縦本

御伽草子。獣を擬人化した異類物。「玉水物語」、「紅葉あはせ」ともいう。美しい姫を見初めた男狐が若い女に化け「玉水の前」という名をもらって仕えるが、姫の参内を機に姫への想いを書き残して姿を消すという物語。挿絵は、素朴で単純。5図の挿絵が含まれる。 もどる

2-4)中将ひめ 2冊 奈良絵本 横本

御伽草子。継母に苛められる継子物。横佩右大臣豊成の娘中将姫は、幼くして母を亡くし、後添いの継母に雲雀山に棄てられるが、武士によって養育され、狩に来た豊成と再会、邸に戻る。やがて生母供養のために出家し、蓮糸で曼荼羅を織った功徳により往生するという中将姫の一代記。9図の挿絵が含まれる。 もどる

2-5)海幸(うみのさち) 勝間竜水画 石寿観秀国編 江戸 伊勢屋治右衛門等 宝暦12年(1762)刊 2冊 

勝間竜水(かつまりょうすい 1697〜1773)は、江戸新和泉町の家主で町役人をつとめ、手習の師匠もした人。書および俳諧で名をなしたが、絵も巧みであった。秀国(しゅうこく 1711〜96)は、江戸中橋上槙町の住人で、買明門下の俳人。「海幸」は、およそ百種の魚介類を写生したもので、各画には当時の江戸座俳人による題賛の句が付されている。(狩野文庫) もどる

2-6)山幸(やまのさち) 勝間竜水画 石寿観秀国編 江戸 大坂屋平三郎等 明和2年(1765)刊 2冊

 「海幸」の3年後に刊行された。序に秀国が「海幸既に出来ぬ又山幸なくんはあらし」と、「海幸」に続いて山幸を乞うたことが記されている。「山幸」には、およそ百種の草花虫類および小動物が描かれており、それらの別名とともに「海幸」同様江戸座俳人による題賛の句が付されている。(狩野文庫) もどる


3 近世東北の風景

3-1)ゑ入 一目玉鉾(ひとめたまぼこ) 井原西鶴 元禄2年(1689)刊 4冊

蝦夷千島から対馬西泊までの名所旧跡の案内記。仙台、青葉山については巻一に「松平亀千代殿城下 民家京の町に替らぬ繁盛の大所なり屋形町かきりもなく甍立ちつゝき久しき城下のしるし諸木枝を垂風に葉音なく静なる国也」とある。亀千代は、4代藩主綱村(1659〜1719)のこと。(狩野文庫) もどる

3-2)正徳集(しょうとくしゅう) 折本 原本

奥州桑折(こおり 現在の福島県伊達郡桑折町)在住の俳人佐藤馬耳(ばみ 本名左五衛門宗明 ?〜1750)の欖翠軒に立ち寄った俳人たちが書き残した句文集。時期は、正徳元年〜元文4年(1711〜1750)の間。題と序は、僧知通による。その他名古屋の沢露川(さわろせん)や堺の稲津祇空(いなづぎくう 1663〜1733)などの名も見られる。 もどる

3-3)奥州紀行(おうしゅうきこう) 富田伊之 安永6年(1769) 原本

富田伊之(とみたこれゆき 生没年不詳)が僧山隠(やまかげ)とともに奥州へ旅したときの紀行文。安永6年8月11日江戸を出発して、日光、仙台、松島、石巻・金華山、平泉、酒田、象潟、舟形、山寺、上ノ山、瀬上、宇都宮と回って、10月3日に江戸に帰ってきている。仙台では、国分町の小幡屋に泊まり、旅篭代が二百文であったと記されている。(狩野文庫) もどる

3-4)雪の古道(ゆきのふるみち) 津村淙庵

津村淙庵(つむらそうあん 1736〜1806)は、秋田佐竹藩のご用達を勤めた江戸の町人。天明8(1788)年11月15日江戸を立って、出羽久保田に赴き、久保田城下に一年逗留した後寛政2(1790)年4月6日に江戸に戻ってきた。この書は、その間の出羽紀行・日記である。克明な記述と豊富な挿画が特徴。(狩野文庫) もどる

3-5)陸奥紀行(みちのくきこう)  宣俊撰 坂口員正画 寛政8年(1796) 良卜写 彩色

明和6年5月2日に江戸を立ち、金華山で折り返し、6月7日に帰ってくるまでの旅日記。 坂口員正が描いた彩色の風景17図が付されている。(狩野文庫)もどる

3-6)無題巻物(むだいまきもの) 谷文晁 巻子本 原本 2軸

谷文晁(たにぶんちょう 1763〜1840)は、江戸時代後期の画家。これは、寛政6年(1794)文晁32才のときに旅行した東北地方の道中スケッチ。もどる

3-7)懐日記(ふところにっき) 谷文晁

文化4(1807)年8月1日弟子文泉とともに江戸を出立し、白河、郡山、仙台、築館、気仙沼、平泉、盛岡、遠野、櫛引、野辺地を経て9月22日横浜に戻ってくるまでの日記。道中目にした珍しいもの、風俗等についての記述がある。 もどる

3-8)筆満可勢(ふでまかせ) 巻一、二、五 原本 3冊

筆者は、江戸深川仲町の住人で、富本を語る繁太夫という芸人とされるが詳細は不明。文政11(1828)年6月12日江戸を出立してからの日記である。浦賀から石巻、南部、盛岡、出羽久保田、庄内酒田、新潟、長岡、出雲崎、柏崎、高田と廻り、それぞれの土地での体験を画を交えながら記録している。(狩野文庫) もどる

3-9)御用鋳銭場絵図(ごよういせんばえず) 清野頼繁 享保17年(1832) 巻子本 彩色

石巻にあった仙台藩の鋳銭場(現在のJR石巻駅南東部一帯)の作業工程を描いた絵巻。仙台藩鋳銭場は、享保13年(1728)から鋳造を開始し、明治維新まで続いた。清野頼繁が鋳銭場に出仕中、子孫に遺す目的で作成したとされる。もどる

3-10)陸奥州駅路図(むつしゅうえきろず) 秦檍丸 巻子本 彩色 2軸

秦檍丸(はたあわきまる 〜1808)は、本名を村上島之丞という。幕府普請役雇いとして蝦夷地を踏査した。松前から津軽南部方面の宿駅のある道を描いたもの。 もどる

3-11)仙台祭禮行列(せんだいさいれいぎょうれつ) 〔松村月渓〕写 巻子本 2軸

明暦元(1655)年にはじまった仙台東照宮の祭礼を描いたもの。当時は、毎年9月17日を祭典日と定め、この日は「仙台祭」と呼ばれて賑わった。現在のように祭礼日が4月17日になったのは、明治以降。松村月渓(まつむらげっけい 1752〜1811)は、京都の画家で、呉春(ごしゅん)の名で知られている。 もどる


4 近世仙台の名家自筆本

4-1)奥羽観蹟聞老志 佐久間義和(洞巖)撰 「瀛洲図書刻章」(印) 20冊

東北地方の地誌。様々な文献を引用するほか、土地の伝承なども取り上げている。洞巖自ら人の依頼をうけて写本を作成していたといわれ、自筆本は数部現存の可能性がある。本館蔵本は洞巖の孫・新井瀛洲の旧蔵と考えられているもので、余白・行間に書入がある。(狩野文庫) もどる

4-2)詩識名(ししきめい) 桜田質(景質・仲文・欽斎)撰

『詩経』にあらわれる動植物について、考証を加えた書。「説」と「図」よりなる。推敲らしい書入も認められるが、一部分は写本であるという。阿部次郎の亡父記念との書付が添えられている。 もどる

4-3)方言達用抄(ほうげんたつようしょう) 桜田贅庵(景雄)撰 文政10年(1827)序 稿本 菊池武人氏寄贈

方言や野卑な言葉を不用意に使用して問題を起こさないよう、自覚を促す意図をもって著された手引書。現在では方言研究の重要な資料となっている。展示の書は、菊池武人氏の研究により稿本と認定されたものである。 もどる

4-4)海国兵談(かいこくへいだん) 林子平撰 寛政3年(1791)刊 3冊

寛政三年刊本は、わずかな部数を刷り出したのみで版木を没収された稀覯本であるが、展示の書については、村岡典嗣(昭和4〜12年本館館長・日本思想史学)が東京の書肆から取り寄せたところ、落丁があったため当時の値で三百円のところを二百九十円で購入したという逸話がある。なお、岩波文庫『海国兵談』は村岡典嗣が自身の蔵書を底本として翻刻したものである。もどる

4-5)三国通覧図説(さんごくつうらんずせつ) 林子平撰 天明6年(1786) 江戸 須原屋市兵衛板

三国とはこの書の場合、日本と国境が接する朝鮮・琉球・蝦夷を指し、地理風俗などを記している。『海国兵談』とともに版木没収の処分をうけた。本書は越後の鈴木一保の旧蔵。もどる

4-6)三国通覧図説(さんごくつうらんずせつ) 写本 猪飼彦博書入 「豬飼敬所翁遺書」(印)

猪飼敬所(彦博)は京都の儒者。後に伊勢津藩に招かれている。狩野文庫にはほかにも『采覧異言』(新井白石撰)など猪飼敬所旧蔵と見られる資料がある。本書は、昭和52年に宝文堂から出された複製の原本である。(狩野文庫) もどる

4-7)三界居録(さんがいきょろく) 菅井梅関(東斎)筆 2冊

内容は書画の写しなどであるが、一冊は『三国通覧図説』の写本である。本館の所蔵するのは二冊のみで、さらに数冊が現存する。菅井梅関はいわゆる仙台四大画家の一人。 もどる

4-8)儀式徴(儀式刪)(ぎしきちょう) 林笠翁撰 稿本

林笠翁(岡村良通・林子平の父)の代表的著述で『儀式考』として大成する書の稿本と見られる。題の「徴」の字の傍には朱筆で「刪」と書かれており、命名に迷ったあとがみえる。本館が所蔵するのは祈年祭儀から践祚大嘗祭儀までの部分を収める一冊のみである。 もどる

4-9)内裏式(だいりしき) [林笠翁写・書入] 「林子平蔵書」(墨記) 2冊

『内裏式』は平安時代前期に編纂された儀式書。笠翁の「儀式考大意」には、『内裏式』に言及するところがあるが、本書の書入にも笠翁自身の見解とみられる部分がある。 もどる

4-10)かなのくわい文献集(「かなのくわい(仮名の会)」関連資料)文書・出版物等 大槻文彦旧蔵

「かなのくわい(仮名の会)」は、明治期に日本語を専らかなで表記することを主張し、全国的に活動した団体。大槻文彦は、明治15年から『言海』の浄書に取りかかっていたが、明治16年「かなのとも」の結成に参加、後に「かなのくわい」に合流した。 もどる


5 伊達家関連史料

5-1)伊達政宗書状 天正16年(1588)11月10日

政宗22歳。家臣の「太尾」(大条宗直、伊達郡大条の領主)を、「越前」(弟の実頼)ともども茶会に招待したもの。花押の比較的横長なのが、若いころの特徴である。(片倉家文書)もどる

5-2)伊達政宗書状 年未詳 4月7日

花押の形態から慶長末〜元和年間、政宗50歳前後のものと思われる。内容は会合の打ち合わせ。宛先の「紹高」は、細川全隆(慶長14年から万治元年まで幕府旗本として勤仕)の号である。(秋田家蔵品)もどる

5-3)伊達政宗書状 〔寛永6年(1629)〕6月9日

政宗63歳。江戸にいる嫡子の忠宗(第2代藩主、1599〜1658)に対し、香合わせのための香木を仙台から送り、あわせて自己の体調等を知らせた手紙。三河守(忠宗弟の宗泰)や五郎八(同姉)など家族の様子も気づかっている。花押も縦長で、若年の頃との違いを見せている。(片倉家文書) もどる

5-4)伊達政宗黒印状 寛永6年(1629)8月25日

仙台から気仙沼までの伝馬の使用を許可したもの。この黒印は、遣欧使節関係にも朱印で使われたが、元和年間以降は伝馬に用いることが多くなった。(高柳文庫)もどる

5-5)伊達政宗黒印状 〔寛永9年(1632)〕7月18日

政宗側近の佐々元綱(通称「若狭」)に、仏事参列の仕方を調べるよう命じているもので、江戸増上寺での徳川秀忠の葬儀に際してのものと思われる。この黒印は、比較的晩年に使われたものらしい。(『伊達歴代御朱印』)もどる

5-6)杉目内蔵助等田地売券(すぎのめくらのすけらでんちばいけん) 天文16年(1547)6月19日

出羽国置賜郡長井庄(現在の米沢盆地一帯)の豪族で、政宗の祖父の代に伊達家に臣属した湯目家に伝来した文書。杉目内蔵助と同姓本六が、湯目七郎左衛門に土地を五貫五百文で売り渡し、高梨将監坊がそれを保証するという内容。たとえ徳政令が出たとしても本主に返却しない、という文言が特徴的。伊達家臣団内における土地取引の様子を伝える史料である。(湯目家文書)もどる

5-7)縁組願書(えんぐみねがいしょ) 天保2年(1831)2月4日

陸奥国桃生郡(現宮城県桃生郡桃生町)の邑主である黒沢氏(所領3千石、仙台藩家中では「着座」の格式)の嫡子鶴之進と、宮城郡高城(同宮城県宮城郡松島町)の邑主である福原氏(所領1千石、仙台藩家中では「準御一家」)の娘の縁組の願書の案文。前年に前妻(松前主水の娘)が病死したため、との事情が記されている。この文書は、桃生郡中津山(現宮城県桃生郡桃生町中津山)の旧家に伝来した。(織野文書)もどる

5-8)原田甲斐宗輔手簡(はらだかいむねすけしゅかん) 〔万治3年(1660)〕12月23日

原田宗輔(1619〜71、通称「甲斐」)は、柴田郡船岡の領主で仙台藩宿老。寛文11年2月、江戸での訴訟に際し大老酒井邸で刃傷に及び斬殺され、一家断絶に到った。この書状はその11年前、7月に藩主綱宗が逼塞を命じられた年の暮れに、江戸から国元の茂庭良元(号「佐月」)に対し、近況や、間もなく仙台に下ることを報告したもの。藩主逼塞による藩政混乱は、奥山と茂庭の権力闘争をもたらし、10月に茂庭は罷免される。もどる

5-9)奥山常辰書状案(おくやまつねたつしょじょうあん) 〔万治3年(1660)〕7月23日

奥山常辰(1616〜90、通称「大学」)は、黒川郡吉岡の領主で仙台藩奉行。伊達綱宗は幕府からの逼塞の命令をうけた後、国元の奥山に対し、直ちに上京し親戚の水戸徳川家へ運動することを希望したらしい。この書状は、綱宗側近の中村数馬に対し、それに対する婉曲な断りを記している。彼はこの後に藩政を掌握するが、藩主後見人の伊達宗勝(通称「兵部」、1621〜78)らと対立していく。(寛文事件古文書)もどる

5-10)立花忠茂書状(たちばなただしげしょじょう) 〔寛文3年(1663)〕5月10日

立花忠茂(1612〜75、通称「飛騨」)は筑後国柳川藩主。第2代仙台藩主忠宗の女婿である関係から、伊達騒動に対し仲介・斡旋の役割を務めた。この書状は、前年に藩主後見人の藩領私領化の動きを非難した奥山常辰の主張に対し、両後見人からの反駁を記し、さらに幕閣の酒井雅楽頭も奥山に同調していないことを述べる。こうして藩内外の支持を失う形で、この年7月に奥山は失脚する。(寛文事件古文書)もどる

5-11)伊達式部口上之覚(だてしきぶこうじょうのおぼえ) 寛文9年(1669)2月3日

伊達宗倫(1640〜70、通称「式部」)は仙台藩一門の登米領主。この案文は、涌谷領主の伊達宗重(1615〜71、通称「安芸」)との領地争いに際し、自らの主張を述べたもの。この時は式部の主張が認められるが、式部の死後に安芸は、登米側を支持した兵部宗勝を「後見人として藩政を壟断」と糾弾し、ついには江戸で幕府の判決を仰いだ。安芸自身は原田甲斐の刃傷により落命するが、その主張は認められ兵部は失脚した。その後、安芸の主張に沿う形で遠田と桃生の郡境が確定する。(登米伊達家文書) もどる

5-12)伊達家記録 貞享元年(1684)8月12日

無事成長した第4代藩主伊達綱村によって作成された記録。伊達家歴代の事蹟を記すにあたり、輝宗―政宗―忠宗の三代に宛てた信長・秀吉・家康たちの書簡を連ねる形をとり、綱村自身の書き入れ等がある。第一冊奥書に、「忍侍従正武」(阿部氏、当時幕府老中)に進覧のため作成した旨の綱村の識語があることから、「貞享書上」(幕命による各大名家所蔵文書の調査)に際してのものであることが分かる。 もどる


6 武家文書の展開

6-1)足利家時下文(あしかがいえときくだしぶみ) 文永3年(1266)4月24日

足利家時(生没年不詳)は、室町幕府初代将軍尊氏の祖父。この下文は、足利家所領の陸奥国賀美郡内穀積郷(現在の宮城県加美郡宮崎町米泉)の地頭代職(現地の管理人)の任命を記したもので、家時の花押の残された数少ない例。本文の右側余白に書かれた花押を「袖判(ソデハン)」というが、鎌倉時代に御家人が袖判下文を用いた例は、他に執権北条氏の一族だけであることから、いかに足利氏が有力な武将であったかが分かる。(倉持文書) もどる

6-2)足利義詮官途推挙状(あしかがよしあきらかんとすいきょじょう) 観応2年(1351)2月15日

足利義詮(1330〜67)は、室町幕府第2代の将軍。この推挙状は、大槻孫三郎(伝未詳)が官途名(公的に認められた名乗り)として「蔵人」を用いることを申請するにあたり、実質的な任命権者として承認したことを袖判で示したもの。(森潤三郎旧蔵 米原文書)もどる

6-3)織田信長朱印状 天正3年(1575)11月7日

織田信長(1534〜82)は、永禄10年(1567)11月に居城を美濃国稲葉山に移し、周の中国統一の故事にならい城下町を「岐阜」と命名した。「天下布武」の印判もこの時期から使用される。この朱印状は、権大納言・右近衛大将に任じられた信長が、公家勢力の所領の再配分を行ったもの。天正3年は、5月に長篠で武田勝頼を破り、信長の地位が磐石となった年でもある。(森潤三郎旧蔵 米原文書)もどる

6-4)羽柴秀吉書状 〔天正10年(1582)〕9月20日

織田信長は天正10年6月2日、京都本能寺で明智光秀に討たれる。その明智も同月13日の山崎合戦で羽柴秀吉(1537〜98、のち豊臣姓)に敗れ滅亡する。この書状は秀吉から秋田愛季に対し、以上の経緯を説明したもの。署名+花押の形は、秀吉が天下人の道を歩む中で、以後急速に見られなくなる。(秋田家蔵品)もどる

6-5)豊臣秀吉朱印状 〔文禄5年(1596)〕閏7月19日

羽柴秀吉は豊臣姓となり、天正18年(1590)に天下統一を果たした。この朱印状はそうした時期の様式に属し、内容自体は単なる礼状であるが、羽柴姓のころと比べると書止文言(恐々謹言→候也)や署名(有→無)、料紙(大高檀紙使用)などの変化に天下人としての尊大さが見え興味深い。(秋田家蔵品)もどる

6-6)豊臣秀次朱印状 年未詳 4月22日

豊臣秀次(1568〜95)は秀吉の甥。天正19年(1591)末に関白職を秀吉から譲られたが、秀吉に実子(秀頼)が生まれたことで対立を深め、ついに切腹を命じられ死去。彼の朱印状発給は文禄元〜4年に限られており、その頃のものであろう。内容は一般的な礼状だが、秀吉同様大高壇紙を使用し格式の高いものである。(秋田家蔵品)もどる

6-7)豊臣秀頼黒印状 年未詳 12月26日

豊臣秀頼(1593〜1615)が秋田実季宛に発給したもので、内容は呉服を贈られたことに対する礼状。一般に黒印は朱印に比べ薄礼とされ、江戸時代は原則的に、将軍のみが朱印を用いた(宛行状など)。ただし書状(御内書)に限り、慶長7年以降の徳川氏は黒印状化する。秀吉・秀次の朱印に対し秀頼が黒印を使用したことには、その影響が想定される。(秋田家蔵品)もどる

6-8)松平元康判物(まつだいらもとやすはんもつ) 永禄5年(1562)3月16日

桶狭間合戦の2年後、信長と同盟し三河国を治めていた時代の命令書。領内の諸権利について領主として保証した内容を持つ。元康は翌年「家康」と改名し、その3年後「徳川」に改姓、従五位下・三河守に任官する。(秋田家文書) もどる

6-9)徳川家康書状 〔天正18年(1590)〕4月3日

天正18年の小田原城攻めに際し、徳川家康(1542〜1616)から細川幽斎(1534〜1610、当時丹後国田辺城主)に戦況を知らせるもの。完全に包囲し徹底的な持久戦をとった豊臣軍に対し、北条氏はなすすべなく7月に降伏する。なお、この時点の家康は豊臣政権の一大名にすぎない。(秋田家文書)もどる

6-10)徳川家康書状 〔慶長5年(1600)〕8月21日

上方での石田三成らの挙兵に対し、7月末の小山の軍議で東軍諸将の西転が決定した。この書状はそれを承け、上杉氏を牽制するため指示のあるまで国元での待機を申しつけたもの。当時の家康は、公式的には豊臣政権下の「五大老」筆頭である。秋田家程度の格式の大名に対して「恐々謹言」の書止を用いるのは、この年が最後となる。(秋田家蔵品)もどる

6-11)徳川家康朱印状 〔慶長5年(1600)〕11月20日

秋田家からの連絡に対し挨拶を返した内容。誤って朱印「忠恕」が天地逆に押されている。同様の捺印・文言の書状が戸沢家文書に残されている。書止文言の「候也」が、9月15日の関ケ原合戦に勝利した家康の格式の向上を示す。(秋田家蔵品)もどる

6-12)徳川家康朱印状 〔慶長6年(1601)または同7年〕1月25日

贈り物(大鷹二羽)に対する礼状。署名が無く朱印だけ押されていること、料紙が豊臣秀吉と同様の大高檀紙になったことに、天下人の座を得た家康の権威が示されている。(秋田家蔵品)もどる


7 奥州大名家蔵品 〜秋田家文書より〜

7-1)十三湊新城記(とさみなとしんじょうき)

安藤氏は14世紀に、藤崎(現青森県北津軽郡藤崎町)から十三湊に根拠地を移した。本書ではそれを正和年中(1312〜1316)、貞季が当主の時代とする。「新城」は長く十三湖の北岸の福島城とされてきたが、近年の発掘調査では、福島城の出土品は平安時代末に限られており、今後の調査・検討を要する。(秋田家蔵品) もどる

7-2)羽賀寺縁起(はがでらえんぎ) 元和8年(1622) 良秀写

若狭国小浜の羽賀寺は、行基が開創し元正天皇が帰依したという由緒を誇る、真言宗の古刹である。本縁起はそうした伝承を記し、続いて「日之本将軍」安藤康季の再建、8代の子孫である秋田実季の修造、などの記事を載せる。原本は陽光院・後陽成院勅筆の重要文化財で、本書は元和8年(1622)に同寺住職の手になる華麗な写本である。 (秋田家蔵品) もどる

7-3)尊朝法親王書状(そんちょうほっしんのうしょじょう)  〔文禄4年(1595)〕6月2日

尊朝(1552-97)は、皇族出身の青蓮院門跡で、当時天台座主。2年前に秋田実季に羽賀寺再興を依頼しており、両者は既知の間柄であった。この書状には、実季の帰国を惜しみ、自ら奥書を加筆した『古今和歌集』を贈ったことが書かれている。秋田氏の交遊範囲と、実季の教養が偲ばれる。(秋田家蔵品)もどる

7-4)井蛙抄(せいあしょう) 明応3年(1494) 堯恵写

頓阿(1289〜1372)作の歌論書。全六巻。二条派で重視し、多くの伝本を持つ。本書はその中の、室町時代の著名な歌人である堯恵(1430〜98〜)の真筆本。奥書から明応3年(1494)に慶玉(青蓮院坊官の鳥居小路経厚)に伝授した本であることが分かる。諸本の伝来を明らかにする上でも、貴重な資料である。(秋田家蔵品) もどる

7-5)古今真名序并第二拾巻義

 『古今和歌集』の真名序と巻二十の注釈書。巻二十部分は一条兼良の『古今集秘抄』に基づき、形式を問答体に変えるなどし、さらに堯恵の注釈が施されている。他の巻でなく巻二十を取り上げる理由は、他の勅撰集に見られない部立に属し、集の最後に置かれた重要な巻だから、と記される。仮名序と巻二十の組み合わせは京都大学本などがあるが、真名序との組み合わせは類例を見ない。(秋田家蔵品) もどる

7-6)三十六歌仙 折本

秋田実季の自筆と伝えられ、見開きごとに在原業平、小野小町など著名な歌人一人ずつの絵と歌一首を記す。実季の正室は細川一族であり(俊季の母)、また自身も「宗実」の号を持つ文人の側面を持っていた。号の「宗」の字は高名な連歌師の宗祇、宗長の流れに師事したことを思わせ、文化的な環境にあったことが推測される。(秋田家蔵品) もどる

7-7)豊臣秀吉自筆年頭報謝状 〔文禄2年(1593)〕正月2日

下国系出身で、湊系との両安藤氏を統一した愛季は、天正15年(1587)病没した。13歳で安藤氏を継承した実季は、2年後の一族内の争い(湊合戦)を勝ち抜き、豊臣政権下の大名として公認される。この史料は、奥羽が服属して天下統一を成し遂げた秀吉が、「おもふまま」の権勢を歳徳神に報謝したもの。(秋田家蔵品)もどる

7-8)於秋田御材木入用之帳 慶長2年(1597)10月15日

秋田は杉材の大産地であり、実季は自己の所領に加え太閤蔵入地を管理して、大量の木材需要に対応した。本史料は、豊臣政権による伏見築城のため、秋田から敦賀まで板を海送した時の費用(杣の飯代や船賃など)を計算したものである。(秋田家蔵品) もどる

7-9)御知行之覚(ごちぎょうのおぼえ) 〔慶長7年(1602)〕11月11日

関ケ原合戦の時、秋田家は徳川方への荷担を明確にせず、最上義光の報告等で幕閣の不興をかい、父祖の地を離れる事態となった。この史料は宍戸領(現茨城県西茨城郡友部町付近)への国替に伴い、伊奈忠次(当時関東郡代)以下から秋田実季に対し下されたもの。5万石の領地を構成する村々の石高が連ねられる。(秋田家蔵品) もどる

7-10)豊臣秀頼自筆神号 〔慶長9年(1604)〕

慶長3年(1598)死去した豊臣秀吉は、翌年「豊国大明神」の神号宣下を受け、神として祀られる事になる。後継者の秀頼自筆の神号は、8歳から15歳の間のものが各地に現存している。これもその一つで、秀頼12歳の時の書である。関ケ原以後の秋田家と豊臣家の交渉を示す遺品でもある。(秋田家蔵品) もどる

7-11)岡田義同書状(おかだよしあつしょじょう) 〔寛永8年(1631)〕2月20日

実季・俊季父子の諍いは、徳川体制に馴染まない父と忠勤を尽す子という相違が根本にあり、相続・財政・家臣団編成などで対立した。この年実季は、伊勢国朝熊山(現三重県伊勢市、伊勢神宮の山宮)で蟄居の身となる。本文書は、当時の伊勢山田奉行から藩主俊季に対する書簡で、大御所秀忠・将軍家光の「御前悪しき」ため内々で対処した様子が記され、実季の処分の不透明さを示している。(秋田家蔵品)もどる

7-12)宗実公和歌(そうじつこうわか) 寛永8年(1631)

朝熊に蟄居の身となった実季の和歌。「誰に預けられるでもなく、老年の隠居というわけでもなく、御勘当というのでもなく」(羽賀寺住職宛書簡)、ひたすら配所で過ごす「憂き世」状態は、逝去までの三十年近く続く。その間の実季の生活は、薬の調合に長け万金丹が評判となったことや、自身の像を刻んだ逸話などが後世に伝えられている。(秋田家蔵品)もどる

7-13)秋田系図 万治元年(1658)成立

死の前年に、実季によって作成された系図。俊季が提出し幕府公認となった『寛永諸家系図伝』中の秋田家系図が、愛季を湊安藤氏の流れであるかのように位置づけるのに対し、下国安藤氏の出身であることを明示する。各々の記述を見ていくなら、朝廷と対立した北奥の王者としての由緒を誇る一方で、天皇家や朝廷の忠臣であった過去を捏造するような、相反する感情が読み取れる。(秋田家文書) もどる

7-14)安倍頼季口宣案ほか(あべよりすえくぜんあん)

秋田頼季(1696〜1743)は三春秋田家第4代藩主で、正徳5年(1715)に家督を継ぐ。代々の例により朝廷から従五位下に任ぜられ、主水正の官職を得た時発給された口宣案(宿紙と呼ばれる灰色の紙を用いる)・宣旨・位記である。なお、「安倍」は秋田氏の本姓とされた。本館には、頼季以下九代にわたる任官の文書が残されている。 (秋田家蔵品) もどる

7-15)孝季公御居判形(のりすえこうおんすえはんのかた

秋田孝季(1786〜1844、第9代藩主)治世期の三春藩は、天保2年(1831)に赤子養育制度の廃止に追い込まれるなど、深刻な財政難に直面していた。ここに展示したのは、そうした時期に用いられた、花押の形をした印である。版刻花押は中世後期から多く用いられ、近世の印判使用の先駆となり、現在の署名捺印の習慣にも到っている。 (秋田家蔵品) もどる


8 特別展示

8-1)エウクレイデス(ユークリッド)幾何学原論 1482年刊
Elementa geometriae lat. Cum Campani amotationibus
[Venice, Erhardus Ratdolt, 1482] [137] leaves; ill, 31 cm

科学史上不滅の業績をいわれるエウクレイデスEucleides(B.C.300年頃アレクサンドリア)の「幾何学原論」。15世紀の後半になって活字本としてはじめて世に出された。アラビア語からラテン語に翻訳され、イタリアのヴェネチアで発行されている。いまでは数少ないインキュナビラ(15世紀活字本)の一つでもある。表紙は、背革板紙装であるが、これは、後年の改装で、タイトルページはない。 もどる

8-2)関流和算免許状 3巻

和算は、明治維新前にわが国で独自に展開された数学であり、関孝和(せきたかかず 〜1708)、建部賢弘(たけべかたひろ 1664〜1739)の時代には欧州と背を並べるまでに発達した。 関孝和を始祖とする関流は、和算界を席巻した。関流には、見題免許、隠題免許、伏題免許、別伝免許、印可免許と名づけられた五段階の免許制度があり、各目録を授けて免許の証左とした。関孝和、荒木村英、松永良弼、山路主住、安島直圓、日下誠、内田五観、北川朝鄰と続いた関流は、明治43年、大正2年および大正5年、北川朝鄰から林鶴一(1873〜1935 本学理学部初代教授)に最後の免許が授けられ終焉をむかえた。 見隠伏題免許、別伝免許、印可免許は、林鶴一の子息林義昭、林五郎氏が本学理学部数学教室に寄贈された。 (林文庫) もどる