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皆さんは、普段食べている野菜についてその歴史を知っていますか?現代日本に流通する野菜は、元々日本にあった野菜の方が少ないのです。この展示では、「江戸の野菜」というテーマで、昔の日本人が食べていた野菜や、消えた野菜、今の野菜などを、図書館資料を使って紹介します。
I, 日本の野菜にも色々ある
皆さんが普段食べている野菜は、野菜毎に色々な歴史があります。それらを大まかに大別すると下の様になります。
続きは展示をご覧下さい。
分類 渡来年代 代表的な野菜 1, 古代からある野菜 − 里芋・山芋・ゴボウ・大豆 2, 中世外来野菜 安土時代 カボチャ・ホウレンソウ 3, 明治外来野菜 明治 ニンジン・白菜 4, 戦後広まった野菜 明治 トマト・レタス・キャベツ 5, 消えた野菜 − 三河島菜・甜瓜・芭蕉菜など
II, 消えた野菜
たった200年前の江戸時代に食べていた野菜でも、既に絶滅しているものが数多くあります。・・・
III, 外来の野菜
皆さんが普段食べている現代の野菜は、食文化の変化や栽培物の変化により、江戸時代には存在しなかったか食べられていなかったものが数多くあります。・・・
IV 農書に見る江戸野菜栽培
江戸時代は、戦乱の無い時代という事もあり農業技術が向上し、技術をまとめたテキスト=農書が多く書かれた時代でもあります。それらを覗いてみると江戸時代の野菜栽培は、現代農業とはとても異なるものということが分かります。・・・
小説家・太宰治(1909〜1948)は、2009年に生誕100年を迎えました。2009年は太宰治に関連する書籍が数多く刊行されたり、その小説が相次いで映画化されたりなど、改めてその人間像や作品に注目が集まった年となりました。 今回の常設展では、太宰治の単行本初版(復刻版)を中心に紹介いたします。すでに太宰治の文学に親しんでいる方、これからはじめて太宰治の作品を手にとってみようと思う方など、「青春期の文学」と呼ばれることもある太宰治の魅力の一端に触れていただければと思います。
幕末、近代日本の水先案内人の役割をはたしたもののひとつに、日本人の手による外国語対訳辞書がある。辞書は明治に入ると続々と登場するが、江戸時代のものはそれほど多くない。今回は特に重要な位置を占めているものを、本学所蔵の狩野文庫から出展する。 背景として江戸時代後期の外国語政策・外国語教育の事情に触れておこう。鎖国下、日本人が学ぶ外国語といえばオランダ語と中国語であった。しかし文化5年(1808)の「フェートン号事件」を境に状況が変化する。オランダを併合したフランスと敵対するイギリスの軍艦フェートンが、オランダ船捕獲のため長崎を襲ったのである。その衝撃は、長崎奉行が防備の不始末により引責切腹したほどであった。この事件を契機に、幕府は和蘭通詞(通詞とは通訳のこと)たちに英・仏・ロシア語の学習を命じる。また、英仏の学術・文化の地位の向上も要因となり、洋学の中心がオランダ語からフランス語、そして英語へと移っていく。幕末には、英和辞書がベストセラーとなり高値で取引されるという、英語学習のブームも起こった。 以上のような流れを考慮し、本展示は英語および仏語辞書中心の出展とした。
日本で最も早い時期に作られた英和・和英辞書。原著はAn English and Japanese, and Japanese and English Vocabulary, compiled from native works(イギリス人宣教師W.H.Medhurst(1796-1857)著)。原著者は来日の経験がないうえ、英語も日本語も知らない中国人の石版工を助手に用いて原著を作成したと言われている。そのような経緯があるものの、『英語箋』はわが国の英語研究史上に残る名著に位置づけられている。翻刻者村上英俊(1811-1890)は、医学、漢学、蘭学に通じたフランス語学者(本展示『仏語明要』も参照)。わが国におけるフランス語研究の草分け的な存在として知られている。彼の知識は広く英語にも及び、本書の翻訳と編纂に尽力した■英米対話捷径(えいべいたいわしょうけい) 中浜万次郎訳 安政6年(1859)
日本で最初の英語会話の本。「捷径」とは近道の意味。著者の中浜万次郎(ジョン万次郎)(1827-1898)は、アメリカでの約10年の滞在経験から英語のつづりにとらわれず、自分の耳で聞いた音でカナをふった。例えば、“I am sorry to hear that”は「アイ アム ソレ ツ ヘヤ ザヤタ」、“He must take great care of himself”は「ヒー マスー テキ グレイト ケヤー ヲフ ヒムシヤラ」とある。声に出して読んでみると現代の英語のフリガナよりも英語らしく聞こえる、とも言われる。 中浜万次郎は天保12年(1841)、14歳のとき、操業中に漂流し、南海の孤島に漂着しているところを米国の捕鯨船に奇跡的に救出され、日本人として初めて米国大陸に上陸した人物。帰国後は士分に取り立てられ、嘉永6年(1853)、米国のペリー提督が日本に開国を要求した際、幕府直参として国家の難事に尽くした。■増訂 華英通語(ぞうてい かえいつうご) 子卿撰 福沢諭吉補 万延元年(1860)
福澤諭吉(1834-1901)が幕府遣米使節に随行した際、 清の商人から譲り受けた『華英通語』(子卿撰)に和訳を加え翻刻したものが初刷。本書は初刷の2冊本を1冊にまとめた再刷本。英単語を46類に分類し、 枠ごとに筆記体で単語を挙げ、 それらの上部に片仮名で、 下部に漢字で音注を示し、 右側に中国訳、片仮名の和訳が示されている。 片仮名の音注と和訳が福澤諭吉による増補の部分である。■改正増補 英和対訳袖珍辞書(かいせいぞうほ えいわたいやくしゅうちんじしょ) 堀達之助等編 慶応2年(1866)
『英和対訳袖珍辞書』(文久2年(1862))は、公刊された英和辞書としてはわが国初のもの。A New Pocket Dictionary of the English-Dutch and Dutch-English Languages(H.Picard著、1857年第2版)の英蘭部を使い、蘭語を和訳したものである。袖珍とはポケットの意味。英語見出し3万5千語に及ぶ。編集主任の堀達之助(1823-1892)は和蘭通詞(通詞とは通訳のこと)出身。本書は慶応2年に刊行された改正増補版。200部の初版が需要に応じきれず、改正増補版が1000部刊行された。なお、それもたちまち売り切れ、翌年に再版が発行されている。幕末から明治初期にかけては、英和辞典は本書のように英蘭辞典に依存して作成されるものが多かった。■仏語明要(ふつごめいよう) 村上英俊著 元治元年(1864年)
わが国初の本格的な仏和辞典。全4巻で総語彙数は3万5千余り。右綴じ横書きで、アルファベット順に語彙を配列し、品詞の区別、動詞の活用などの面で、著者村上英俊(1811-1890)が以前に編纂した『三語便覧』(さんごびんらん、嘉永7年(1854))『五方通語』(ごほうつうご、安政3年(1856))などに比べ、大きな進展が見られる。■唐話纂要(とうわさんよう) 岡島冠山(璞)編 享保元年(1716)序
中国語の会話辞書。本格的なものとしてはわが国初と言われる。享保元年に5巻5冊で刊行され、その後享保3年に第六巻が増補。第一巻は二字話、三字話の語彙に発音、アクセントを付している。第二巻は四字話、第三巻は五字話及び六字、話第四巻は長短話、第五巻は親族に関する語彙、そして第六巻で「和漢奇談」を、それぞれ扱っている。 著者岡島冠山(1674-1728)は荻生徂徠(1666-1728)に唐話(中国語)を教授したことでも知られる。
(資料解説・掲載準備中)
お茶について書かれた書籍の最古のものは、中国唐代末の文人陸羽(りくう)(733-804)の「茶経(ちゃきょう)」(760)で、当時の中国では飲茶の習慣が広く行き渡っていたことが分かります。この頃の茶は団茶(だんちゃ:固形茶)といわれ、薬研(やげん)で粉にして熱湯・塩を加えて飲むというものでした。
最初に日本に茶を伝えたのは平安時代の最澄(767-822)で、遣唐使として渡った中国から茶種を持ち帰り、比叡山麓の坂本に植えたのが始まりでした。
815年嵯峨天皇が近江国韓崎(大津市)の梵釈寺に行幸した時、崇福寺の大僧都永忠(えいちゅう)(742-816)が自ら茶を煎じてさしあげたというのが飲茶の記録としては最初のものです。(「日本後紀」)この時の茶も唐の茶と同じ団茶で、当時喫茶は寺院の儀礼的なものでした。
鎌倉時代の禅僧栄西(1141-1215)が宋の茶を伝えて、禅宗の茶礼として飲茶が薬用とされるようになりました。茶は抹茶となり、茶筅(ちゃせん)でかきまぜて飲む方法に変わりました。この方法は、今日、日本にのみ残っています。栄西は将軍源実朝に、茶一服に副えて茶徳を讃える書「喫茶養生記」を献じて大変喜ばれました。こうして、喫茶は武家社会に広まっていきました。その後、お茶を飲む習慣は一般にも広がり、次第に嗜好品へと変化して行きました。
戦国時代に入ると、南都称名寺の僧村田珠光(1423-1502)は、一休宗純に参禅し、茶禅一味のわび茶が創始されました。また、足利義政の会所を飾る道具類の秘伝書「君台観左右帳記」の相伝を能阿弥から得ました。
珠光よりほぼ1世紀後の茶人である武野紹鴎(1502-1555)は、戦国時代の軍需産業である皮革の商売を営む堺の富豪の家に生まれ、珠光の侘茶を引継ぎ、より深く侘茶の成立に努めました。侘びの極意を訪ねた門人に「見渡せば花も紅葉もなかりけり裏の苫屋の秋の夕暮れ」と藤原定家の歌を引用して答えた話はよく知られています。
紹鴎の形成した侘びの茶の湯は、その弟子千利休(1522-1591)に至って大成されました。門弟に侘茶の理念を問われ「花をのみ待つらん人に山里の雪間の草の春を見せばや」と藤原家隆の歌で説明したそうです。
利休の茶の湯は、時代が安土桃山から江戸へと移る中で大きく変化していきました。利休七哲の一人古田織部(1544-1615)は、将軍秀忠に召されて台子茶湯を伝授し茶道師範として仕えました。この書院台子の茶は、織部の弟子小堀遠州(1579-1647)へ、さらに片桐石州(1605-1673)から石州の門人へと受継がれ幕末まで続きました。
明治維新になると、封建的権力につながる全てのものが没落しました。大名茶の系譜をひく抹茶の諸流も例外ではありませんでした。これに対し煎茶が隆昌を極めますが、それが却って遊びの場となり、その心を失う事になりました。三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)のうちで最長老であった裏千家玄々斎(1810-1877)は、明治の風潮にふさわしい茶式の改良に努め、椅子点(立礼式)を考案し、旅行の頻繁化するのを予想して茶箱点も制定しました。
その後、茶道は三千家を中心に諸流派それぞれに伝統を引継ぎ現代に至っております。
お茶は、それぞれの時代の政治・経済・社会・文化に影響され、かつ多大な影響を与えているということがよく分かります。
唐代末の文人、陸羽(733〜804)の10篇3巻からなる、茶書としては最古の著作(760年)の補刻本である。内容は、巻上:(1)茶の源 (2)茶をつくる具 (3)茶の造り方、巻中:(4)茶器について、巻下:(5)茶のたてかた (6)茶の飲みかた (7)茶の記事 (8)茶の産地 (9)略式の茶道 (10)茶の図、からなり、「茶は、南方の嘉木なり。一尺二尺、すなはち至ること数十尺。...」とある。■喫茶養生記 元禄本(再治本) 人見理兵衛版
唐代の喫茶法は、団茶法といわれるもので、この団茶の造り方、煮方、飲み方ついて記述するとともに、そのための道具について説明している。日本に初めて伝えられたのも、この団茶法である。
栄西(1141〜1215)は日本臨済宗の開祖であり、2度にわたり入宋。当時の宋の喫茶法は、抹茶を茶筅で点てるものになっていた。帰朝の際持ち帰った茶種は、平戸背振山石上坊に蒔かれ一山に繁茂した。独立した茶書としては我が国最初のものである。上巻:五臓和合門、下巻:遺除鬼魅門からなる。「茶は養生の仙薬なり。延命の妙術なり。山谷之を生ずればその地神霊なり。人倫之を採れば、その人長命なり。...」とあり、人間の肉体的健康と精神安定のための、茶の効能を述べている。■君台観左右帳記 巻子本 複製
『吾妻鏡』(鎌倉幕府の記録書)の建保2年(1214)2月4日の条に、将軍源実朝が宿酔で苦しんでいた時に、栄西が加持を行う葉上の僧正として御前に伺い、良薬として茶一箋を勧める。この時、茶に添えて茶徳を誉える書一巻を献じ実朝に喜ばれた(この書一巻が、『喫茶養生記』である)。
将軍足利義政の会所の諸室を飾るために用いた唐物、特に画人に関する品評と書院飾りの次第を収めている。室町時代、文明・永正の頃に成立した座敷飾の秘伝書であり、唐物による座敷荘厳の方式を図入りで説明した部分が中心となっている。■茶祖珠光伝 附茶系 釈巨妙子撰 写本
ここに展示のものは複製であるが、このほかに当館では、筆写年代のわかっている内では最も古いとされる写本を所蔵している。それは永正8年(1511)10月16日に真相(相阿弥)(?〜1525)が源次吉継なる者に書き与え、それを大永6年(1526)に円深なる者が証明した原本(あるいは写本)をさらに永禄2年(1559)に写したものである。内容は以下の通りである。
画人の部(前半):呉・晋・陳、唐−元の画家176名を上中下に三品等別して列記。
飾次第・器物の部(後半):画幅と諸道具の座敷飾の方法を文と図で説明。末尾に漆・銅・陶器の名称の解説と形を記述。
南都称名寺の僧であった村田珠光(1423〜1502)は、茶湯者を志して上洛、能阿弥(1397〜1471)から将軍家茶湯を受け、一休宗純(1394〜1481)に参叩。珠光は、南都の民衆的な茶寄合の一つであった「淋汗茶湯」(風呂と茶の湯が組み合わされた全くのレクリエーション)の中に育った。また、茶数寄の道をも極めて『君台観左右帳記』の相伝を能阿弥から得るなど、殿中の茶にも強く心引かれていた。このように2つの道を極めた珠光のもとには、門弟も集まり、2つあった茶の道が1つの大きな道に統一されていった。2つの階級的に対立した茶の道とは、婆娑羅の茶(貴族的な「花数寄」とよばれる道具本意の茶)と雲脚の茶(民衆的な「わび茶」)である。■北野茶会記 西田直養 弘化4年(1847) 大坂 会津屋 平七
本書は天正15年(1587)10月1日、豊臣秀吉が北野の森(北野神社境内の松原)で開催した大茶会の会記で、当茶会は、秀吉の企画、千利休(1522〜94)の演出という形で催された。利休は、東山殿の同盟衆であった田中千阿弥の子、与兵衛の長子として和泉堺に生まれ、与四郎と称した。「千」は氏で、「利休」の名は堺南宗寺の大林宗套から与えられた居士号であり、法名は宗易、抛筌斎である。■南坊録 南坊宗啓編 立花実山補 大正9年(1920) 細川開益堂
若い頃から茶の湯に親しみ、17歳で北向道陳(1504〜62)、後に武野紹鴎(1502〜55)に師事し、京都大徳寺の古渓宗陳(1532〜97)に参禅。織田信長の茶頭となり、のち豊臣秀吉に仕えた。
利休は、黄金の茶室の設計を行う一方、楽茶碗の製作・竹の花入の使用等侘び茶の完成へと向おうとする、茶人としての名声の絶頂期に突然秀吉の勘気に触れ、堺に蟄居を命じられ、天正19年(1591)自刃に至るのである。
本書は利休茶湯秘伝書である。利休の高弟、南坊宗啓の聞書で、利休が証語を加えたといわれる。「覚書」、「会」、「棚」、「書院」、「台子」、「墨引」、「滅後」の7巻より成る。■茶話指月集 写本 天保11年(1839)
利休自刃後、その記録は南坊宗啓とともに行方不明となっていたが、それから約百年後の貞享3年(1686)秋、立花実山(1655〜1708)は、3代藩主黒田光之の参勤交代の途中、瀬戸内海の蒲刈で千利休の茶道の教えを記録した茶書に出会い、その書写を依頼して江戸に向かう。それから数ヶ月後の正月、依頼した茶書5巻が、江戸桜田屋敷の実山の元に届けられた。
実山は、元禄3年(1690)堺の南坊宗啓の遺族、納屋宗雪に会い、さらに2巻を書写する。後日、この7巻を清書して茶書のタイトルを『南方録』として大事に残した。これが現在福岡市「円覚寺」に所蔵されている『南方録円覚寺本』と言われるものである。
本書は、千利休(1522〜91)の言動を直接見聞きしていた孫の千宗旦(1578〜1658)が、利休が語った茶人の言動や茶花、名水、茶室、庭などを藤村庸軒(1616〜99)に伝え、それを久須美疎安(1636〜1728)が記録編纂した逸話集であり、元禄14年(1701)に木版で刊行された。■大字古織伝 図入本
内容は、以下の通りである。
上:利休、新時代の茶法を披露。利休、初の茶会に道陳を招く。植裁は何を選ぶか他
下:利休と家康。格の中次。わびの棗。蓋の合わない茶入れ他。
疎安「名物記」:京都所在の名物道具集。後鳥羽天皇の画像。金輪寺の茶器他
古田織部(1543〜1615)は、豊臣秀吉の家臣で、若い頃から千利休に茶を学んだ。利休が秀吉の勘気にふれ死を覚悟して堺に下る時に、一人で利休を淀まで見送ったことでも有名である。織部は利休の死後、天下の茶匠として大名茶の系譜を開き、2代将軍徳川秀忠に召されて台子茶湯を伝授し茶道指南として仕えた。瀬戸の今焼きのひずみたる茶碗を「ヘウケモノ」などと称して茶会に用いるなど、侘びを人工で創出し、利休の時代、禅などの宗教的な意味をおびていた茶を遊芸的なるものに変えたと考えられる。■遠州公所持名貨帖伝 写本 図入本
大坂夏の陣で大坂方に内応の嫌疑を受けた時、一切の弁明をせずに切腹して果てた点では、千利休の精神を正しく受け継いでいたとも言える。織部の弟子が小堀遠州(1579〜1647)である。
本書は小堀遠州(1579〜1647)が所持していた名物の道具類を詳細な図入りで記述したものである。遠州は、はじめ豊臣秀長の家臣であったが、やがて徳川幕府のもとで大名となり、織部の創作的な茶の湯を受け継いだ。しかし織部の激しいアンバランスな美意識とは対照的に、安定した新しい時代にふさわしい優美で均衡のとれた「きれいさび」といわれる新たな茶の湯を創造した。この大名茶の系譜は、後に片桐石州(1605〜73)へ引き継がれ、さらに石州から石州の門人へと江戸時代を通じて継承されて行った。■売茶翁茶器図記集 撰者不詳 写本 巻子本
売茶翁高遊外(1675〜1763)は、肥前蓮池の武士の家に生まれ、11歳で黄檗山万福寺の末寺に出家した。宇治に万福寺を建立した黄檗の開祖隠元禅師を煎茶の祖とすれば、売茶翁は中興の祖と言える。本書は、売茶翁の使っていた煎茶道具を図入りで記述したものである。■千家諸寸法書 写本 川上不白写 3冊
翁の売茶生活の方法は、移動茶店とでもいうべきもので、洛中洛外の佳勝の地を季節に応じてあちらこちら選び、自分で担える程度の煎茶道具を運んで、茶を煎じて売というものであった。
享保20年(1735)、60歳で京都に通仙亭を構え、「清風」の茶旗を掲げて煎茶による売茶活動を行った。腐敗した禅僧社会と茶の精神を失っていた抹茶に対する強い批判から、煎茶の人々には「茶経」への懐古が高まっており、当時の煎茶精神の大成に寄与した。『梅山種茶譜略』を著し(梅山は栂尾山のこと)、89歳の高齢をもって大往生した。
川上不白(1719〜1807)は紀州新宮で生れ、紀伊藩江戸詰家老水野家の家臣として江戸に出た。将軍吉宗によって、京都へ茶の湯の修業に送られ、表千家七代如心斎に師事。大徳寺大龍和尚に参禅、始め宗雪、のち不白と号した。本書は不白の書写による千家諸道具の寸法書(図入本)である。■Okakura Tenshin, "The book of tea." T.N.Foulis 1919(岡倉天心著『茶の本』)
寛延3年(1750)江戸下向、上方から江戸へという経済や文化の流れのなかで、武家社会とそれに連なる町人社会に茶を広めた。不白の茶は江戸に集まる大名達にも受け入れられ、各々の国元にも伝えられた。
一方、不白自身も江戸の町人文化の影響を受けながら京都とはまた違った江戸前の茶風(江戸千家)をつくりあげ、やがて不白の茶は江戸の一般庶民達の間にも広まっていった。
岡倉天心(1862〜1913)は、文久2年(18--)横浜に生まれ、幼名を角蔵といい、覚三と称した。28歳で東京美術学校長を命じられ、明治37年(1904)ボストン美術館へ招かれた。明治39年ニューヨークで「茶の本」を英文で出版し、海外に茶の湯と日本文化を紹介した。邦訳は、昭和2年(1927)4月になって初めてなされ、本書に描かれた茶の精神が、日本人にも深い感動を呼び起こし、それまで富豪の遊芸としか考えられなかったお茶への認識を新たにするのに役立った。「茶の本」は、茶道を中心とした日本文化論となっており、日本の茶書の集約点に位置するものと言える。
展示内容: 今回の展示では、明治・大正期に発表・刊行された小説、詩集・歌集、文学雑誌をとりあげ、 その挿し絵や装丁など、「もの」としての本の魅力に注目してみたいと思います。 明治・大正時代を模索的に生きた作家・詩人たちは、文学の創造をとおして自分を表現しよう と試みました。その試行錯誤の軌跡は作品はもちろんのこと、「もの」としての本にも反映 されているように思います。作家・詩人たちの多くは自己表現としての作品にふさわしい 挿し絵や装丁をのぞみ、画家や装丁家と共同して作品を一つの本に仕上げました。 作家と画家、その個性の交歓、共演の舞台をお楽しみください。(*この展示は終了しました。) 主な展示資料: (第1期) 『当世書生気質』、『浮雲』、『たけくらべ』、『金色夜叉』、『青年』、『吾輩は猫である』 など、小説作品の復刻版を中心に約20点 (第2期) 『若菜集』、『海潮音』、『邪宗門』、『みだれ髪』、『月に吠える』、『青鞜』、『ホトトギス』 『明星』など、詩集・歌集・文学雑誌の復刻版を中心に約25点
展示内容:江戸期の棋書(『国手伝記』、『碁経衆妙』、『国技観光』など) を中心に、我が国における囲碁の伝来から発展・普及の歴史を、 絵巻物や風俗図絵など、展示資料約20点を通して垣間見る。
「らいぶらりNOW no.129」にてご案内しています。
奇抜なアイディアと優れたデザイン感覚による、機知に富んだ絵を、本館が所蔵する「狩野文庫」から集めました。
その大半は、18世紀後半に発生・流行した「見立絵本」と呼ばれるもので占められます。「見立」とは、異なるものの間にある類似性を見いだしてなぞらえるもので、連想を愉しむ遊びとも言えます。
今回は、絵を成す素材や完成品により、対象資料を「文字」「意匠」「物」の3つに分類して展示します。
「文字」については「へのへのもへじ」が現代にも息づく「文字絵」と洒落のおもしろさを、「意匠」については身近なものを模様に仕立てるユニークな発想を、「もの」については「見立絵本」のさきがけと言われる『見立百化鳥』や、同様に「もの」を組み合わせて事物を表現している資料をご紹介します。
▼開催日程 第1部: 文字絵と意匠 12/25 〜 2/28 第2部: 物を組み合わせる 3/ 1 〜 3/29 総集編 4/ 2 〜 4/30 ▼主な展示内容 第一部(文字絵): ・文字繪指南(つるマムシ道人) ・略畫早指南(葛飾北斎) ・寄妙圖彙(山東京伝) ・旡筆節用似字盡(曲亭馬琴) ・根無艸四十八文字(久多良圖屋登無知喜) ・[バカムラ]嘘字盡(式亭三馬) ・畫はなし當時梅(浪華一九) ・滑稽噺圖繪(豐菊丸) 第一部(意匠): ・滑稽漫畫(暁鐘成) ・<當世雛形>紺名小紋集(山東京伝) ・<當世>滑稽紋帳(木乃屑坊) ・花枝染(四方山酒樂亭) ・新形小紋帳(葛飾為一) 第二部(物を組み合わせる) ・見立百化鳥(漕川小舟) ・畫圖百花鳥(狩野探幽) ・續百化鳥(古面堂) ・繪本木に鳥 前編(木林山人) ・百化帖準擬本草(山東京伝) ・養得[タリ]名鳥圖曾(曲亭馬琴) ・造物趣向種 初編(松川半山) ・造物趣向種 二編(松川半山) ・狂文寶合記(北尾政美画) ・寶合圖説(田原米主画) ・教訓 繪兄弟(山東京伝) ・<青楼和談>新造圖彙(山東京伝)
皆さんは、普段食べている野菜についてその歴史を知っていますか?現代日本に流通する野菜は、元々日本にあった野菜の方が少ないのです。この展示では、「江戸の野菜」というテーマで、 昔の日本人が食べていた野菜や、消えた野菜、今の野菜などを、図書館資料を使って紹介します。
日本の野菜は、古代からあるもの、安土桃山時代に南蛮から輸入したもの、明治初期に輸入したもの、戦後市場に広まったものがあります。また江戸時代にはよく食べられていたものが廃れて、絶滅してしまったものがあります。これらを江戸時代の文献を通して紹介する展示です。またこれらの江戸野菜の栽培について、当時の農業書(農書)を通してその思想に触れてみたいと思います。
さて皆さんが昨日食べた野菜は、いつ日本にやってきたものでしょうか?
[展示資料一覧] タイトル 著者 請求記号(狩野文庫) ・『本草圖譜附索引』 岩崎常正 8-21610-95 <古代からある野菜> 巻47 里芋 巻13 悪実=牛蒡 <消えた野菜> 巻68 甜瓜 巻43 菘 <外来の野菜-江戸時代の原型を止めないもの> 巻50 南瓜 巻45 菠薐 巻30 玉蜀黍 <外来の野菜-戦後、市場に広まったもの> 巻49 藤茄=トマト 巻46 萵苣=レタス 巻16 甘藍=キャベツ <江戸時代の農書> ・『成形圖説』 島津重豪 6-19125-30 巻4 農事部 巻21 菜蔬部 小蕪・紫長蕪 ・『(改定)農業全書』 宮崎安貞編輯 6-19161-10 貝原楽軒刪補 岡澤三中改定 ・『培養秘録』 佐藤信淵 6-19166-7
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