東北大学附属図書館 夏目漱石ライブラリ


■9月24日


 初めはたゞ漠然と空を見て寐てゐた。それから暫くして何時帰れるのだらうと思ひ出した。或時はすぐにも帰りたい様な心持がした。けれども床の上に起き直る気力すらないものが、何うして汽車に揺られて半日の遠きを行くに堪へやうかと考へると、帰りたいと念ずる自分が可成馬鹿気て見えた。従つて傍のものに自分は何時帰れるかと問ひ糺した事もなかつた。同時に秋は幾度の昼夜を巻いて、わが心の前を過ぎた。空は次第に高く且蒼くわが上を掩ひ始めた。
(「思ひ出す事など」三十二)
(『漱石全集』 第12巻)


※解説: 漱石は明治43年5月頃から胃の不調を訴え、長与胃腸病院で診察を受けた結果、胃潰瘍の疑いありと診断された。当病院に6月中旬から7月下旬まで入院し、8月6日には門下生・松根東洋城の誘いにより、静岡県伊豆修善寺温泉に療養のため出かけた。しかし修善寺温泉に到着後すぐに体調不良を訴え、病の床に就くことになり、8月24日の晩には大量の吐血をし、一時危篤状態に陥った。いわゆる「修善寺の大患」である。漱石は、10月10日まで修善寺に滞在し、帰京後は再び長与胃腸病院に入院した。「思ひ出す事など」は、帰京後間もない明治43年10月29日から『朝日新聞』に連載された随筆である。
※「漱石文庫」関連資料: 修善寺の大患日記
参考文献



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