東北大学附属図書館 夏目漱石ライブラリ |
■8月31日 余は当時十分と続けて人と話す煩はしさを感じた。声となつて耳に響く空気の波が心に伝はつて、平らかな気分をことさらに騒つかせるやうに覚えた。口を閉じて黄金なりといふ古い言葉を思ひ出して、ただ仰向けに寐てゐた。難有い事に室の廂と、向ふの三階の屋根の間に、青い空が見えた。其空が秋の露に洗はれつゝ次第に高くなる時節であつた。余は黙つて此空を見詰めるのを日課の様にした。さうして余の心にも何事もなかつた、又何物もなかつた。透明な二つのものがぴたりと合つた。合つて自分に残るのは、縹渺とでも形容して可い気分であつた。 (「思ひ出す事など」二十)
(『漱石全集』 第12巻)
※解説: 漱石は明治43年5月頃から胃の不調を訴え、長与胃腸病院で診察を受けた結果、胃潰瘍の疑いありと診断された。当病院に6月中旬から7月下旬まで入院し、8月6日には門下生・松根東洋城の誘いにより、静岡県伊豆修善寺温泉に療養のため出かけた。しかし修善寺温泉に到着後すぐに体調不良を訴え、病の床に就くことになり、8月24日の晩には大量の吐血をし、一時危篤状態に陥った。いわゆる「修善寺の大患」である。「思ひ出す事など」は、帰京後間もない明治43年10月29日から『朝日新聞』に連載された随筆である。 ※「漱石文庫」関連資料: 修善寺の大患日記 ※参考文献 |
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