東北大学附属図書館 夏目漱石ライブラリ


■8月2日


 私は出来るだけ父を慰めて、自分の机を置いてある所へ帰つた。私は取り散らした書物の間に坐つて、心細さうな父の態度と言葉とを、幾度か繰り返し眺めた。私は其時又蝉の声を聞いた。其声は此間中聞いたのと違つて、つく/\法師の声であつた。私は夏郷里に帰つて、煮え付くやうな蝉の声の中に凝つと坐つてゐると、変に悲しい心持になる事がしば/\あつた。私の哀愁はいつも、此虫の烈しい音と共に、心の底に沁みる込むやうに感ぜられた。私はそんな時にはいつも動かずに、一人で一人を見詰めてゐた。
(『こゝろ』四十四)
(『漱石全集』 第9巻)


『こゝろ』
参考文献



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