東北大学附属図書館 夏目漱石ライブラリ


■7月29日


 「何つちが先へ死ぬだらう」
 私は其晩先生と奥さんの間に起こつた疑問をひとり口の内で繰り返して見た。さうして此疑問には誰も自信をもつて答へる事が出来ないのだと思つた。然し何方が先へ死ぬと判然分つてゐたならば、先生は何うするだらう。奥さんは何うするだらう。先生も奥さんも、今のやうな態度でゐるより外に仕方がないだらうと思つた。(死に近づきつゝある父を国元に控えながら、此私が何うする事も出来ないやうに)。私は人間を果敢ないものに観じた。人間の何うする事も出来ない持つて生まれた軽薄を、果敢ないものに観じた。
(『こゝろ』三十六)
(『漱石全集』 第9巻)


参考文献



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