東北大学附属図書館 夏目漱石ライブラリ


■7月27日


 「御病人を御大事に」
 「また九月に」
 私は挨拶をして格子の外へ足を踏み出した。玄関と門の間にあるこんもりした木犀の一株が、私の行手を塞ぐやうに、夜陰のうちに枝を張つてゐた。私は二三歩動き出しながら、黒ずんだ葉に被はれてゐる其梢を見て、来るべき秋の花の香を想ひ浮かべた。私は先生の宅と此木犀とを、以前から心のうちで、離すことの出来ないものゝやうに、一所に記憶してゐた。私が偶然其樹の前に立つて、再びこの宅の玄関を跨ぐべき次の秋に思を馳せた時、今迄格子の間から射してゐた玄関の電燈がふつと消えた。
(『こゝろ』三十五)
(『漱石全集』 第9巻)


参考文献



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