東北大学附属図書館 夏目漱石ライブラリ


■7月21日


 私は其人を常に先生と呼んでゐた。だから此所でもたゞ先生と書く丈で本名は打ち明けない。是は世間を憚かる遠慮といふよりも、其方が私にとつて自然だからである。私は其人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」と云ひたくなる。筆を執つても心持は同じ事である。余所々々しい頭文字抔はとても使ふ気にならない。
 私が先生と知り合になつたのは鎌倉である。其時はまだ若々しい書生であつた。暑中休暇を利用して海水浴に行つた友達から是非来いといふ葉書を受取つたので、私は多少の金を工面して、出掛る事にした。
(『こゝろ』一)
(『漱石全集』 第9巻)


『こゝろ』
参考文献



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