東北大学附属図書館 夏目漱石ライブラリ


■6月30日


 「三千代さん、正直に云つて御覧。貴方は平岡を愛してゐるんですか」
 三千代は答へなかつた。見るうちに、顔の色が蒼くなつた。眼も口も固くなつた。凡てが苦痛の表情であつた。代助は又聞いた。
 「では、平岡は貴方を愛してゐるんですか」
 三千代は矢張り俯つ向いてゐた。代助は思ひ切つた判断を、自分の質問の上に与へやうとして、既に其言葉が口迄出掛つた時、三千代は不意に顔を上げた。其顔には今見た不安も苦痛も殆んど消えてゐた。涙さへ大抵乾いた。頬の色は固より蒼かつたが、唇は確として、動く気色はなかつた。其間から、低く重い言葉が、繋がらない様に、一字づゝ出た。
 「仕様がない。覚悟を極めませう」
(『それから』十四の十一)
(『漱石全集』 第6巻)


※「それから」は、東京朝日新聞に明治42年6月27日から10月14日まで連載された。
『それから』
参考文献



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