東北大学附属図書館 夏目漱石ライブラリ


■6月28日


 代助は、百合の花を眺めながら、部屋を掩ふ強い香の中に、残りなく自己を抛擲した。彼は此嗅覚の刺激のうちに、三千代の過去を分明に認めた。其過去には離すべからざる、わが昔の影が烟の如く這ひ纏はつてゐた。彼はしばらくして、
 「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中で云つた。斯う云ひ得た時、彼は年頃にない安慰を総身に覚えた。何故もつと早く帰る事が出来なかつたのかと思つた。始めから何故自然に抵抗したのかと思つた。彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔のなかに、純一無雑に平和な生命を見出した。其生命の裏にも表にも、慾得はなかつた、利害はなかつた、自己を圧迫する道徳はなかつた。雲の様な自由と、水の如き自然とがあつた。さうして凡てが幸〔ブリス〕であつた。だから凡てが美しかつた。
(『それから』十四の七)
(『漱石全集』 第6巻)


※「それから」は、東京朝日新聞に明治42年6月27日から10月14日まで連載された。
『それから』
参考文献



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