東北大学附属図書館 夏目漱石ライブラリ


■4月1日


 紅を弥生に包む昼酣なるに、春を抽んずる紫の濃き一点を、天地の眠れるなかに、鮮やかに滴たらしたるが如き女である。夢の世を夢よりも艶に眺めしむる黒髪を、乱るゝなと畳める鬢の上には、玉虫貝を冴々と菫に刻んで、細き金脚にはつしと打ち込んでゐる。静かなる昼の、遠き世に心を奪ひ去らんとするを黒き眸のさと動けば、見る人は、あなやと我に帰る。半滴のひろがりに、一瞬の短きを偸んで、疾風の威を作すは、春に居て春を制する深き眼である。此瞳を溯つて、魔力の境を窮むるとき、桃源に骨を白うして、再び塵寰に帰るを得ず。只の夢ではない。模糊たる夢の大いなるうちに、燦たる一点の妖星が死ぬる迄我を見よと、紫色の、眉近く逼るのである。女は紫色の着物を着て居る。
(『虞美人草』二)
(『漱石全集』 第四巻)


参考文献


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