東北大学附属図書館 夏目漱石ライブラリ


■3月21日


 段々春暖の候好い心持に候毎日小説を一回づゝ書いてゐると夫が唯一の義務の様な気がして何にも外の事をせず早く切り上げて遊んだり読書をしたりするのが楽みに候
 「雨の降る日」につき小生一人感慨深き事あり、あれは三月二日(ひな子の誕生日)に筆を起し同七日(同女の百ケ日)に脱稿、小生は亡女の為好い供養をしたと喜び居候
(明治45年(1912)3月21日(木) 中村古峡宛て書簡)
(『漱石全集』 第24巻)



 陰刻な冬が彼岸の風に吹き払はれた時自分は寒い窖から顔を出した人のやうに明るい世界を眺めた。自分の心の何処かには此明るい世界も亦今遣り過した冬と同様に平凡だといふ感じがあつた。けれども呼息〔いき〕をする度に春の匂が脈の中に流れ込む快さを忘れる程自分は老いてゐなかつた。
 自分は天気の好い折々室の障子を明け放つて往来を眺めた。又廂の先に横はる蒼空を下から透すやうに望んだ。さうして何処か遠くへ行きたいと願つた。
(「塵労」『行人』)
(『漱石全集』 第八巻)


参考文献



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