東北大学附属図書館 夏目漱石ライブラリ


■3月19日


 御前の顔は非常に太つて驚いた恒の目玉の大いにも驚いた筆の顔の変つたのにも驚いた自分の顔も大分変つたらうと思ふ然し自分にはわからない
(明治35年(1902)3月18日(火) 夏目鏡宛て書簡)
(『漱石全集』 第22巻)



 陰刻な冬が彼岸の風に吹き払はれた時自分は寒い窖から顔を出した人のやうに明るい世界を眺めた。自分の心の何処かには此明るい世界も亦今遣り過した冬と同様に平凡だといふ感じがあつた。けれども呼息〔いき〕をする度に春の匂が脈の中に流れ込む快さを忘れる程自分は老いてゐなかつた。
 自分は天気の好い折々室の障子を明け放つて往来を眺めた。又廂の先に横はる蒼空を下から透すやうに望んだ。さうして何処か遠くへ行きたいと願つた。
(「塵労」『行人』)
(『漱石全集』 第八巻)


参考文献



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