東北大学附属図書館 夏目漱石ライブラリ


■2月26日


 二月の末になつて、病室前の梅がちらほら咲き出す頃、余は医師の許を得て、再び広い世界の人となつた。振り返つて見ると、入院中に、余と運命の一角を同じくしながら、遂に広い世界を見る機会が来ないで亡くなつた人は少なくない。(中略)
 余は是等の人と、一つ屋根の下に寐て、一つ賄の給仕を受けて、同じく一つの春を迎へたのである。退院後一ケ月余の今日になつて、過去を一攫にして、眼の前に並べて見ると、アイロニーの一語は益鮮やかに頭の中に拈出される。さうして何時の間にか此アイロニーに一種の実感が伴つて、両つのものが互に纏綿して来た。鼬の町井さんも、梅の花も、支那水仙も、雑煮も――、あらゆる尋常の景趣は悉く消えたのに、たゞ当時の自分と今の自分との対照丈がはつきりと残る為だらうか。
(「病院の春」)
(以上、『漱石全集』 第十二巻)


※漱石は、明治43年夏の言わゆる「修善寺の大患」からの帰京後、明治44年2月末まで長与胃腸病院で療養していた。 ※参考文献


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