東北大学附属図書館 夏目漱石ライブラリ


■2月25日


 向ふ側の椿が眼に入つた時、余は、えゝ、見なければよかつたと思つた。あの花の色は唯の赤ではない。眼を醒す程の派手やかさの奥に、言ふに言はれぬ沈んだ調子を持つてゐる。悄然として萎れる雨中の梨花には、只憐れな感じがする。冷やかに艶なる月下の海棠には、只愛らしい気持ちがする。椿の沈んで居るのは全く違ふ。黒ずんだ、毒気のある、恐ろし味を帯びた調子である。(中略)あの色は只の赤ではない。屠られた囚人の血が、自づから人の眼を惹いて、自づから人の心を不快にする如く一種異様な赤である。
(『草枕』十)
(『漱石全集』 第三巻)



 枕元を見ると、八重の椿が一輪畳の上に落ちてゐる。代助は昨夕床の中で慥かに此花の落ちる音を聞いた。彼の耳には、それが護謨毬を天井裏から投げ付けた程に響いた。夜が更けて、四隣が静かな所為かとも思つたが、念のため、右の手を心臓の上に載せて、肋のはづれに正しく中る血の音を確かめながら眠に就いた。
(『それから』一)
(『漱石全集』 第六巻)




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