東北大学附属図書館 夏目漱石ライブラリ


■2月16日


 「夢だよ。夢だから分るさ。さうして夢だから不思議で好い。僕が何でも大きな森の中を歩いて居る。あの色の褪めた夏の洋服を着てね、あの古い帽子を被つて。――さう其時は何でも、六づかしい事を考へてゐた。凡て宇宙の法則は変らないが、法則に支配される凡て宇宙のものは必ず変る。すると其法則は、物の外に存在してゐなくてはならない。――覚めて見ると詰らないが、夢の中だから真面目にそんな事を考へて森の下を通つて行くと、突然其女に逢つた。行き逢つたのではない。向は凝と立つてゐた。見ると、昔の通りの顔をしてゐる。昔の通りの服装〔なり〕をしてゐる。髪も昔しの髪である。黒子も無論あつた。つまり二十年前見た時と少しも変らないといふと、其女は僕に大変年を御取なすつたと云ふ。次に僕が、あなたは何うして、さう変らずに居るのかと聞くと、此顔の年、此服装の月、此髪の日が一番好きだから、かうして居ると云ふ。それは何時の事かと聞くと、二十年前、あなたに御目にかゝつた時だといふ。それなら僕は何故斯〔こ〕う年を取つたんだらうと、自分で不思議がると、女が、あなたは、其時よりも、もつと美しい方へと御移りになさりたがるからだと教えて呉れた。其時僕が女に、あなたは画だと云ふと、女が僕に、あなたは詩だと云つた」
(『三四郎』十一の七)
(『漱石全集』 第五巻)


※『三四郎』の中の広田先生の言葉。広田先生は、明治22年(1889)2月16日、殺害された文部大臣森有礼の葬儀を見送る時、その参列の中に「十二三の奇麗な女」を見たという。その「小さな娘」のことを、「今日夢に見る前迄は、丸で忘れてゐた」が、「其当時は頭の中へ焼き付けられた様に、熱い印象を持つてゐた」と、三四郎に語る。
参考文献


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