東北大学附属図書館 夏目漱石ライブラリ


■10月12日


 空が空の底に沈み切つた様に澄んだ。高い日が蒼い所を目の届くかぎり照らした。余は其射返しの大地に洽ねき内にしんとして独り温もつた。さうして眼の前に群がる無数の赤蜻蛉を見た。さうして日記に書いた。−−「人よりも空、語よりも黙。・・・・・・肩に来て人懐かしや赤蜻蛉」
 是は東京へ帰つた以後の景色である。東京へ帰つたあとも暫らくは、絶えず美くしい自然の画が、子供の時と同じ様に、余を支配してゐたのである。
(「思ひ出す事など」二十四)
(『漱石全集』 第12巻)


※解説: 漱石は明治43年5月頃から胃の不調を訴え、長与胃腸病院で診察を受けた結果、胃潰瘍の疑いありと診断された。当病院に6月中旬から7月下旬まで入院し、8月6日には門下生・松根東洋城の誘いにより、静岡県伊豆修善寺温泉に療養のため出かけた。しかし修善寺温泉に到着後すぐに体調不良を訴え、病の床に就くことになり、8月24日の晩には大量の吐血をし、一時危篤状態に陥った。いわゆる「修善寺の大患」である。漱石は、10月10日まで修善寺に滞在し、帰京後は再び長与胃腸病院に入院した。「思ひ出す事など」は、帰京後間もない明治43年10月29日から『朝日新聞』に連載された随筆である。
※「漱石文庫」関連資料: 修善寺の大患日記
参考文献



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